「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」

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75年制作のドキュメンタリー映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』は、溝口健二に脚本家・助監督として師事してきた新藤兼人が関係者39人にインタビューし、世界的監督の実像を描き出そうとした作品だ。溝口健二は名監督として知られる一方、仕事の浮き沈みが激しく俗物的な面も持ち合わせており映画でもその部分が隠さず語られている。

この後、新藤は『ある映画監督』というこの映画を補完する内容の本を出している。その中に新人時代の新藤兼人が小規模プロダクションで脚本の修行をしていた頃、師事していた溝口監督のためにオリジナルシナリオを書いて渡した時のエピソードが綴られている。

溝口は新藤に期待を掛けていたらしいが、脚本を読むと「これはシナリオではありません、これはストーリーです」とにべもなく言い放ったそうだ。そしてそのあと溝口は、新藤の上司に「彼は一人前ではない」と見棄てるようなことまで言ったらしい。大監督に脚本家失格の烙印を押された新藤は絶望のどん底に突き落とされ、ぎりぎりのところまで追い込まれたと書いている。

溝口監督には人を育てる気などサラサラなく、新人に気を遣うという発想もない。いま役に立たない人間など、振り向くこともない徹底した実質主義と冷徹さが、溝口監督の流儀なのだ。だからこそ、後世に残る作品を生み出すことが出来たのだろう。

溝口が映画界入りしたのは1920年(大正9年)22歳の時で、早くも2年後には監督に昇進している。まだ日本映画の黎明期だった当時、溝口はメロドラマや探偵活劇などジャンルを問わず大量の映画を手掛け、監督としての腕を上げていった。

この間、もの当たりが柔らかい男だが酒癖が悪く女好きという評判の立っていた溝口は、29歳の時に刃傷沙汰を起こしている。それは同棲していた女性に背中を切られたという事件で、三面記事にもなり会社から謹慎処分を受けている。そういった経験を経て33年(昭和8年)に監督したのが、サイレント期の傑作『滝の白糸』である。

泉鏡花原作のこの人情劇は、溝口健二の名を高めることになった作品だ。だが、主演を務めた入江たか子の証言によると、この映画には脚本がなく俳優たちは大変な思いをしたそうだ。正確には最初の脚本が気に入らなかった溝口が、撮影の進行と同時に脚本を作っていったらしい。

この映画から溝口のシナリオに対する執拗な追求が始まったようで、その日の撮影の出来を見ながら翌日の脚本をライターに相談し書かせている。サイレント映画なのでもちろん台詞はないが、このやり方は翌日のプランを立てられない俳優やカメラマンを大いに戸惑わせた。しかし信念を持つ溝口は妥協することなく撮影を続け、出来上がった作品は高い評価を受けることになる。

こうして名声を得た溝口監督は36年に『波華悲歌(エレジー)』『祇園の姉妹』という2本の傑作を撮ることになる。制作は永田雅一、脚本に依田義賢、主演は山田五十鈴とまさに溝口映画を語るのに欠かせない人たちが揃ってきていた。

この2作は、溝口が得意とする下町女の悲哀を描いたもので、関西の風俗や建物などを臭うようなリアリズムで写し出した作品として評価されている。トーキーの時代になっても溝口のシナリオへの拘りは相変わらずで、ころころ変わる台詞に俳優たちはあちこちカンニングペーパーを貼って撮影に臨んだそうだ。『祇園の姉妹』はこの年のキネマ旬報ベストテンの1位『波華悲歌』は同2位を獲得、溝口は日本を代表する監督となった。

39年に発表した『残菊物語』も好評を博し、この作品で溝口はスタイルを確立する。『滝の白糸』ではまだカット割りを多用していた溝口だが、『残菊物語』から溝口の代名詞となる長回し撮影が顕著となっている。溝口が長回しを好むのは役者に緊張感を与え、画面に迫力を生み出すためであったが、それだけに演者への負担は大きかった。

演技に納得がいかず何度もテイクをやり直す溝口だが、彼が役者に具体的な指示を与えることはなかった。たまりかねた役者が演技の指導を仰ぐと、溝口は「私は俳優ではないので、そんなことは分かりません。それはあなたが考えて下さい」と突っぱねるだけだった。溝口は役者を追い込むだけ追い込み、内側から情念があふれ出るのを待ったのである。

さらに溝口は最初の撮影で役者の演技が気に入らないと、すっぱり切り捨てる非情さも見せている。『残菊物語』では当時のスター女優であった北見礼子を3日で交替させ、さらに『滝の白糸』で一緒に名作を作り上げた入江たか子も、55年の『楊貴妃』撮影中にあっさり降板させられている。

戦中期から戦後しばらくにかけスランプに陥った溝口だが、52年の『西鶴一代女』で復活する。このあと名キャメラマン宮川一夫も得て、自信を取り戻した溝口は『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』など名作を立て続けに発表、ヴェネチア映画賞など海外でも高い評価を受け国際的名声を手中にする。

こうして世界的な監督になった溝口だが、助監督を務めた増村保造の評は「不得手なものに出会うと、逆上して何が何だか分からなくなる」と手厳しい。その代表例が『元禄忠臣蔵』『新・平家物語』『楊貴妃』などである。大映社長の永田雅一に頼まれこれらの大作を手掛けるものの、全く興味のない題材に溝口は行き詰まり、狼狽するばかりだったらしい。

また小学校以来の友人だった川口松太郎も溝口のことを「階級意識の高い人間だった」と言っている。権威に弱かった溝口は地位のある人に褒められるのを素直に喜ぶ一方、一般人には冷淡な面があったようだ。新藤兼人はインタビューを通し、溝口の俗人としての面もあぶり出している。

そしてこの映画のハイライトとなるのが、後期の溝口作品で主役を演じてきた田中絹代へのインタビューだ。田中に惚れていた溝口は、日頃から色々な人にそれを公言していたが、田中本人に直接その想いを告げたことはなかったそうだ。そのうち溝口が田中に結婚を申し込んだという噂が立ち、新聞社から田中へ取材の電話が入る。

そのとき田中は「溝口先生は演出家として尊敬しているが、亭主としては理想の夫ではない」と答えている。新聞社がそのままの言葉を溝口に伝えると、「僕は田中絹代にふられました」と彼は呟いたらしい。

さらに田中は溝口のことを「仕事仕事で、生活を共にするには面白味がない」と言っている。だが溝口は、仕事を離れ田中と一緒にいても視線を合わせようとせず、ちらっと見ては顔を赤くしていたそうだ。その頃50代半ばだった溝口の、意外に純な素顔が窺える微笑ましいエピソードだ。

56年、病に冒された身体で溝口は遺作となった『赤線地帯』を監督する。そしてこの数ヶ月後、溝口健二は白血病でこの世を去った。享年58歳だった。

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