コッポラの「地獄の黙示録」

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フランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』は、ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』を原作として、ベトナム戦争に舞台を移し人間の闇と戦場の狂気を浮かび上がらせようとしている。映画全編に渉ってコッポラ独特の映像美で彩られており、叙情詩的なものを感じさせる戦争映画である。

最初の企画はジョージ・ルーカスとジョン・ミリアスの共同制作として進められていたが、ルーカスが『スター・ウォーズ』の撮影に取りかかったためコッポラに映画化権が譲り渡されている。

配役は、アメリカ軍を離脱しジャングルに王国を築いたカーツ大佐にマーロン・ブランド。彼の抹殺を命じられたウイラード大尉にマーティン・シーン。ギルゴア中佐にローバト・デュバル、報道写真家にデニス・ホッパーなど。他に若き日のフィッシュバーンやちょい役でハリソン・フォードも出演している。

物語の前半、ウイラードはカーツ暗殺の行程で戦場の狂気や混乱に遭遇する。彼が最初に出会うのが狂騒的な将校、ギルゴア中佐だ。カーボーイハットに黄色いスカーフを巻いたこの男は、自分本位でよく喋り周囲を威圧する。彼の関心事はサーフィンで、浜辺の大きな波に比べればベトナム人の命などたいしたものではない。

撮影はロケ地フィリピンの軍の協力を得て行なわれた。戦闘はワーグナーの『ワルキューレの騎行』の音楽に合わせヘリコプターの殺戮が行なわれる。戦闘機でナーパム弾を放つシーンでは、数機のF5がジャングルの上から空容器を投下し、それに合わせ地上で1200ガロンの燃料を90秒で炎上させている。

ウイラードはその後、哨戒艇で乗組員と共にカーツの王国を目指して川を遡る。そこで出会うのも日常を逸した戦場の狂乱で、兵士たちが人間性を失っていく姿がに描かれる。中でも哨戒艇の隊員が、過剰反応でベトナムの一般家族を皆殺しにしてしまうエピソードは衝撃的だ。

だがウイラードがカーツの王国にたどり着くと、物語の世界は変化する。戦場の狂気を風刺的に描いた物語から、カーツとウイラードを巡る観念的世界に迷い込んでしまうのだ。『地獄の黙示録』は、終盤の観客を置いてきぼりにするような展開のおかげで傑作になり損ねていると言える。

映画は最初の段階から躓きっぱなしだった。当初ウイラード役を演じていたハーベイ・カイテルは、2週間の撮影後チャーリーシーンに交替させられる。そのチャーリーシーンも心臓発作に襲われ入院、1ヶ月間の撮影ストップを余儀なくされた。協力を仰いだフィリピン軍も出動命令で本番中に現場を離れることもしばしばで、撮影スケジュールは大きく狂ってしまう。

だが一番打撃となったのが、ロケ地を襲った熱帯雨林の台風だった。数日間続いた台風にセットは破壊されロケ地は泥まみれになってしまう。そのため撮影は数ヶ月ストップし、別の場所にセットが作り直された。

当初映画は、制作費1200万ドル・制作日数17週間の予定で開始されるがトラブルが続いたため、撮影は大幅に遅れ制作費も膨れあがっていった。それでもコッポラは自宅を担保に入れるなど資金を調達して制作を続ける。最終的には撮影に61週間を要し、編集にも2年あまりの歳月を掛けられ制作費も3100万ドルまでになっていた。

カーツ大佐を演じるマーロン・ブランドもコッポラを悩ませた。原作ではカーツ大佐は痩躯で長身の男と描かれている。しかし撮影現場に現われたのはダボダボの身体をした肥満男だった。マーロン・ブランドは病院で大急ぎのダイエットを行なっていたが、間に合わなかったのだ。

そのあまりのイメージの違いに、コッポラは脚本の一部を書き直さざるを得なくなった。しかもブランドはセリフも覚えてこず、事前に読むよう言っておいた原作さえ読んでいなかった。コッポラは仕方なく数日に分けブランドに原作を読み聞かせたのである。

カメラマン役のデニス・ホッパーも問題児だった。彼は麻薬中毒で自分のセリフが覚えられず、コッポラは苛立ちながら辛抱強く説明をしなければ行けなかった。ホッパーはシャワーも浴びなかったので体臭がきつく、ブランドが共演をNGにしたほどだった。

脚本に無頓着なマーロン・ブランドは好き勝手な演技を始める。即興的で意味ありげなセリフを口にするが、思いつきに過ぎず次のシーンに繋ぐつもりもなかった。ブランドをコントロール出来ないコッポラは、意味の無いシーンを撮り続けざるを得ず、先の見えない撮影にノイローゼとなる。この頃のコッポラには失敗作を撮っているという自覚があり、破産を覚悟する状況に追い込まれていたのだ。

当初予定されていたカーツのシーンは大幅に修正され、カーツのイメージは厳格な軍人から宗教的カリスマとして描かれることになった。そのため映画の終盤は雰囲気的なものに陥り、カーツは謎の人物のままエンディングを迎える。ブランドの勝手気ままな演技により、映画の終わらせ方に悩んだコッポラの苦肉の策だった。

撮影を終えた『地獄の黙示録』は編集が未完のまま79年のカンヌ映画祭に出品され、『ブリキの太鼓』と共にパルムドールに輝く。この時は政治的工作があったのではないかと批判を受けた。だが79年末にアメリカで公開されると話題性もあり大ヒット、制作費は回収されコッポラは破産を逃れたのである。

この後の80年、コッポラは黒澤明の『影武者』に製作者として参加し、20世紀フォックスに資金を出させる。82年には私費を投じてミュージカル『ワン・フロム・ザ・ハート』を監督する。だが2600万ドルを投じたこの映画は、興行収入64万ドル足らずと大コケしコッポラはついに破産してしまう。

これ以降のコッポラはハリウッドの雇われ監督となり、才気も失ってしまう。『コットンクラブ』や『ゴッドファーザー・パートⅢ』などの大作も手掛けるが、評判はもう一つで巨匠としての復活は果たせなかった。

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