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「スパイダーマン」ソニー・ピクチャーズの再生

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ソニー・ピクチャーズの救世主『スパイダーマン』

どん底からの回復を果たしつつあったソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント(以下、SPE)だが、期待をかけた『GODZILLA』の失敗で躓いてしまう。

それに危機感を覚えた当時の副社長・野副正行氏は若手幹部と話し合いを重ね、リスク管理のシステム化に取り組む。彼らの作った映画制作の可視化と合理化は、現場の自由と創造性を奪うと抵抗を受けるが、これによってSPEの経営は健全化し会社全体のコストも低減した。

しかしスタジオ経営の安定化を図るには、人気シリーズを作れるかどうかが重要で、SPEも『メン・イン・ブラック』や『チャーリズ・エンジェル』をシリーズ化した。でもやはり、SPEを浮上させる決定打になったのは『スパイダーマン』である。

007シリーズを巡る紆余曲折

人気シリーズの題材を求めていたSPEに、ある映画の企画が持ち込まれる。それは英国諜報部員・ジェームズ・ボンドを主役とした海洋スパイアクションだった。007シリーズ映像化の話は『ドクター・ノオ』以前に幾つかあり、脚本家のケビン・マクローリーは原作者イアン・フレミングの了解を得て、オリジナルのアイデアで映画向きの脚本『西経78°』を書いていた。

だがこの脚本による映画化の話が立ち消えとなると、フレミングはマクローリーに無断でアイデアを拝借(スペクターとブロフェルドはマクローリーが生み出した設定)し、小説『サンダーボール作戦』を発表する。のちに『サンダーボール作戦』がイオン・プロダクションによって映画化される事になると、マクローリーは自分に著作権があると訴訟を起こしたのだ。

裁判の結果、マクローリーに原案としての映画化権が認められ、65年の『サンダーボール作戦』は彼とイオンプロの共同制作となる。さらに十数年後、著作権を持つマクローリーは幾つかの会社に『サンダーボール作戦』のリメイクを働きかけ、ワーナーのジョン・キャリーの協力により作られたのが、83年公開の『ネバーセイ・ネバーアゲイン』だ。

ワーナーのジョン・キャリーはこの後ユナイテッド・アーティスツ(UA)に移籍、イオンプロと共同で本家の007シリーズを手掛けることになる。そしてマンネリ化していた007シリーズを、95年の『ゴールデンアイ』で立て直した。

そんな経緯もあり『ネバーセイ・ネバーアゲイン』公開から十数年、マクローリーはSPEの社長となっていたジョン・キャリーに再びリメイクの話を持ち込んできたのである。

この話には社内で賛否が起こったものの、法的に問題はないという報告を受けてSPEはボンド映画の制作を発表する。フレミングがコロンビアに切り売りした『カジノ・ロワイヤル』の映画化権も持っていたSPEには、あわよくば新しいボンド・シリーズを作りたいという思惑があったのだ。(ただし007の商標権はイオンプロにあり、SPEは使えない)

しかしイオンプロと共に007シリーズを手掛けてきたMGM/UAは、この話を黙って聞いているわけにはいかなかった。かつて007シリーズを立て直したジョン・キャリーの存在は脅威であり、MGM/UAはSPEにボンド映画制作差し止めの提訴を起こす。

映画『スパイダーマン』の制作

法廷で行なわれる不毛な争いは長期化が予想され、SPEとMGM/UAの間で和解案が探られるようになる。そこで浮上したのが、マーベル・コミックの生み出したアメコミヒーロー“スパイダーマン”だった。

SPEは“スパイダーマン”の映画化権を所有していたが、それだけでは映画を作れない事情があった。経営状態が悪化したマーベルはDVD化・ゲーム化・グッズ化など権利を細かく切り売りしており、SPEも包括的な権利を持たない状態では動きが取れなかったのだ。

MGM/UAがスパイダーマン関連の権利を多く保有している事実を掴んだSPEは、2つのボンド映画の権利との交換を和解案として持ちかける。こうして交渉は成立、魅力的なコンテンツを得たSPEはシリーズ化を前提とし映画『スパイダーマン』の制作に取り組むことになった。

監督候補には、ティム・バートン、クリス・コロンバス、ローランド・エメリッヒ、デビット・フィンチャーといった名前が挙がっては消えていった。その中で、自ら売り込みをかけてきたのが『死霊のはらわた』シリーズのサム・ライミだった。

ライミは熱心なアメコミファンであり、以前よりアメコミ原作の映画を撮りたいという願望を持っていた。SPEは彼の熱意とアメコミへの見識を買って、監督に起用することを決めたのだ。主演はトビー・マグワイア。子役出身でキャリアは長いが、なかなかチャンスを掴めずにいた若手実力派俳優である。

今に続く人気シリーズ

映画は2000年の末にクランクイン、ニューヨーク・マンハッタン市内を巡る撮影が行なわれた。そしてほぼ撮影が終わりかけた翌01年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生、ワールドトレードセンターのツインタワーが崩壊してしまう。

公開前だった『スパイダーマン』のポスターや予告編にはツインタワーが象徴のように使われていた。SPEはそれらの使用を即刻中止し、撮影済みの画面に映り込んでいたツインタワーをCGで消したり、追加撮影を行なったりと修正作業に追われることになる。そのため01年内に予定されていた公開は、翌年に延期となってしまった。

02年5月、ようやく封切りを迎えた『スパイダーマン』は、公開されるやたちまち大評判となる。サム・ライミ監督はアメコミ世界の中に若者ピーター・パーカーの苦悩と葛藤を描き、等身大ヒーローの成長物語を作り上げていた。

こうして傷つきながらも街を守ろうとするスパイダーマンの姿は、テロの悲劇からの立ち直りを目指すアメリカ国民の心を掴んだのである。

そして映画の特殊効果を担当したのは『スターウォーズ』で有名なVXF撮影の第一人者、ジョン・ダイクストラと技術スタッフたち。彼らは技術的困難を乗り越え、スパイダーマンがマンハッタンのビル群をスパイダー・ウェブ(クモ糸)で行き交うダイナミックな画面を作り出し、その映像的迫力も観客を魅了した。

『スパイダーマン』は世界中で大ヒットし、SPEは念願の巨大シリーズを手に入れた。サム・ライミ監督によるシリーズ3作品はいずれも興行的に大成功、その後リブート作品『アメイジング・スパイダーマン』の1と2も制作される。15年にはマーベル・スタジオと提携、『アベンジャーズ』構想に連なる新たなシリーズが始まっている。

そして18年にはスピンオフ作品『ヴェノム』や、19年にアカデミー賞を獲った長編アニメ『スパイダーマン:スパイダーバース』も作られ、関連商品を合わせて『スパイダーマン』はSPEを支えるキラーコンテンツとなったのだ。

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