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サッカー日本代表史 19. オシム / 岡田時代

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サッカー日本代表史 19. 「オシム / 岡田時代」

川淵三郎会長の失言

06年のWカップで日本が1勝も出来ずに敗退すると、ドイツから戻った川淵会長は成田空港近くのホテルで緊急会見を行なった。その会見で後任の代表監督の話になり、川淵はオシムの名を口にしてしまう。

オシムが監督を務めていたジェフ市原とは話し合いの途中で、口を滑らせた川淵は慌てる。だがオシムが後任監督になることは既定路線となってしまい、翌月には予定通り新監督が発表された。

ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のイビチャ・オシムは旧ユーゴスラビアの選手として東京五輪に参加、日本代表と試合をして得点を挙げている。90年のイタリアWカップでは、ストイコビッチのいた旧ユーゴチームを率いベスト8に導く。『オシム語録』と呼ばれる比喩を使った表現が特徴的で、その実績から以前より待望論が起きていた人物である。

オシムが目指したのは「ボールも人も動くサッカー」。代表はジェフ市原の選手をベースに、田中マルクス闘莉王・鈴木啓太・田中達也・前田遼一・今野泰幸・中村憲剛・長谷部誠など新しい選手が起用された。オシムは多色ビブスを使った複雑なパズルのような練習を課し、常に考えながら動くサッカーを指導する。

北京五輪世代の始動

オシムの日本代表監督就任と同時に、北京五輪出場を目指すU-21チームの反町康治監督就任も発表された。反町は戦術に長けた理論派で、アルビレックス新潟をJ2からJ1に定着させた手腕を買われての抜擢だった。

反町は就任後すぐにU-21の選手を招集しキャンプを行なうと、11月のカタール・アジア大会サッカー競技に臨んだ。フル代表混在の大会で日本チームは健闘したが、惜しくも予選リーグで敗退してしまう。この時の主力は、西川周作・細貝萌・本田圭祐・カレン・ロバート・豊田陽平・家長昭博・平山相太などである。

07年2月、北京五輪のアジア予選が始まった。日本は第2次となるこの予選を圧倒的な強さで勝ち抜き、6月には最終予選進出を決めた。ちなみにこの時、長友佑都・岡崎慎司・李忠成がチームに加わっている。

オシムジャパンの初陣

7月に開催されたアジアカップは、インドネシア・マレーシア・タイ・ベトナムの4ヶ国共同開催の大会だった。オシムジャパンには一時代表を退いていた中澤佑二が復帰し、コンディションを考え招集を控えていた海外組の高原直泰と中村俊輔も加わっていた。

日本はグループリーグでカタールに1-1と引き分けたものの、続くUAEで3-1ベトナムを4-1と打ち破って1位で決勝トーナメントへ進む。決勝T1回戦の相手は前年のドイツWカップで手痛い逆転負けを喫したオーストラリア。オーストラリアは06年に所属をオセアニアからアジア連盟に移しており、この大会がアジアでの初参加となる。

試合は両チーム激しい攻防が繰り広げられ、1-1のまま延長戦でも決着しなかった。準決勝進出を決めるPK戦で、日本は4-3でオーストラリアを退ける。PK戦嫌いのオシムはローカールームへ引き上げ、勝利の瞬間を目にすることはなかった。

オーストラリアには雪辱を果たしたものの、ほとんど同じメンバーで戦い続けた日本は疲れもあり準決勝では2サウジアラビアに2-3と敗れてしまう。韓国と戦った3位決定戦は、双方に疲労が溜まっていたのか荒れた試合となった。

ファールを繰り返した韓国選手が退場させられると、それに猛抗議した韓国の監督とコーチも退席処分となる。数的優位となった日本だがミスを多発、チャンスを逃して結局0-0で試合は終わってしまった。

またもオシムはPK戦を見ることなくベンチから立ち去るが、今度は勝利の報を聞くことは無かった。日本はPK戦で韓国に5-6と敗れ、4位で大会を終了する。オシムイズムの浸透には、もう少し時間が必要なようだった。

北京五輪出場 決定

8月、北京五輪のアジア最終予選が始まった。チームには7月のWユース選手権に出場した選手から、新たに内田篤人・柏木陽介らが加わっていた。最終予選は勝ち上がった12チームを3グループに分け、ホーム&アウェーの対戦の結果、各組1位のみが五輪出場権を得ることとなった。日本の対戦相手はカタール・サウジアラビア・ベトナムだった。

日本は初戦のホームでベトナムを1-0と破り手堅く勝ち点3を獲得した。続くサウジアラビア戦は0-0と引き分けたが、最大のライバルを相手にアウェーで勝ち点1を獲得したのは悪くない結果だった。そして3戦目のホーム・カタール戦で日本は退場者を出すものの、どうにか1-0と辛勝しグループリーグ首位に立つ。

このまま順調に行くかと思えた第4戦のアウェー・カタール戦、日本は後半途中までのリードを守れず77分に追いつかれる。慌てた日本は逃げ切りに掛かるが、ロスタイムの3分ハンドの反則でカタールにPKを与えてしまう。こうして1-2と逆転負けした日本は、予選で初めて黒星を喫してしまった。

それでも第5戦でのアウェー・ベトナム戦では4-0と快勝し、11月21日にはホーム国立競技場にサウジアラビアを迎えて最終戦を行なう。勝ち点でサウジを上回る日本は、引き分けでも五輪出場が決まる。

だが必死のサウジに、日本は前半押され気味となる。後半はサウジにも疲れが出てきて、日本は余裕の展開で相手の攻撃を無失点に抑えた。試合は0-0で終了し、日本は北京五輪出場を決めた。

オシム倒れる 岡田武史の再登板

実は日本が五輪出場を決める5日前、日本サッカー協会に凶報がもたらされていた。日本代表監督のオシムが、急性脳梗塞で倒れてしまったのだ。一時は危篤状態となるものの、懸命の治療によりなんとか命は取り留めた。だが現場での指導は不可能となり、道半ばにして代表監督の座を退かざるを得なくなる。

12月、病に倒れたオシムの後任として、岡田武史の代表監督就任が発表された。当初オシムサッカーの継承を謳っていた岡田監督だが、やり方が合わないと悟り自分流に方針を転換する。日本は南アWカップの第3次予選を戦い、所々苦戦するも順当に最終予選進出を決めた。

オリンピック出場を決めた五輪代表チームは、5月のトゥーロン国際大会に参加するなど強化を図っていた。その時新しくチームに加わったのが、成長著しい吉田麻也・森重真人・香川真司だった。

森重と香川はU-20チームからの招集である。一方、反町監督はOA枠として大久保嘉人と遠藤保仁の二人を希望した。だが諸事情で二人の招集は叶わず、五輪代表はU-23世代だけで北京五輪に臨むことになった。

北京五輪世代の完敗

8月に北京五輪が始まり、日本は初戦でアメリカと戦った。ピッチコンディションは悪く、日本が得意のパスワークを発揮出来なかったのに対し、アメリカはフィジカルの強さで攻めてきた。

前半はどうにか凌いだが、後半開始直後アメリカのパワフルな攻め上がりに失点を喫してしまう。勝ちを目指す日本は、李・岡崎・豊田と次々に前線の選手を投入するが、攻撃に精度を欠き無得点に終わった。

初戦を落とし後のなくなった日本だが、第2戦もナイジェリアのスピードを活かした突破力に苦しむ。ナイジェリアの攻撃に耐え0-0で折り返した後半に、日本は岡崎と豊田を投入する。

だが58分にミスから失点すると、74分にも前掛かりになった裏を取られて追加点を許してしまった。5分後に豊田のシュートで1点返すものの時既に遅く、0-2と敗戦し予選敗退が決まった。

最終戦の相手はオランダ。日本は1勝を目指して戦うも、オランダは様子を見ながら個人技やアーリークロスで揺さぶってきた。こうして後半半ば過ぎまで0-0の状況が続いたが、73分ペナルティーエリアで本田がファールを犯しPKを与えてしまった。

先制された日本はこの後、香川・李・森本貴幸を投入して反撃を試みるが、得点は生まれず0-1と敗れてしまう。この結果、日本は3戦全敗で大会を去ることになった。

ワールドカップ・アジア最終予選の戦い

9月、南アフリカWカップ出場を懸けた、アジア最終予選が始まる。中村俊輔と遠藤保仁を中心に戦う岡田ジャパンだが、2月の東アジア選手権でも低迷するなど調子は上がらなかった。そこで岡田監督はチームを活性化するため、北京五輪を戦った選手を招集して活性化を図る。

最終予選は、勝ち上がった10チームが2つのグループに分かれ、ホーム&アウェーの総当たり戦を行ない、各組の上位2チームまでがWカップの出場権を得ることとなった。日本のグループ対戦相手は、オーストラリア、バーレーン、カタール、ウズベキスタンに決まる。

初戦のアウェー・バーレーン戦は、中村憲剛らのゴールでリードした。しかし終盤、闘莉王の軽率なバックパスがオウンゴールとなるなどバタバタし、どうにか3-2で逃げ切ったが後味の悪い試合となった。

第2戦はホームでのウズベキスタン戦で必勝を期すが、又も闘莉王のミス絡みで先制点を許してしまう。その後玉田圭司のゴールで追いつくが、ホームで1-1と引き分けてしまった。

このあと岡田監督の手腕にも疑問が囁かれ、日本の嫌な雰囲気で第3戦のアウェー・カタール戦が行なわれる。だがこの試合、奮闘した闘莉王が汚名返上のヘディングゴールを決め、日本はようやく3-0と快勝する。

翌09年2月に最大のライバル、オーストラリアをホームに迎えての第4戦が行なわれたが0-0で引き分ける。第5戦は続けてホームに苦手バーレーンを迎えての試合だったが、中村俊のFKが決まり1-0で勝利した。

そして6月6日、アウェーのウズベキスタン戦で岡崎が決勝点を挙げ、予選2試合を残して日本はWカップ出場を決めた。岡崎はこの年に代表で出場した16試合で15得点とブレイク、岡田ジャパンのエースとして名乗りを上げる。

ただ試合内容は決して満足出来るものではなく、グループ1位となったオーストラリアとも力の差を感じさせた。Wカップ本番を戦うには、不安要素が多すぎたのだ。

本田圭佑の台頭

アジア予選終了後、日本代表はWカップ本番に向け強化試合を重ねる。そして9月にはオランダに遠征し、強豪オランダチームと戦った。この試合の後半、岡田監督は本田圭祐を投入する。

この年、オランダ2部のVVVフェンローに所属する本田は、チームの中心としてシーズン16ゴール14アシストの大活躍を見せている。そしてエールディヴィジ(オランダ1部リーグ)復帰の立役者として、リーグMVPにも輝いていた。

自信に満ちあふれた本田がポジション争いのライバルと見定めたのが、同じトップ下のレフティー中村俊輔だった。雨の中、強豪のオランダと互角の勝負をしていた日本は17分、ゴール正面でFKのチャンスを得る。いつものように中村俊と遠藤がボールの後ろに立つが、そこに割り込んできたのが本田だった。

本田は中村俊を睨みつけ言った「俺に蹴らせて下さい」。だが中村俊はその言葉を無視し、ボールをキックする。これ以来二人のポジション争いは、マスコミやファンの注目の的となった。

だがやがて、二人の力関係は逆転する。昇る勢いの本田と、長年過ごしたセルティックを離れ移籍したエスパニョールで出場機会を失った中村俊では、コンディションにも差が出ていた。南アフリカのWカップ本番では本田が攻撃の中心となり、中村俊は控えに回ることになったのだ。

次:サッカー日本代表史 20. 10’南アフリカWカップ

カテゴリー サッカー史

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