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黒澤明「どん底」「悪い奴ほどよく眠る」

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底辺を生きる人々の人生模様

黒澤明が『蜘蛛巣城』に続いて作ったのが、57年の『どん底』である。原作はゴーリキーの同名戯曲で、社会の底辺を生きる人々の人生模様を描いた物語である。日本では新劇がこの戯曲を繰り返し上演していたが、その舞台を見て不満を感じた黒澤は、これを江戸時代の長屋話に置き換え映画化しようと考えたようだ。

左翼思想の影響が強い新劇の『どん底』は、貧困の悲惨さや悲劇性を強調した重々しい劇だった。ゴーリキーの原作を読んでいた黒澤はその演出に疑問を抱き、どん底に暮らしながらしぶとく生きる庶民の生き様を、もっとユーモラスに描きたいと思ったのだ。

黒澤はメインキャストに三船敏郎・中村鴈治郎・山田五十鈴を据え、それから左卜全・藤原釜足・三井弘次・清川虹子・上田吉二郎・渡辺篤など喜劇系の役者を多くキャスティング、面白さのにじみ出る映画を目指した。

ダイナミックな群像劇だが

脚本は2週間で書き上げられ40日に及ぶリハーサルを経て、黒澤には珍しい1ヶ月という短期間の撮影で映画は完成している。そしてリハーサルの間には、古今亭志ん生などの人気落語家を呼び、俳優たちに落語を聞かせて江戸時代の庶民感覚を学ばせた。

映画にこれと言ったストーリーはなく、汚い木賃宿を舞台とした底辺の人間たちの悲喜こもごもが語られる。入念なリハーサルで培われた役者たちのアンサンブルは見事で、庶民のバイタリティーがテンポ良く表現されている。特に木賃宿女将の山田五十鈴は迫力満点、女のいやらしさや怖さを余すことなく演じているのはさすがだ。

虐げられて生きる人々は、嘆くばかりでは生きていけない。黒澤はそうした人々をエネルギッシュに活写し、最後には落語のように落としてみせるラストは粋だ。こういったダイナミックな群像劇作りは、まさに熟練の技である。

だがこの集団人情喜劇が、黒澤の意図したように笑えるかと言うとそうでもない。楽しい雰囲気は作っているのだが、役割通りという感じが強く面白さが生まれていない。喜劇にはセンスが必要だが黒澤にそれがあるとも思えず、滑稽な芝居をさせても空回り感がするのだ。

映画としては悪くないが、文芸にも喜劇にも作りきれておらず、観客はどう捉えたらいいか戸惑ってしまうような作品だ。

観念が先走った凡作

翌58年に監督した『隠し砦の三悪人』が予算と撮影日数を大幅にオーバーし問題になったことで、黒澤は東宝から独立し製作会社“黒澤プロ”を設立する。その最初として作ったのが60年の『悪い奴ほどよく眠る』である。

この映画は政治汚職を描こうとする社会派サスペンスで、三船敏郎が復讐に燃える男を演じている。他に敵役となる公団副総裁を森雅之、相棒役に加藤武、友人に三橋達也、その妹で三船の妻となるのが香川京子。黒澤は独立プロ第1弾として、社会的意義のある作品を作ろうとし、この題材を選んだようだ。

映画は三船と香川の結婚披露宴シーンで始まる。豪華な披露宴を通し描かれる背景、招かれた政財界の名士と紹介役の新聞記者、メインキャストの人物像、暗に提示される虚ろさ、と冗長になりそうな導入部分を手際よく処理してみせる脚本が鮮やかだ。この冒頭の披露宴シーンは、コッポラが『ゴッドファーザー』を作る時にも参考にしたことでも有名である。

だが汚職の実体を映画として描くことには苦労があったようで、黒澤作品最多となる5人が脚本に参加している。しかし政治汚職をテーマとしながら、個人の復讐劇をメインにしているため物語がちぐはぐになっている。だが単に三船を正義の男にしてしまったら、話はもっと嘘っぽくなっていたかもしれない。

でもやっぱり復讐劇という設定はまずい。汚職役人が単純な悪人と描かれていて、社会派ドラマの深みや厚みがないのだ。三船がただ復讐に取り憑かれた男に見えて、感情移入も出来ない。これが純粋な復讐サスペンスだったら、もっと面白く見られたかもしれないが。

それから、素性と目的を偽り香川京子と結婚した三船が、新妻と関係を持とうとしないという設定もまずい。こうすることで主役の三船に葛藤と苦悩が生まれるのを狙ったのだろうが、観客は独りよがりで説得力のない設定に入り込めないのだ。

ラストの後味も悪いし、なんだか最後までしっくりこないままだった感じがする。結局この作品のテーマは黒澤向きではなく、観念的なものばかり先走ってしまったかなという印象である。

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