黒澤明 失われた10年

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クロサワの失われた10年

黒澤明には失われた10年という時期がある。『赤ひげ』が公開された1965年から、1975年に『デルス・ウザーラ』が公開されるまでの10年間のことだ。

1960年代半ば斜陽期にあった日本映画界は、世界を意識する黒澤明監督にとって窮屈なものとなっていた。そこで黒澤は『赤ひげ』をもって東宝との契約が解消されたのを契機に、ハリウッド資本との提携を目論む。

この時黒澤明は55歳、映画監督としてまだまだ活躍出来る年齢だ。そこで黒澤プロダクションのプロデューサーをアメリカに派遣し、ハリウッドの映画制作会社と共同で作ることになったのが『暴走機関車』である。自ら黒澤映画への出演を申し出たヘンリー・フォンダの主演も決まった。

だがこの映画は黒澤明の手で作られることはなかった。脚本の段階でアメリカ側と食い違いが起きてしまったのである。

「暴走機関車」企画の立ち上げ

アメリカで実際に起きた鉄道トラブルに着想を得て、人間ドラマを描き込むダイナミックなアクション映画のストーリーを、黒澤はいつものように脚本チームを組んで練り上げた。

だが黒澤チームの脚本をそのまま使うには不備が多く、アメリカの製作スタッフに向けて大幅に書き直す必要があった。しかしアメリカ側の書き直しは大幅なもので余計なカットまで差し込まれ、到底黒澤に受け入れられるものではなかった。

しかし黒澤追悼特集で映画監督原田眞人さんが寄稿したものによると、読み比べてみたら断然アメリカ側の脚本の方が優れていたらしい。黒澤チームが描くアメリカ人は陳腐でリアリティに欠け、使えるものではなかったそうだ。

だが日本側プロデューサーの青柳哲郎にも問題があった。彼の予算についての説明が日米で食い違っており、双方に不信感を抱かせることになる。

ハリウッドメジャーからのオファー

『暴走機関車』の企画は暗礁に乗り上げたが、そこへ別のオファーが黒澤プロに届いた。ノルマンディー上陸作戦の一日を描いた『史上最大の作戦』が大成功し、2匹目のドジョウを狙った大手映画会社20世紀フォックスが、日本の真珠湾攻撃を題材にした映画『Tora!Tora!Tora!』の企画を進めていた。その日本側パートの監督候補として、黒澤明の名前が挙がったのだ。

このオファーを受けた黒澤は『暴走機関車』の製作を無期延期とし、『Tora!Tora!Tora!』日本側パートの脚本に取りかかって、長大な準備稿『虎・虎・虎』を書き上げる。だがこの企画も、脚本の大幅な変更を余儀なくされたことと、アメリカ側監督リチャード・フライシャーを黒澤が嫌ったことで製作が行き詰まった。だが20世紀フォックス会長のダリル・F・ザナックと黒澤が話し合いを持ち、二人の間で合意が成立したことで企画は再び動き始める。

黒澤はこの映画の撮影にあたり連合艦隊司令長官山本五十六役のほか、メインキャストのほとんどを素人に演じさせることにした。戦争のリアルを演出するため、役者に芝居をさせないドキュメンタリー的な画造りを狙ったのである。そして福岡県の海岸にオープンセットとして実物大の軍艦を建造させるなど、映画の製作は順調に進んでいるかに思えた。

しかし1968年12月に東映の京都太秦撮影所でクランクインするものの、撮影は遅々として進まなかった。監督の奇行も伝えられ、20世紀フォックスの役員が現場を視察したものの改善の兆しはなく、病気を理由に3週間で黒澤明は解任されてしまう。このあたりの事情は田草川弘著『黒澤明vs.ハリウッド 』に詳しい

黒澤監督解任

もちろん黒澤の病気は口実に過ぎず、彼に軽い精神的疾患があったのは事実だが、実はずっと以前から抱えていた持病だったようだ。それに市川崑監督に言わせると「映画監督はみんな、現場では精神的な病気のようなもの」だそうだ。

勝手知ったる東宝砧撮影所で撮影出来なかったことの影響は大きかったようだ。コストの関係で東映の太秦撮影所を使用せざるを得ず、慣れぬ環境・スタッフとの仕事で黒澤のストレスは増大した。

素人俳優の起用も裏目に出た。演技経験のない彼らでは簡単なセリフもこなせず何度もやり直し、黒澤に癇癪を起こさせることになる。いままで黒澤監督による名作は“黒澤組”と呼ばれ手足のように動く、東宝のスタッフや常連キャストによって支えられていたのだった。

だが、失敗の根本的原因は黒澤の気負いと驕りにあったのだろう。既に一流監督として世界で認められていたものの、ハリウッド発という大スケールのマーケットでさらに自分の力量を見せつけるチャンスを得たのだ。黒澤は映画の高みを目指し自らハードルを上げてしまった結果、思い通りに動かない現場で立ち往生してしまい進む方向を見失ってしまったようだ。

プロデューサーを務めた青柳哲郎にも大きな責任がある。力不足により黒澤とアメリカ側との間の調整を曖昧にし、挙げ句の果てに少額ではあったが予算の使い込みという背任行為をしている。

フォックス社との契約内容も黒澤へ正確に伝えていない。黒澤はこの映画の総監督のつもりでアメリカの撮影部分にも介入しようとしていたが、ハリウッドシステムでは日本側パートの撮影担当という役目に過ぎなかったのだ。たとえ黒澤が撮影をやり遂げたとしても、最終編集権を巡って大きなトラブルが生じるのは目に見えていたのである。

しかし、青柳哲郎を信用しすぎたことは黒澤監督の過ちだった。後日彼は「青柳哲郎は悪いがそれで銃を彼に向けて撃ったとしても、弾は地球を1週して自分の後頭部に命中してしまうだろう」と語っている。

黒澤は解任を告げられたとき、それなら腹を切ると抵抗したようだ。しかし20世紀フォックス側は「それはあなたの問題だが、問題から逃避するために自殺するのは卑怯者のすることだ」と黒澤の抵抗を一蹴した。巨匠と呼ばれた男、黒澤明の惨めな敗北だった。

巨匠の失望

監督を交替し、映画は完成した。その日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』を今見ると、ところどころに黒澤明の残像を見つけ出すことが出来る。

1970年黒澤は自宅を抵当に入れた資金で、初のカラー映画『どですかでん』を完成させる。しかしこの映画の興行成績は低調なものに終わり、作品の評価も分かれた。

翌年、黒澤明は自殺未遂騒動を起こす。自宅の風呂場でカミソリを使い、21箇所も自身を傷つけ病院に運ばれたのだ。のちの弁によると「当時の境遇の苦しさのあまり、テレビへ気持ちが動いた自分が突然嫌になった」と理由を述べている。

失意の底にあった黒澤だが1973年の春、再び映画制作に意欲を見せることになる。以前より申し出のあった、ソビエト映画界からの監督依頼を受けることにしたのだ。

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