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日本女子サッカー史 2. なでしこ誕生

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日本女子サッカー史 2. なでしこ誕生

澤穂希の渡米

99年、運営が読売から日テレに変わったベレーザによりプロ契約の取り消しを告げられ、澤穂希はアメリカ行きを決意する。と言っても行き先が決まっている訳ではなく、アメリカで女子プロリーグが創設されるという話を耳にしたに過ぎない。

澤はベレーザの元同僚ナタリーを頼ってアメリカに渡り、その後プロ入りを狙う仲間と共同生活をしながら機会を窺った。

2000年、米女子サッカーリーグ(WUSA)の設立が発表され、翌年から8チームによるリーグ戦が行なわれることになった。10月にはWUSAの海外選手対象ドラフトが行なわれ、澤はアトランタ・ビートに指名される。

当時の澤は国際的には無名の存在だったが、アトランタの監督が彼女の能力を高く評価したのだ。01年、澤はアトランタ・ビートの主力としてリーグ準優勝に貢献、その俊敏なプレーで“クイック・サワ”と呼ばれる。

見えてきた光明

Lリーグは2000年から経費節減のため9チームを東西に分割し1次リーグを開催、その成績により上位と下位のリーグに分け優勝を決めるという形式を採用する。既にLリーグ創設期の企業チームは姿を消し、クラブチームで活動する選手たちはバイトをしながらサッカーを続けていた。

02年5月に日韓ワールドカップが開催されると、男子代表チームの活躍もあり日本中がサッカー熱に包まれた。一方、その影に隠れた女子サッカーに目を向ける者はなく、Lリーグの窮状は相変わらずだった。入場料を取ると競技場使用料が高くつくため、試合は無料観戦だったがそれでも観客は入らない。

8月、Jリーグ監督の経験がある上田栄治が、女子代表チームの監督になった。そして10月韓国釜山でアジア大会が開かれ、サッカー女子代表チームも参加する。

日本女子チームは準決勝で北朝鮮に敗れるが、その時視察に来ていたのが日本サッカー協会(JFA)会長に就任したばかりの川淵三郎である。川淵会長はそれまで女子サッカーに何の興味も関心も無く、試合さえほとんど見ていない。

10年前Jリーグ発足にあたって、設立委員会でクラブの参加条件が検討されていた。その際Jリーグ参加条件として下部組織の保有義務化の他に、女子チームの保有の義務付けを望む声もあった。だが当時Jリーグチェアマンだった川淵の考えは「女子チームはいらない」だった。川淵は女子サッカーの将来性を感じておらず、Jクラブの足手まといになると思っていたのだ。

しかし川淵はこの北朝鮮戦で、ひた向きにプレーする彼女たちに考えを改めた。恵まれない環境でサッカーを続けてきた選手たちは、その分一体感があった。決して上手くはないが、ハングリーさは男子チームにはないものだった。

女子チームのプレーに心打たれた川淵会長は、試合を終えた選手のもとに赴き直接要望を聞いた。彼女たちの訴えは、「いつも立て替えている代表合宿の交通費を、前払いにして欲しい」というささやかなものだった。川淵は苦笑しながらその要望を快諾する。

前進を続ける女子日本代表

JFAからの支援が決まった代表チームの目標は、まず03年6月にタイで開催される女子アジア選手権だった。これまでの世界女子選手権は次の大会からFIFA女子ワールドカップとなり、アジア選手権はその予選を兼ねていた。

上田監督は堅守速攻のチーム作りを目指し、厳しい練習を選手たちに課していく。こうして矢野喬子、酒井與惠(としえ)、川上直子、大谷未央、山本絵美、大野忍、荒川恵理子などの有望選手が鍛えられていった。

ワールドカップのアジア出場枠は開催国扱いの中国(SARS騒動で米国代替開催)を除いた2.5で、北朝鮮に続く力を持つ日本の予選突破は確実と思えた。しかし日本は格下の韓国に不覚をとってしまい、メキシコとのホーム&アウェイによる大陸間プレーオフを戦わざるを得なくなる。

プレーオフ第1戦は10万の観客を集めた、敵地アステカ・スタジアムで行なわれた。日本は馴れない高地での試合に体調を崩す選手が続出、苦しい戦いを強いられるが宮本などのゴールでなんとか2-2と引き分ける。第2戦、ホームでの決戦にJFAが用意したのは、女子の試合では初めてとなる国立競技場だった。

しかし、依然として女子サッカーに対する世間の関心は薄く、前売り券も400枚しか売れなかった。そこでJFAは大胆な観客動員作戦に打って出る。JAFに登録する全ての関係者に呼びかけ、そのうえ首都圏の5000チームにダイレクトメールを送った。

そして試合の行なわれた7月14日、国立競技場には女子の試合で過去最高となる1万2743人もの観客が集まり選手たちに大きな声援が送られた。前半は0-0で折り返すものの、後半11分山本のクロスから澤がヘディングシュートを決め先制する。

38分にはキャプテン大部が蹴り込んだロングキックを、途中出場の新戦力・丸山桂里奈が右足ダイレクトで合わせてゴールネットを揺らす。試合はそのまま2-0で終了、日本は苦しみながらもワールドカップ出場を決めた。

女子ワールドカップと9.11の影響

03年9月、第4回女子ワールドカップがアメリカで開催された。日本のグループリーグ対戦相手は、アルゼンチン、ドイツ、カナダ。日本は初戦のアルゼンチン戦で、澤の2点と大谷のハットトリックなどで6-0と快勝した。

しかし続くドイツ戦では相手エース、ビルギット・プリンツの活躍の前に0-3と完敗を喫する。決勝トーナメント進出をかけた最後のカナダ戦も澤が得点を入れるが、1-3と敗れ世界との差を縮められずに大会は終了した。

そして日本を破ったドイツは圧倒的な力を発揮し決勝へ進出、スウェーデンを下して大会初優勝を飾った。大会終了後のFIFA技術委員レポートで評価された日本選手は、澤穂希ただ一人だった。

開幕した01年こそ順調だったWUSAだが、リーグ戦終了後に世界を揺るがす大事件が勃発する。それが9.11と呼ばれるアメリカ同時多発テロだった。WUSAはその影響をもろに受け、02年にはアメリカ国民の関心は女子サッカーよりテロへの戦いに向いていく。

そして03年にイラク戦争が勃発するとWUSAの観客は激減し、テレビ放映も打ち切られてしまった。こうして資金源を失ったUWSAは03年限りでの休止を決定、澤はベレーザへ復帰することになる。

運命のアテネ五輪・アジア予選

翌年04年には日本女子サッカーの命運を左右することになる、アテネ・オリンピックのアジア予選が開かれる。アジアに与えられた出場枠は2つ、日本は中国か北朝鮮の2強どちらかを倒さなければいけなかった。

上田監督はチームのさらなる強化を図るため、選手を陸上部さながらに走り込ませる。ライバルに打ち勝つには、90分間動き回れる運動量と体力が必要だったのだ。

アテネ・オリンピックから出場チームはWカップの成績はではなく、各大陸の予選で決められることになった。予選の方式をめぐり、日本はホーム&アウェイ方式ではなく一国集中開催のセントラル方式を主張した。そして交渉の結果、開催地を日本にすることに成功する。

04年4月に予選大会が始まり、日本は1次リーグを1位で順当に勝ち抜いた。そして準決勝の相手は北朝鮮に決まり、日本はオリンピック出場を賭け勝負の1戦に臨むことになる。日本はこの13年間で北朝鮮に7連敗を喫しており、ホームとはいえ厳しい戦いが予想された。

しかも1次予選の試合で、澤が右膝に重傷を負い出場が危ぶまれていた。膝の半月板損傷が疑われたが、澤はそれ以上の診断を拒む。半月板損傷と分かれば、当分試合など出来ないからだ。

アテネ五輪の切符

4月24日、日が暮れて照明輝く国立競技場のピッチには、右足に厚いテーピングをした澤の姿があった。集まった観客は、前年のメキシコ戦を遙かに上回る3万1324人。女子サッカーがマスコミに徐々に取り上げられるようになり、ファンの関心を集めた結果だった。

19時20分、試合開始の笛が吹かれた。ブロック注射と座薬でようやくグランドに立っている澤に、いつもの攻撃力を期待するのは難しかった。

ならば守備で貢献するしかない。開始1分、澤は北朝鮮選手に激しく体当たりをかまし、相手ボールを奪うと素早く前線へ繋げた。そのプレーで日本選手たちは皆奮い立ち、北朝鮮に挑みかかる。日本の迫力に、北朝鮮の選手たちは浮き足立ち始めた。

前半11分、川上がクロスを上げると、北朝鮮DFが信じられないクリアミスを犯す。それを見逃さなかった荒川が、冷静にボールをゴール流し込んで先制点を決めた。その後北朝鮮が反撃を始めるが、日本は必死の防戦。44分荒川が相手ゴール前でドリブルを仕掛けシュートを放つと、またも相手DFがクリアミスをしてオウンゴールが生まれた。

後半には北朝鮮が猛攻を仕掛けるも、日本は鍛えたスタミナと運動量で守備のブロックを崩さず相手の反撃を跳ね返す。

そして後半19分右のコーナーキックから山本がファーサイドにボールを送ると、宮本がヘディングでゴール前に折り返した。そこへ走り込んだ大谷がボールを蹴り込み、駄目押しとなる3点目を入れる。この1戦のために、何度も練習をしたサインプレーだった。

試合は3-0で終了し、日本女子チームは2大会ぶりのオリンピック出場を決めた。沸き立つ大観衆の中で、選手と監督たちは喜びを爆発させていた。この歴史的な試合の視聴率は16.3%で瞬間最高は31.1%、同時刻に放送された巨人-阪神戦を大きく上回った。使命を果たした澤は、2週間後半月板骨片の除去手術を受ける。

なでしこ誕生

注目を浴び始めたサッカー日本女子代表に、愛称が公募される。応募数2700通の中から選ばれたのが『なでしこジャパン』。もちろん大和撫子にちなんだ名前だが、ピンク色なら純愛・白色なら才能という花言葉がある。

Lリーグも参加チーム数が増え、この年から東西分けを止めてL1・L2の2部制になった。予選終了後再開されたリーグ戦に、2000人を越える観客が集まる。日本女子サッカーに新しい時代が始まろうとしていたのだ。

次:日本女子サッカー 3.飛躍のとき

カテゴリー サッカー史

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