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サッカー日本代表史 4. 冬の時代

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サッカー日本代表史 4.「冬の時代」

「冬の時代」を迎えた日本サッカー界

1968年メキシコ・オリンピックで見事銅メダルを獲得した日本代表だが、その次の目標は2年後に同じメキシコで開催されるワールドカップだった。当時まだ一般的な日本人にWカップの認知度は低かったが、サッカー関係者なら重要な大会であることは当然認識していた。

特にWカップ出場に意欲を燃やしていたのが、メキシコ五輪の活躍で世界から注目され始めていた釜本邦茂選手であった。釜本は日本代表選手としてWカップ出場を果たし、活躍を見せてヨーロッパでプロ選手となるつもりだったのだ。

しかし彼の夢が叶うことはなかった。69年W杯予選を前に釜本選手はウイルス性肝炎にかかってしまい、長期の戦線離脱を余儀なくされたのだ。メキシコ五輪前から重ねていた無理が、ここに来て表面化してきたのかもしれない。得点源を失った日本代表は、ほとんどその力を発揮することなく予選で敗退してしまう。

メキシコ五輪・銅メダル世代の退場と若手の登場

日本代表監督長沼健は予選敗退の責任を取り退任し、後任に代表コーチだった岡野俊一郎が昇格した。しかしその岡野も2年後のミュンヘン五輪予選に敗退したことで辞任し、長沼が再び監督に復帰することになった。東京五輪からメキシコ五輪までほとんど同じメンバーでの強化を行なっていたため、若手が育っておらず日本代表チームは弱体化していた。

1972年には杉山隆一が代表を退き徐々に代替わりが進んでいくが、73年の西独W杯予選にも敗れてしまった。74年に日本蹴球協会は財団法人となり日本サッカー協会と名称を変えたが強化は進まず、76年のモントリオール五輪の予選では宿敵韓国に惨敗を喫してしまう。

メキシコ五輪時にはブームに沸いた日本サッカーリーグも年々人気は衰え、代表戦でさえ観客は集まらなくなっていた。東京五輪時には体育協会の援助があったが、代表が予選敗退を続ける現状ではサッカー協会には強化のための資金も無かったのである。そのため選手たちは所属の会社から有給休暇を取って代表に参加しても、何の手当も付かなかった。

76年の五輪予選敗退後、長年代表監督を務めてきた長沼健が協会の専務理事に就任し、後任には三菱重工の監督だった二宮寛が選ばれた。

この年24歳の奥寺康彦がスピードを活かしたプレーで台頭、所属する古河電工をリーグ優勝と天皇杯獲得の2冠に導いていた。二宮監督が奥寺を代表入りさせるとたちまち大活躍を見せ、既に代表引退を表明していた釜本に代わるエースストライカーになると期待された。

だが翌77年にアルゼンチンW杯予選で日本が敗退すると、奥寺は西ドイツの1FCケルンに移籍し代表から離れてしまう。当時代表チームには選手の拘束力が無く、試合ごとに選手をヨーロッパから呼び寄せるなど考えられない時代だった。釜本選手も33歳で正式に代表を引退し、日本チームはストライカー不足に陥る。

代表監督は79年に下村幸男に変わったが、80年のモスクワ五輪予選で敗退し辞任する。渡辺正が後任となるも程なくして病気を患ってしまい、監督を続けられなくなくなった。次のW杯予選は迫っており当時サッカー協会強化部長だった川淵三郎は、緊急事態に自ら兼任監督に就任しチームの若返りを図ることにした。

既に代表チームへ呼ばれていた金田喜稔や木村和司・風間八宏・原博美に加え、川淵監督は戸塚哲也や都並敏史・柱谷幸一・加藤久らの若手も次々に招集してゆく。

彼らは、従来の日本選手より高いテクニックを身に付けた若手選手たちだった。70年代からWカップの試合が日本でも放送され、当時のサッカー少年に強い影響を与えていた。さらにネルソン吉村、与那城ジョージ、セルジオ越後ら日系ブラジル人選手が日本リーグで南米仕込みのテクニックを披露し、それを真似た少年たちが代表年代に育っていたのである。

スペインW杯予選は彼ら若手を中心に戦い、予選突破はならなかったもののチームは健闘を見せた。81年川淵は監督を退き、あとを森孝慈に任せる。森監督はさらに水沼貴史や松木安太郎などの若手を加え、チーム作りを進めていく。

木村和司「伝説のフリーキック」とW杯の重い扉

森監督は協会にかけあい代表選手に手当を支給したり、出場給・勝利給の制度を設けたりして選手の待遇向上を試みる。その結果82年のアジア大会では韓国を破りベスト8入りするなど、強化は順調に進んでいるかに思えた。だが83年、攻撃の主軸と期待した三菱の尾崎加寿男が突然ドイツのクラブに移籍し、五輪予選に参加出来なくなってしまう。

尾崎の穴が埋まらないまま、84年のロサンゼルス五輪アジア最終予選に臨む。不安を抱えたチームは初戦を落としたことから調子を狂わせ、グルーリーグ4戦全敗で撃沈してしまう。韓国と別グループになり選手が油断したことや、若手主体のチームに直前でベテランを加えたため混乱を生じてしまったのが敗戦の理由だった。

森監督は辞意を表明したが協会に慰留され、翌85年のメキシコW杯予選で雪辱を期すこととなった。日本代表は1次予選で難敵の北朝鮮を破ると、2次予選でも香港に完勝し韓国とW杯出場を懸けた最終予選を戦うことになる。

ホーム&アウェー式の第1戦は、10月26日に超満員の観客で溢れた東京国立競技場で行なわれた。日本にとって初のW杯出場を目指す大一番であったが、韓国にとっても1954年以来のW杯出場をかけた負けられない試合だった。

開始から韓国は守りにまわり、反対に日本は攻めに出る。前半30分攻め疲れた日本の隙をつき、韓国はカウンター攻撃に出た。サイドから打たれた韓国のシュートを日本DFが防ぐが、クリアが甘くなってしまい駆け込んだ韓国選手に先制点を奪われてしまう。

41分には左サイドバック都並敏史選手の後ろの空いたスペースを使われ、追加点を挙げられて日本は0-2と劣勢に立たされた。

だがその直後の43分に戸塚哲也がドリブルで駆け上がると韓国のファールを受け、相手ゴール正面25メートルの位置でフリーキックのチャンスを得る。

キッカーは日本の10番を背負う木村和司。セットしたボールを蹴り上げた瞬間、木村はゴールを確信した。ボールは韓国ディフェンスの壁の上を越えたかと思うと、思い通りの軌道でゴールネット左に突き刺さったのだ。当時これだけのフリーキックを蹴れる日本選手は他におらず、おそらくほとんどの観客や視聴者が初めて目撃した鮮やかなゴールだった。

だが日本は善戦虚しく1-2でこの試合を落とし、続くソウルでの第2戦も0-1で敗れてまたもW杯出場は叶わなかった。木村和司がのちに振り返ったように、日本はW杯の扉に手をかけたものの、その扉はとてつもなく重かったのだ。

アマチュアリズムの限界

森は代表監督を退き、フジタ工業監督の石井義信が後任となった。石井は堀池巧や勝矢寿延を招集し、守備的なチームを作ってソウル五輪のアジア予選に臨んだ。

予選免除のため韓国は参加せず、宿敵不在のこの予選は日本にとってチャンスとなるはずだった。そして奥寺が代表に復帰した日本は順調に勝ち進み、無敗同士の中国とホーム&アウェーで五輪出場を決めることになった。

87年10月4日アウェーでの第1戦、日本は原のヘディングで先制する。そしてその後の中国の反撃を抑え、1-0と大きな勝利を挙げた。

五輪出場に王手をかけた日本は、26日に中国をホームに迎え第2戦を行なう。当日の激しい雨にも関わらず、会場の国立競技場には大勢の観客が集まった。引き分けでも良い日本は守備を固め戦うが、選手たちの動きは緊張からか鈍かった。

序盤から攻めかかる中国の勢いに押され、日本は39分に先制点を許してしまう。勝たなければならない日本は攻めに転じるが、中国に裏を突かれ82分に追加点を入れられてしまった。0-2で試合は終了し、中国が40年ぶりの五輪出場を決める。あと一歩のところで敗れ去った日本は、まだ実力が足りなかったと言うほかなかった。

石井監督のあと後任となった横山謙三は、代表チームのユニフォームを青から、日本国旗の色・赤に変えた。日本代表のユニフォームが赤だったのは、横山監督時代の3年半だけである。

横山監督は代表にウイングバックシステムを採用し、チームにも吉田光範・柱谷哲二・井原正巳といった新しい選手が加わっていた。89年5月、日本代表はイタリアWカップ・アジア予選に挑んだ。だが日本の戦いは低調で、1次予選で敗退してしまう。

84年のロサンゼルス五輪からサッカー競技も、プロの参加が解禁となっていた。そして92年のバルセロナ五輪ではWカップとの差別化を図るため、23歳以下の年齢制限が設けられることになった。

そのため日本も23歳以下のチームを結成し、バルセロナ五輪アジア予選に臨むことになった。山口芳忠監督はこのチームを率い、苦しみながら1次予選を勝ち抜いて91年1月の最終予選に進んだ。

このチームには澤登正朗・三浦文丈・藤田俊哉・名波浩・長井秀樹・名良橋晃・相馬直樹・小村徳男・下川健一など後にフル代表でも活躍する選手たちがいた。最終予選を前に、山口監督の手腕に疑問を抱いたサッカー協会はフル代表の横山謙三を総監督を据える。

最終予選はマレーシア・クアラルンプールに、韓国や中国など6チームを集めて行なわれた。しかし日本はこの予選で1勝1分け3敗と振るわず、6チーム中5位に沈み、アジア2つの出場枠に届かなかった。もはやアマチュアのチームでは、アジアで勝ち抜くのは困難となっていたのだ。

次:サッカー日本代表史 5. オフト改革

カテゴリ サッカー史

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