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サッカー日本代表史 13. トルシエ時代(前編)

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サッカー日本代表史 13. 「トルシエ時代」(前編)

トルシエジャパンと「黄金世代」

98年のフランス大会でWカップ初出場を果たした日本だが、結果は3戦全敗に終わってしまう。大会終了後新しく代表監督に就任したのは、アーセナル・ベンゲル監督の推薦を受けたフランス人のフィリップ・トルシエだった。トルシエは監督就任後すぐ代表候補72人を集めた合宿を行なったが、その中には79年生まれの若い選手たちも多く参加していた。

トルシエはその若い選手たちの高い技術を見て、彼らを中心とした新しいチーム作りを決心する。それが小野伸二、稲本潤一、高原直泰、小笠原満男、中田浩二、本山雅志、遠藤保仁、曽ヶ端準など、「黄金世代」と呼ばれる選手たちである。

五輪代表やユース代表監督も兼任することになったトルシエは彼ら若い選手たちを厳しく指導し、明確な役割を与えて “フラット3” や “ウェーブ” などシステマチックな戦術を叩き込む。

そしてアジアのユース選手権を勝ち抜くと、ナイジェリアで開催されるワールドユース選手権出場を決めた。99年4月、ワールドユース選手権に臨んだ日本だが、直前に稲本と市川大祐の主力二人を怪我で欠いてしまう。

ワールドユース準優勝の快挙

日本はグループリーグ初戦のカメルーン戦で逆転負けを喫するが、続くアメリカとイングランドを撃破し決勝トーナメントに進んだ。決勝トーナメント1回戦の相手はポルトガル。

巧みなパスワークが持ち味の両チームは中盤で激しいつぶし合いをするが、48分に遠藤保仁が強烈なミドルシュートを決める。その後しばらく激しい攻防が続いていたが、72分高原と激突したポルトガルのGKが負傷退場してしまう。

交代枠を使い切っていたポルトガルは10人となり、その上MFが急遽キーパーを務めることになった。だが日本はそのアドバンテージを活かせず80分、死に物狂いとなったポルトガルに同点弾を決められてしまった。

試合は延長に入りポルトガルの猛攻に日本は防戦一方となるも、どうにか1-1で終えPK戦に持ち込んだ。そしてPK戦では5-4とポルトガルを退け、日本は準々決勝へ進む。

勢いを得たチームは準々決勝で難敵メキシコと対戦、ベストパフォーマンスと言える試合を展開し本山雅志と小野のゴールで2-0と快勝する。そして準決勝で対戦したのが、前回準優勝の強豪ウルグアイ。ウルグアイチームには、後に10年W杯南アフリカ大会でMVPと得点王を獲得することになるフォルランがいた。

準々決勝でブラジルを破ったウルグアイのプレーは激しかったが、日本は組織的なパスワークで対抗する。23分、本山が鋭いドリブルで相手サイドを切り裂き、折り返したパスを高原がダイレクトで合わせ先制した。だがその直後の24分、リスタートの流れから日本DFのマークミスを突かれたちまち同点とされてしまう。

一瞬日本に嫌な雰囲気が漂うがすぐに反撃を開始、35分DFラインを抜け出した永井雄一郎が巧みなフェイントから勝ち越し弾を決めた。しかし前半飛ばしすぎたのか、後半に入ると日本の運動量は極端に落ちてしまう。動けなくなった日本は自陣に張り付き、ひたすら相手の攻撃に耐え続けることになる。

猛攻に耐えた日本は、ロスタイムに至近距離でシュートを打たれるという最大のピンチを凌ぎ、ようやく試合は終了した。こうして日本はFIFA主催の世界大会で初めて決勝戦を戦うことになった。

決勝の相手はバルセロナの若き司令塔、シャビを擁する優勝候補のスペイン。だが日本はそのスペイン相手に手も足も出ず、0-4と敗れてしまう。しかし決勝で負けたとはいえ、ワールドユース選手権準優勝という結果は日本に大きな自信を植え付けた。

世代交代を迎えた日本代表

6月、シドニー五輪予選が始まり日本は順当に第1次予選突破を決めるが、小野が悪質なタックルで大怪我を負い長期離脱を余儀なくされる。五輪1次予選終了後、南米選手権コパ・アメリカに招待されていた日本は、ベテランを中心にチームを編成しパラグアイで試合を行なった。

初戦のペルー戦では呂比須ワグナーが先制点を挙げるなど健闘するが、2-3と逆転負けを喫し2戦目のパラグアイ戦では0-4と完敗してしまう。

最後のボリビア戦も1-1と引き分け、結局日本は1勝も出来ないままグループリーグ敗退を喫する。この試合で途中退場となったキャプテン井原正巳はこの後代表に招集されることはなく、長年日本のDFを支えてきた名選手としては寂しい最後の国際試合となってしまった。

11月には五輪最終予選が行なわれ、トルシエはセリエAでプレーする中田英寿を呼び寄せた。こうして五輪代表には、中田英・中村俊輔らと黄金世代が融合する最強の布陣が形成される。日本には平瀬智行というラッキーボーイも現われ、最終予選を無敗で突破し2大会連続の五輪出場を決めた。

2000年に入るとA代表と五輪世代の融合が図られる。それまでA代表は得点不足を指摘され、トルシエの解任論も浮上していた。だがトルシエの戦術が選手に浸透し始めると、監督の唱えるオートマティズムが機能し始める。

6月にモロッコで開催されたハッサン2世杯に日本は参加、ユーロ2000に向け調整中だったフランスと対戦し、2-2と善戦した。続くジャマイカ戦には4-0と快勝、レベルアップしたチーム力を見せ、トルシエの解任論は収まった。

シドニーオリンピックの戦い

8月のシドニー五輪に備えトルシエはオーバーエイジ枠として、GK楢崎正剛・DF森岡隆三・MF三浦淳宏の3人を招集する。この五輪代表には宮本恒靖や松田直樹・柳沢敦などもおり、怪我による影響で小野が外れたもののA代表と殆ど遜色のないチームだった。日本がグループリーグで対戦するのは南アフリカ・スロバキア、そして前回の五輪で打ち破ったブラジルである。

初戦、日本は南アの独特なリズムと個人能力の高さに苦戦を強いられた。31分、日本は相手FWにサイドを突破されると、そこからクロスを許して失点。その後も南アの攻撃は衰えることなく、日本は再三ピンチをどうにか迎えた。それに耐えた前半ロスタイム、中村のFKを高原がヘッドで合わせ同点とし、1-1で前半を折り返した。

後半立ち上がりも相手ペースで始まったが、南ア選手に慣れてきた日本は上手く対応し失点を許さなかった。78分、柳沢に代わり本山を投入すると日本にリズムが生まれ、中田英がドリブルからゴール前にスルーパスを送った。そこへ走り込んだ高原がシュートを決め、日本は2-1と逆転勝利を収めた。

続く第2戦の相手はスロバキア。この試合、主導権を握った日本は相手ゴールに攻め入るが、詰めの甘さで得点を決められずにたびたびチャンスを逃してしまう。そこでトルシエは中田をFWに近い位置に上げ、左サイドにいた中村をトップ下のポジションに移した。

その布陣が功を奏し67分には中田英の先制点が生まれ、74分には稲本が追加点を決める。こうして日本は2-1と勝利し連勝を果たすが、他会場の結果決勝T進出は最終戦に持ち込まれた。

最終戦の相手はロナウジーニョを擁する強豪ブラジル。日本は累積警告により攻撃の中心である中田英と、守備の要となる森岡が出場停止になっていた。

第2戦で南アに敗れているブラジルは、キックオフから猛攻を開始。早くも開始5分にアレックスのヘディングで先制点を奪われる。リードを許した日本は必死の反撃を試みるが、ロナウジーニョを中心としたブラジルのボール廻しに翻弄される。

後半には中村のFKがクロスバーを直撃するなど惜しい場面もあったが、結局0-1のまま試合は終了した。直後に日本と並ぶ可能性のあった南アの敗戦が伝えられ、日本はメキシコ大会以来32年ぶりの決勝トーナメント進出を決めた。

疑問符がつくトルシエの采配

準々決勝の相手アメリカは、グループリーグを首位で勝ち上がった好チームだった。立ち上がりは日本がボールを支配したが、連戦の疲れからかミスが続く。次第にアメリカに押し込まれ始めた30分、FKのチャンスを得た日本は中村がボールを蹴るが相手の壁に跳ね返される。それを中村自身が拾い折り返すと、ゴール前に飛び込んだ柳沢がヘッドを決め先制する。

後半の頭、アメリカは期待の若手ドノバンを投入して攻撃の枚数を増やしてくる。日本がチャンスを逃すと次第にゲームの流れはアメリカに傾き、68分コーナーキックから同点弾を決められてしまう。

直ちに反撃を開始した日本は72分、中村のクロスから高原がヘッドで叩き付ける。一度は相手キーパーに防さがれたが、高原がこぼれ球にいち早く反応し日本は再びリードを奪った。

残り時間で追いつきたいアメリカは、ロングボールを使ったパワープレーに出る。その圧力に日本のラインはジリジリ下がりだすが、楢崎の好セーブもあって失点を防いだ。しかし75分、その楢崎がロングボールを処理しようとした中澤佑二と激突、顔面2ヶ所を骨折するという大怪我を負ってしまう。

そしてロスタイム目前の89分、右サイド酒井友之がペナルティーエリアで不用意なファールを犯してしまう。大量の血を流しながらもゴールを守り続けた楢崎だが、アメリカのPKを止められずに、ついに同点とされてしまった。

延長に入りアメリカは新しい選手を投入して交代枠を使い切るが、日本は2人の交代枠を残したままだった。延長後半、明らかにアメリカの足取りが重くなる。日本ベンチには切り札となるはずの本山が控えていたが、トルシエは動こうとしなかった。そしてこの後も選手交代が行なわれることなく試合は終了し、勝負はPKでの決着となってしまった。

PK戦はアメリカの5人全員がゴールを決めたのに対し、日本はエースの中田英がシュートを左ポストに当て4-5で敗退してしまう。ベスト4進出の可能性は充分あったのに、消極的な采配で勝ちを逃したトルシエの手腕には疑問の声が上がる事になる。

次:サッカー日本代表史 14. トルシエ時代(後半)

カテゴリー サッカー史

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