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サッカー日本代表史 22. ザッケローニ時代(後編)

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サッカー日本代表史 22. 「ザッケローニ時代」(後編)

ロンドン五輪出場決定

五輪最終予選を首位で折り返した日本は、翌12年2月に後半最初のシリア戦に臨んだ。シリアが政情不安のため急遽、中東の代替地で試合が行なわれた。だがピッチの状態は悪く、細かいパス回しが持ち味の日本は苦しむ。18分、日本のクリアしようとしたボールが、ミスとイレギュラーでオウンゴールとなり得点を許す。

それでも前半のうちに永井謙佑のゴールで追いつくが、後半も押し込まれる展開は続く。このまま引き分けに持ち込みたいところだったが、試合終了直前に決勝点を入れられてしまう。その結果シリアに総得点で抜かれ、日本はグループ2位に落ちる。

気合いを入れ直した日本は次のアウェー・マレーシア戦で奮闘、力をつけてきた齋藤学・原口元気・扇原貴宏らが活躍し4-0と勝って首位に返り咲いた。

そして3月14日に五輪出場を懸けた最終戦、バーレーンとの試合が国立競技場で行なわれた。前半はやや攻め急ぎ相手の守備ブロックを敗れなかったが、ハーフタイムに選手で確認しあうと55分に待望の先制点が生まれる。その4分後にも清武弘嗣が豪快なシュートを決め、残り時間を守り切り2-0と勝利。日本は五大会連続の五輪出場を決めた。

ワールドカップ最終予選開始

6月3日、フル代表でもブラジルWカップ出場を懸けた最終予選が始まった。予選に勝ち上がった10チームを2組に分け、ホーム&アウェーの総当たりで各組上位2チームにWカップ出場権が与えられる。日本の対戦相手は、オマーン・ヨルダン・オーストラリア・イラクだった。

日本は初戦ホームでオマーンを3-0で破り、5日後のヨルダン戦も本田圭佑のハットトリックなどで6-0と大勝して絶好のスタートを切る。そしてその4日後にはグループリーグ最大の敵、オーストラリアと対戦することとなった。日本は吉田麻也が負傷したため、代わりに栗原勇蔵を先発で起用する。試合はホームのオーストラリアが、優勢に試合を進めていた。

22分、カウンターから抜け出そうとしたケーヒルを栗原が後ろからファール、イエローカードを受けてしまう。前半はリズムが掴めなかった日本だが、後半入った55分ゴール前でボールクリアしようとした内田篤人にミリガンがぶつかった。ミリガンのプレーはファールとなり、彼はこの試合2枚目の警告で退場となってしまった。

数的優位となった日本は反撃を開始、20分CKから本田が長谷部誠とパスを交しドリブル突破する。そしてボールをマイナスに折り返すと、ファーサイドにいた栗原がゴールネットを揺らした。

これで日本がアドバンテージを握ったかに思えたが、68分オーストラリアCKのチャンスに内田の守備がファールと判定されPKを与えてしまう。これで同点となったオーストラリアは息を吹き返し、再び攻勢を強める。

そして99分、またも栗原が相手を倒しイエローカード、2枚目の警告で退場となり10対10の戦いとなった。このまま試合は1-1で終了、日本は敵地で勝ち点1を得た。しかし警告を受けた選手も多く、3ヶ月後のイラク戦ででは3人のDFが出場停止となった。

ロンドン世代の躍動

ロンドン五輪出場を決めた日本は、5月のトゥーロン国際大会に参加し酒井高徳など新戦力を試すが、3試合で7失点と守備の弱さを露呈する。そこでDF強化の必要性を感じた関塚監督は、OA枠として吉田麻也と徳永悠平を招集した。こうして五輪代表チームは、7月のロンドン五輪本番に臨むことになる。

日本の対戦相手はスペイン・モロッコ・ホンジュラス。この時の男子五輪代表に対する期待は高くなく、注目は前年の女子Wカップで劇的な優勝を果たした、なでしこジャパンの方に集まっていた。

初戦の相手は強豪スペイン。この時のスペインチームにはダビド・デヘアやコケ・イスコ・ジョルディ・アルバといったタレントに加え、OA枠のハビ・マルティネスやファン・マタらがいた。

日本は豊富な運動量でプレッシャーをかけ続け、スペインの攻撃を抑えた。小気味よいパス回しからチャンスを作り、34分にCKから大津祐樹が先制点を決める。スペインは反撃を試みようとするも、俊足永井のチャージとカウンターにペースを乱される。

さらに40分、DFイニゴのトラップミスから、ボールを奪った永井が相手ゴールに迫る。失点のピンチを防ぐべく、イニゴが後ろから永井に抱きつきレッドカード、日本は数的優位に立った。

好調を維持する日本は、1人少なくなったスペイン相手に後半も攻め続ける。だがGKデヘアが好セーブを連発、追加点は生まれなかった。それでも日本は終始試合をリード、1-0で勝利を収める。強豪スペインをシュート6本に抑えるという快勝だった。

第2戦では守備を固めたモロッコを相手に、日本は攻めあぐねる。その39分、清武がハーフラインよりロングボールを放り込むと、永井が快足を飛ばし追いついた。永井は飛び出すGKの寸前でボールを浮かすと、綺麗な弧を描きゴールへ吸い込まれていった。

試合は1-0で終了し、早くも準々決勝進出を決めた。日本は次のホンジュラス戦を、宇佐美貴史や杉本健勇など出場機会の少なかった選手たちで臨み0-0で引き分ける。

準々決勝エジプト戦に臨んだ日本は、早くも14分に永井の先制ゴールが生まれる。だがその際チャージを受けた永井は脚を打撲し、交替を余儀なくされる。その後も大津や吉田の追加点で3-0とし、メキシコ五輪以来の準決勝に進むことになった。

準決勝メキシコ戦は、聖地ウェンブリー・スタジアムで行なわれた。関塚監督は痛みの残る永井を強行出場させるも、やはり動きは鈍かった。それでも12分、大津のスーパゴールで先制する。

しかし31分に同点とされるとメキシコにペースを握られ、65分にミスから逆転を許してしまう。残り時間、次々に攻撃のカードを切る日本だが、ロスタイムにも失点し1-3と敗れてしまった。

なでしこジャパンが金メダルを逃した翌日の8月10日、日本は銅メダルを目指して韓国と3位決定戦を戦った。この試合に闘志を燃やす韓国はフィジカル勝負で挑み、日本は受け身となる。35には韓国の激しいスライディングタックルで小競り合いが起こるなど、試合はヒートアップした。38分日本はDFのミスからボールを奪われ、ドリブルシュートを決められてしまう。

後半に反撃を試みるも、韓国の厚い壁に阻まれ届かない。そして59分、韓国GKのロングボールから守備ラインを突破され、追加点を許してしまった。日本は杉本や宇佐美らを投入して反撃、87分に大津がゴールネットを揺らす。だがファールがあり得点は認められず、そのまま0-3で試合は終了した。日本は44年ぶりの銅メダルに届かなかった。

Wカップ出場決定 

9月、Wカップ最終予選が再開し、日本はホームでイラクと戦う。この試合、ザックジャパンで先発出場を続けてきた香川真司が初めて欠場するが、前田遼一が得点を決めるとそのまま危なげなく逃げ切り1-0と勝利した。

続く11月のアウェー・オマーン戦では、清武のA代表初ゴールが生まれ日本が先制する。だが逃げ切りに懸かった77分、吉田のファールからFKを決められ追いつかれてしまう。

息を吹き返したオマーンは、サポーターの大声援を受け反撃にかかる。守勢を強いられた日本だが89分、酒井高のクロスを遠藤保仁が反らし岡崎慎司がゴールに押し込んだ。試合終了直前で2-1と劇的な勝利を収めた日本は、Wカップ出場に王手をかけ年内の対戦を終えた。

翌13年3月、引き分けでもWカップ出場が決まるアウェー・ヨルダン戦は、長友佑都と本田が不在の試合となった。荒れたピッチに苦しみながら、日本はチャンスを作る。

しかし好機を逃し続けた前半ロスタイム、油断から先制点を許すと、50分にも速攻を受け0-2とされてしまった。その後の反撃も香川の1点に終わり、1-2と試合を落としてWカップ出場は次戦に持ち越された。

6月4日、ホーム埼玉スタジアムでの対戦は、ライバル・オーストラリアとの試合だった。双方互角の勝負を繰り広げ、戦いは後半途中まで一進一退の状況が続いた。だが試合も終盤に差し掛かった81分、オーストラリアの左サイドからのクロスボールが、そのまま日本ゴール右上の隅に吸い込まれた。

思わぬ失点を喫した日本は、追いつくべく猛攻を開始する。そしてロスタイムに突入した90分、本田がゴール前にクロスを放った。そのボールが相手DFの腕に当たり、日本はPKを獲得する。

キッカーは本田。彼の蹴ったボールは、左に飛んだGKシュウォーツァーをあざ笑うかのようにゴールド真ん中に突き刺さった。寸前で1-1の引き分けに持ち込んだ日本は、こうして5大会連続のWカップ出場となった。

コンフェデレーションズカップの健闘

1週間後、予選最終となるアウェー・イラク戦を1-0で終えると、4日後にはブラジルで開催されたコンフェデレーションズカップにアジアチャンピオンとして参加する。この大会は日本の現在の力を試す絶好の場だった。初戦のブラジル戦、日本は試合開始早々ネイマールに得点を決められると、あとは手も足も出ず0-3と惨敗した。

2試合目はザッケローニの母国であるイタリアとの対戦だった。この試合、中盤を制した日本は本田と香川のゴールで30分過ぎまで2-0とリードする。だがさすがに強豪のイタリアは体勢を立て直し、前半の終わりと後半の始まりで立て続けに得点が生まれ逆転される。その後岡崎のゴールで一旦追いつくも、終盤またもや点を入れられ日本は4-3で敗北した。

第3戦目のメキシコ戦では前半互角の勝負を繰り広げるものの、日本は後半に2点を失う。最後岡崎の得点で一矢報いたが、2-1で敗れてこの大会を3連敗で終えた。

若手の台頭とベルギー遠征

7月、韓国で開催された東アジア選手権に日本は若手中心で臨み、大迫勇也、山口蛍、柿谷曜一朗らの活躍で優勝を果たす。そして10月には東欧遠征を行ない、強化試合を行なった。しかし裏のスペースを塞がれパス回しに終始する消極さで日本の攻撃は停滞、セルビアに0-2ベラルーシ0-1と敗れ打開力のなさを露呈した。

この遠征中、本田がザッケローニに話し合いを申し込み、遠藤と長谷部を加えたメンバーでミーティングが行なわれた。決まり事を減らし、攻撃に人数をかけるべきと主張する本田と、今の戦術で前線の動きの質を向上させたい監督で意見は合わなかった。この時は長谷部が調整を図ったが、チーム内の意志の乱れが噂されるようになる。

11月にもベルギー遠征が行なわれ、日本は2試合をこなした。第1戦の相手は、スナイデル、ファンペルシーが欠場するも、ロッベンらの強力な攻撃陣を擁するオランダだった。

日本は2点を先制されるが44分、大迫のゴールで1点返す。後半日本がペースを握った60分、遠藤が右サイドに展開し、内田、岡崎、本田、内田、大迫と流れるようなパスワークから最後に本田がシュート、同点弾が決まった。

強豪オランダと2-2で引き分けた3日後、地元ベルギーと試合を行なった。ベルギーは育成強化でアザールやルカクなどの若いタレントが台頭、急速に力を伸ばしてきたチームだ。

しかし日本は持ち味のパスサッカーを展開しベルギーを上回る内容を見せ、新戦力柿谷のゴールなどで3-1と快勝した。この勝利は南ア大会以降「自分たちのサッカー」を唱える選手たちに手応えを与えるものになった。

次:サッカー日本代表史 23. 14’ブラジルWカップ

カテゴリー サッカー史

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