サッカー日本代表史 9. 広がる不安




加茂周新監督とゾーンプレス戦術

ファルカンが僅か8ヶ月で日本代表監督を解任されると、強化委員長の川淵三郎は加茂周を後任の代表監督に選んだ。加茂監督は、日産自動車を県リーグから日本リーグ1部に引き上げ強豪チームに育て上げるなどの実績を持ち、以前から代表監督の候補に上がっていた人物である。日本サッカー協会はブラジル人監督ファルカンとの意思疎通を欠いたことから、早々と外国人監督へのこだわりを捨て方針転換を図ったのだ。

Jリーグ発足後、加茂は横浜フリューゲルスの監督に就任すると、チーム戦術に“ゾーンプレス”を取り入れ天皇杯優勝を果たしていた。加茂はその戦術を日本代表にも採用しようと考える。“ゾーンプレス”とはヨーロッパの強豪チームが用いていたプレッシング戦術だが、加茂監督がその戦術をどこまで理解していたかは疑問であった。

加茂周は戦術より選手発掘などマネジメントに手腕を発揮するタイプの監督で、フリューゲルスの“ゾーンプレス”はベルデニックコーチとチームの司令塔エドゥーによって成立していたのだ。

川淵は加茂を代表監督に選ぶと強化委員長を退任し、副委員長だった加藤久を後がまに据える。加藤は代表の合宿やミーティングに顔を出すが加茂監督とはそりが合わず、加茂監督も強化委員会からの要望を拒絶するなどして両者の関係は悪化していった。

監督交代騒動の迷走

95年1月に国際大会への参加が予定されていたが、新チームを編成する時間が無く加茂監督はオフト時代の経験豊かな選手たちを招集し戦うことになる。この大会ではアルゼンチンやナイジェリアという強豪相手に惨敗を喫するが、この後のダイナスティーカップなどを経て徐々に選手の顔ぶれは入れ替わっていった。

新しく加わったのはフリューゲルスでボランチを努める山口素弘や、DF秋田豊・相馬直樹・名良橋晃・中西永輔、MF本田泰人・森島寛晃・名波浩、FW岡野雅行・西澤明訓などで、徐々に新しい選手を中心にしたチームが出来上がっていく。

フリューゲルスの“ゾーンプレス”は前線と最後尾の間隔をコンパクトに保ち、プレスで相手ボールを奪って守備から即攻撃へと移る積極的な戦術だった。それに比べ代表の“ゾーンプレス”は前線と最後尾が間延びしており、守備は固いがすぐには攻撃に繋がらない消極的なものであった。

オフトジャパンは細かい決め事を作りいくつかの攻撃パターンを用意していたが、無策の加茂ジャパンは得点力不足に陥っていた。そんな加茂監督の指導力に、疑問を感じる関係者が増え始めていた。

95年11月、加茂ではW杯予選を勝ち抜けないと判断した強化委員長の加藤久は新監督探しに奔走する。候補はグランパスのベンゲル監督、ジュビロのオフト監督、ヴェルディのネルシーニョ監督、の3名だった。ベンゲルとオフトはクラブが了承しなかったので交渉に至らなかったが、本人が乗り気になりクラブの容認も得られたのがヴェルディのネルシーニョだった。

加茂監督のフリューゲルス復帰も決まり、あとはネルシーニョとの条件を摺り合わせるだけだった。ところがW杯招致活動で海外へ出張していたJFAの長沼健会長が帰国すると、それまでの経緯を白紙に戻し加茂監督の留任を決めてしまったのである。会長の承諾を得て監督選びをしていたつもりの加藤久は梯子を外され、強化委員長も更迭されてしまう。

条件交渉が長引いたことで長沼会長の不信感を招いた結果だったが、このことに怒りを露わにしたネルシーニョは「協会は腐っている」という言葉を残し日本を去って行った。一方、長沼会長も憤然とした様子で「フランスへ行けなければ私が止めます」と捨て台詞を吐いて、マスコミの批判を受けてしまう。

新世代の加入と中田英寿の台頭

翌96年5月、後から名乗りを上げた韓国のロビー活動によりW杯招致合戦は激化し、FIFAアベランジェ会長の提言を受け日本は2002年W杯の日韓共同開催を承諾する。結果はどうあれ、W杯日本開催が決まったことでフランスW杯出場の重要性は増した。8月にアトランタ五輪が終了すると、加茂監督はこれまで招集を控えていた前園真聖・城彰二・川口能活といった若手選手をA代表へ加える。

特に期待を掛けたのがフリューゲルス時代の秘蔵っ子、前園だった。これといった攻め手を持たない加茂ジャパンにとって、前園のドリブル突破と高い得点力は大きな武器になると考えたのだ。しかしこの時の前園は海外移籍を巡るごたごたで所属クラブと信頼関係を失っており、パフォーマンスを落としていた。前園はのちにヴェルディに移籍するも孤立してしまい、レギュラーの座も失って代表でも精彩を欠くようになる。

96年12月、日本は前回優勝国としてUAEで開催されたアジアカップに参加し、順調に準決勝へと勝ち上がる。しかし準決勝の相手クウェートは強豪にのし上がってきた日本を研究し、ゾーンプレスに対してロングボールを使ったカウンター戦術を採ってきた。この戦術が当たりクウェートは日本から2点のリードを奪う。

この劣勢から反撃を試みて、加茂監督の行なった策がFWの大量投入だった。先発の三浦知良と高木琢也を残し、守備の選手をさげて城と岡野を入れてきたのである。前線がFWで詰まってしまったので、岡野が馴れない右ウイングを務めるというちぐはぐな交替だった。

この超攻撃的な布陣は機能せず結局0-2のまま負けてしまう。FWをいくら増やしても後ろからパスが入らなければ点は取れない、と加茂采配は批判を受けることになる。

97年3月、加茂監督はW杯1次予選を前に調子の上がらない前園を外し、チームはフォーメーションの見直しを迫られる。5月には韓国との強化試合が行なわれ、加茂監督はこの試合にベルマーレの若き司令塔、中田英寿を初招集した。

中田は加茂監督の先発起用に応え、見事なプレーを披露した。中田の広い視野から放たれるパスは日本の攻撃陣を活性化させ、体幹の強さは韓国のチェックをも跳ね返した。日本は1-0で韓国を下し、中田は1試合で日本の司令塔の座を掴んだのだ。新戦力を加えた日本は無難に第1次予選を突破し、いよいよ9月からの最終予選に臨むこととなった。

フランスW杯アジア最終予選は勝ち残った10チームがA・B2組に別れ、2ヶ月に渡りホーム&アウェイ方式で総当たり戦を行なう。アジアの本大会出場枠は3.₅で、各組1位が無条件で出場権を得る。残りの枠を2位に入ったチームでプレーオフを行ない出場権を争うことになる。日本が入ったB組の対戦相手は、韓国・UAE・ウズベキスタン・カザフスタンだった。

W杯アジア最終予選の開始

初戦のウズベキスタン戦は、9月7日にホームの国立競技場で行なわれた。滞在費が捻出できなかったため、ウズベキスタンチームが15時間の長旅を経て来日したのは試合の前日だった。日本はエースのカズが大爆発し中田や城も点を決めるなど、調整不足の相手を圧倒する。だが後半ウズベキスタンは反撃を開始し、日本の間延びして守りが薄い中盤の底に人数を掛けてきた。次々に攻めてくる相手に、中盤の底を一人で支える山口は対応しきれなくなる。

たまらず両サイドバックが山口のサポートに動くが、バランスの崩れた陣形を突かれウズベキスタンに1点を返されてしまう。ようやくベンチが動くものの、加茂監督の考えは守備ではなく会場のムードに乗って追加点を狙う事に向いていた。最初に投入されたのはFWの西澤である。

選手たちの運動量が落ち守備の不安定さは増していくが、2人目の選手交替も攻撃を指示するものだった。加茂監督がようやく守備固めに動いたのは、77分ウズベキスタンに3点目を入れられた後である。その時下げられたのは、22分間だけプレーした西澤だった。日本は結局6-3で勝利を収めるが、不安を残す内容に選手たちの表情は厳しかった。

加茂采配への拭えない不安

第2戦は9月19日、UAEを相手に敵地中東アブダビでの戦いだった。試合当日の気温は39度、ピッチの温度はそれ以上になる。日本は守備的に戦いを進めるが、あまりの暑さに前半途中で名波の身体は動かなくなってしまう。事実上数的不利となった日本はピンチの連続となるが、どうにか前半終了まで持ちこたえた。ハーフタイム、トレーナーの緊急処置により幾分かの回復を見せた名波は、後半も続けてピッチに立つことになる。

幸いだったのは、それなりに暑さ対策を講じていた日本より地元UAEの選手のほうが先に足が止まったことである。UAEの攻撃は影を潜め、後半はむしろ日本のチャンスが多くなっていた。75分、中田のコーナーキックから日本のヘディングが決まり、先制ゴールが決まったかと思えたがオフサイドで取り消される。

その直後、中田は交替を告げられ驚きの表情を浮かべた。中田の身体はUAEの選手より動いており、まだ得点を狙えると思っていたのだ。少なくとも、交替選手は朦朧として彷徨っている名波選手であるべきだった。

ホイッスルが吹かれ試合が0-0の引き分けで終わると、加茂監督は満足げに引き上げる選手たちを迎えた。しかしあまりに消極的な戦いに、岡田武史コーチやマリオGKコーチは憮然としていた。インタビューに笑顔で答えた加茂監督のあと、マイクを向けられたキャプテン井原正巳は浮かない表情を見せる。

2試合を終え勝ち点4となった日本に対し、宿敵韓国は連勝で勝ち点を6に伸ばしていた。28日、韓国を国立競技場に迎えての第3戦は、グループ1位でW杯出場を決めたい日本にとって負けられないものとなった。

次:サッカー日本代表史 10. 苦闘の最終予選

カテゴリー サッカー史

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