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タモリと「笑っていいとも」

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タモリの記憶

この間のブラタモリは先週、先々週と2回に渡って下関と門司両側から関門海峡を扱っていた。関門海峡は自分にも身近な場所だけに興味深い部分も多かった。しかしそれ以上に興味深いのはタモリというタレントである。

タモリはいわゆるお笑いBIG3の一人であるが、彼のどこが凄いのか理解できないでいた。大きな笑いを生むわけでもないし、司会者として長けているともいえない。他の大御所と呼ばれる芸人と比べると、どうにも素人ぽいのである。

テレビに出だした頃のタモリについてはほとんど知らないし、興味もなかった。せいぜい何かのコマーシャルに出ていたくらいの記憶しかないのだ。その頃のタモリの過去映像を見るとただの一発芸人だ。だからタモリがどういう過程で人気物になり、大物になったのか不思議に思っていたのだ。

『笑っていいとも』の成功

おそらくBIG3の一角と呼ばれるようになったのは、『笑っていいとも』の成功があるのだろう。タモリについて書かれた資料を読むと、新しい形態のバラエティー番組を模索していたフジテレビが、お昼のお笑い公開生番組として始めたのが『笑っていいとも』である。前番組の『笑っている場合ですよ』は出演者のおふざけが過ぎて短期間で終了しており、その反省を踏まえ司会に抜擢されたのがタモリだ。

当時のタモリは正体不明のキャラクターではあったものの、高学歴でインテリジェンスを伺わせるところもあった。危険人物と感じさせながら常識的感覚も兼ね備えた目新しいタレントとして、新番組にうってつけの人材と映ったのであろう。

結果的に『笑っていいとも』は成功した。番組の方向性とタモリのパーソナイティーと時代が一致したのだろう。目玉コーナーのテレフォンショッキングは当初ハプニングが多くそれが話題になり、明石家さんまたちの貢献もあって『笑っていいとも』は人気番組になっていった。しかしタモリは調子に乗ることもなく、いい具合に肩の力を抜いた司会に徹し番組を安定させたのだ。

そのうち、『笑っていいとも』はブランド化し長寿番組となっていく。番組のレギュラーになることは芸人にとってステージを上げることであり、テレフォンコーナーに呼ばれるのは芸能人としてのステータスとなった。1コーナーに花束が贈られたり、祝電が届けられるというは、考えてみれば異常な現象だ。

そして番組スタイルが確立したあとタモリの司会はルーティン化され面白味のないものになる。日替わりのコーナーは他のレギュラーが受け持ち、テレフォンコーナーはゲストの番宣のコーナーとなり、タモリもゲストから面白い話を引き出す訳でもなく、時間まで淡々とこなしている感じだった。

時代に求められたタレント

自分が見た『笑っていいとも』はそのマンネリ化してからの番組でそれほど面白いという印象はない。それどころか、タモリはこんなに空気の読めない司会者だったのかと初めて認識したものだ。

さしもの看板番組も30年以上続くと視聴者に飽きられてくる。だが視聴率は取れなくなっているとはいえ、フジテレビの象徴的存在の番組を終わらせることは困難であった。結局番組の終了を決めたのはタモリ自身である。それによりバラエティーにとってひとつの時代が終わったのだ。

お笑い芸人としてのインパクトは、たけしやさんまに数倍劣るタモリがなぜBIG3なのだろうか。やはり「笑っていいとも」における貢献は外せない。新しい時代のバラエティーの柱のひとつとして、この番組の存在意義は大きい。

司会を務めたタモリは時代に求められたタレントなのだ。そういう意味で、お笑い界の大きな存在として世の中に認識されているのだと、自分は理解し始めたところだ。

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