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サッカー日本代表史 12. 98’フランスWカップ

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サッカー日本代表史 12.「98’フランスWカップ」

初の大舞台への模索

97年11月、ジョホールバルでのイランとの死闘を制し、Wカップ出場を決めた日本は、引き続き岡田体制で本大会へ臨むことになった。そして12月、マルセイユで開催された抽選会により日本が6月の本大会で対戦する相手が、アルゼンチン・クロアチア・ジャマイカに決まる。

アルゼンチン以外の3チームは、Wカップ初出場である。この組み合わせを受け岡田監督は、1勝1敗1引き分けでの予選リーグ突破を目標に掲げた。

その抽選会に先立ち、マルセイユのベロドローム・スタジアムでヨーロッパ選抜と世界選抜のエキシビション・マッチが行なわれ、日本の中田英寿も選手としてベルマーレの同僚・洪 明甫ホン ミョンボと共に試合に参加している。

最初、ロナウドやバティストゥータといった世界選抜のチームメイトから無視されていた東洋の若者だったが、質の高いプレーを見せると次第に認められるようになる。そしてロナウドとバティが退いた後半は、チームの中心として中田がゲームキャプテンを任されるまでなっていた。

Wカップに向けての強化は、翌98年1月のオーストラリアキャンプから始まった。このキャンプには増田忠俊、中村俊輔、柳沢敦などの若手が新戦力候補として招集されている。さらに4月の親善試合・韓国戦では小野伸二と市川大祐を起用するなど、新しいチーム作りへの模索が続いていた。

キングカズ落選の波紋

韓国戦のあと、岡田監督はチーム力の強化を目指し従来の4バックから3バックへの転換を図った。個の力では世界に劣る日本が、得意のパスワークと組織力で対抗するためのシステムである。その3バックにはレギュラーだった井原正巳と秋田豊に加え、これまで右サイドバックの控えだった中西永輔が抜擢された。

5月、Wカップの最終調整となるキリンカップ代表合宿に、チームの中心となる中田の姿がなかった。極度の疲労とストレスで高熱と全身の発疹に見舞われ、即時の治療及び休養が必要と判断されたのである。いつもマスコミに対してクールに振る舞う中田だったが、二十歳そこそこの若者にかかるプレッシャーは相当なものだったのだ。

一時はWカップ出場が危ぶまれた中田だったが、チームドクターの適切な処置と、本人の努力ですぐに回復を果たしてチームに復帰する。

Wカップメンバーに選ばれるのは22人の選手だった。だが岡田監督はフランス・エスクレバンでの合宿まで状態を見極めたいと、25人の候補選手を連れ5月末に日本を旅立った。そして6月2日の選手登録日ぎりぎりまで悩んだ岡田監督が、落選を通知したのが最年少の市川とベテラン北澤豪、そして三浦知良の3人だった。

市川は残ってチームに帯同することになったが、カズと北澤はイタリアを経由して日本に帰国することになる。以前より噂されていたとはいえ、日本代表の象徴・カズの落選は日本で大きな衝撃を持って報じられていた。

だがそれよりも、カズの落選は残されたメンバーに、1選手を失う以上の影響を与えた。発表後に行なわれたミニゲームでは、動揺したキャプテンの井原が全治10日の怪我を負ってしまう。また新エースと期待された城彰二はカズという盾を失い、重圧を直接受けることになった。

岡田監督は、本番3試合で使う場面があるかどうかが当落の理由だと述べたが、後年この決定を後悔している。クラブ監督などで経験を積み、ベテランがもたらす影響の重要さを認識した岡田は、10年のWカップでは経験豊富な川口能活をサプライズ招集することになる。

ワールドカップ初戦、アルゼンチン戦

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。日本の初登場となる対アルゼンチン戦は14日、トゥールーズのミュニシバル・スタジアムで行なわれた。日本からも多くの応援が来ていたが、杜撰なチケット販売で悪意のある空売りが行なわれ、会場に入れないサポーターが多く発生した。

試合が始まると意外にも慎重な戦いを見せるアルゼンチンに、圧倒的不利と思われていた日本が攻撃を仕掛けた。

日本のパスワークは好調で、アルゼンチと互角の戦いを繰り広げていたが、様子を見ていた強豪が20分過ぎにギヤを入れ始める。後ろのベロン、サネッティからトップ下のオルテガにボールが送られてくるようになり、アルゼンチンの攻撃が激しくなってきたのだ。

28分、相馬直樹のパスがカットされると、オルテガとシメオネの受け渡しから名波の身体にボールが当たり、こぼれ球がバティに渡った。シュートを防ぐべくGK川口が前に飛び出るが、バティは巧みにボールを浮かせゴール左隅にシュートを決めた。

先制された日本だが、選手は諦めることなく反撃を狙う。川口の好セーブもあり相手の追加点を防ぐと、日本の3バックに動きを封じられたクラウディオ・ロペスが61分に交替、アルゼンチンは逃げ切りにかかった。65分、岡田監督は中山雅史に代えて呂比須ワグナーを投入する

するとさっそくアルゼンチンサポーターから罵声を浴びせられたり、シメオネに汚い肘鉄を入れられるなど挑発を受けるが、呂比須は冷静にプレーする。だが結局試合巧者のアルゼンチンに守り切られ、日本は0-1で敗れてしまった。

試合後、アルゼンチン監督ダニエル・パサレラは「日本には苦しめられた」とコメント、力の差があったものの日本は善戦したと言えた。だが、NHKの中継で解説を担当したラモス瑠偉は「日本選手は戦っていなかった」と批判し、各方面で物議を呼んだ。

第2試合クロアチア戦 連敗で敗退決定

第2試合、対クロアチア戦はナントのラ・ボージョワールで行なわれた。クロアチアは初出場とはいえ、96年の欧州選手権では高い実力を見せつけている。大会直前にエースのボクシッチを怪我で失い、日本戦も司令塔ボバンが欠場となったが、ほかにもシュケル、アサノビッチ、プロシネツキといった攻撃のタレントが揃った手強いチームだった。

当日のピッチは40度を超え、酷暑の中で行なわれた試合となった。そのため両チーム動きが鈍かったが、より影響が大きかったのは年齢層の高いクロアチアの方だった。早い段階でへばってしまったクロアチアは、ほぼ5バックとなった後方からロングボールを適当に放り込むという、大味なサッカーで場を凌いでいた。

最前線に張っていたシュケルは、まともなパスが来ないのに苛立ち後方の選手に文句を言うが、暑さに参っていた彼らはろくに返事さえ出来なかったようだ。一方日本の動きもあまり良くなく、双方中盤の間延びした戦いが続いていた。

34分、中田が球を持ちすぎるプロシネツキからボールを奪うと、ゴールに向かって走っていた中山にロングパスを送る。中山は、ほぼ真後ろから送られてきた難しいパスを右腿で思い通りにトラップ、GK左サイドを狙いボールを打ち抜いた。だがそのシュートは、クロアチアGKラディッチの神がかりな反応により弾かれてしまう。

67分にはプロシネツキが途中交代、ふらふらになった彼はベンチ横で嘔吐するほど消耗していた。最大のチャンスを逃した後、動きの悪い相手に攻めあぐねる日本は後半に岡野雅行を投入、森島寛晃にもアップの準備をさせた。

日本ベンチがそんな慌ただしい動きを見せていた77分、中田が出した山口素弘へのパスをアサノビッチがカットする。そしてペナルティエリア右横にポジションを取ったシュケルが、巧みな動きで中西のマークを外しフリーでシュート、ボールは川口の反応虚しくゴール左に吸い込まれていった。

こうして日本はまたもや0-1と敗北、アルゼンチンとクロアチアが早くも勝ち点6を挙げたため、日本はジャマイカと共にグループリーグ敗退が決定した。この試合の直後、岡田監督は大会終了後の日本代表監督辞任を発表する。

最終ジャマイカ戦 中山に日本初ゴールが生まれるも、世界の壁に跳ね返される

Wカップ初勝利という目標は残っていたものの、選手たちのモチベーションが上がらないま26日に最終ジャマイカ戦を迎えた。試合はリヨンのスタッド・ト・ジェルランで行なわれたが、現地フランスでは放送さえ無い消化試合である。ゲームは日本が支配するが、FWの城がフリーで打ったシュートを決められないなど、多くのチャンスを逃し続けた。

そして39分、相馬の上がったスペースを狙われジャマイカにボールを運ばれると、ウイットモアに先制点を決められてしまった。さらに54分、集中を欠いた日本は再びウイットモアに得点を許してしまう。このまま負けられない日本は57分に呂比須と平野孝を投入、反撃を試みる。

そして74分、左に入った平野のクロスをファーサイドに走り込んだ呂比須が頭で折り返すと、そこに走り込んだ中山がシュート、日本にWカップ初得点が生まれた。同点を狙う日本は79分、まだ18歳だった小野を投入する。小野はジャマイカ選手の股を抜きドリブルシュート、点は決まらなかったがスキルの高さを見せた。

その直後、ジャマイカ選手と接触した中山が転倒、すぐに立ち上がるものの膝に尋常ではない痛みが走った。実はこのとき腓骨骨折をしていたのだが、既に3人の交代枠を使い切っていたことから、中山は試合終了までプレーを続けた。

試合は1-2で終了、勝利へのモチベーションは陽気なジャマイカ選手の方が高かったようだ。日本は初めてのWカップで3試合を戦い全敗、勝ち点0に終わる。総失点は4で、3試合で放ったシュート55本のうち、決まったのは僅かに一つ。大会参加32ヶ国中、最低の決定率だった。

日本に与えられた課題

29日に日本代表は帰国するが、成田空港のゲートから出てきた城選手が、心ないサポーターに水をかけられるという事件が起きる。エースとして期待されながら無得点に終わった城への失望感は大きく、シュートを外して苦笑いする顔や、試合中にガムを噛む行為も批判を受けていた。

だが城は、膝に爆弾を抱えたまま3試合の先発出場を強行、決して万全の状態では無かった。そしてカズの不在も彼の負担を大きくし、眠れない夜が続いていた。苦笑いも、ガムも、そういった城の心理的不安が現われたものだったが、サポーターは知るよしもない。水をかけられたことも受け入れてしまうくらい、城は自信を失っていた。

Wカップ初出場を果たした日本だが、健闘するもこれといった成果を挙げられなかった。選手も監督もスタッフも協会も国民も、日本には誰も本当のWカップの戦いを知る者がいないという、手探りの大会だった。

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カテゴリー サッカー史

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