サッカー日本代表史 15. 02’日韓Wカップ

スポンサーリンク

近づくワールドカップと、三都主の代表入り

01年12月1日、日韓Wカップの本大会組み分け抽選会が韓国・釜山で行なわれた。開催国の日本はシード国扱いとなり、対戦相手に決まったのが、ベルギー・ロシア・チェニジアである。

翌02年1月、トルシエは海外組を除いた41名の選手を招集し、鹿児島県・指宿でトレーニングキャンプを行なう。さらに2月には、静岡での3日間合宿に34人の選手を参加させた。

この合宿には秋田豊や鈴木秀人・大岩剛といった今までトルシエジャパンに招集されてこなかったベテランのほか、01年の11月に日本国籍を取得したばかりの三都主アレサンドロ(アレックス)などの新戦力も参加していた。トルシエは最後まで競争意識を煽ることで、選手たちの気の緩みを防ごうとしたのだ。

三都主は合宿に参加すると、周囲と積極的にコミュニケーションをとり、練習でも切れの良いプレーを見せた。そして3月のウクライナ戦では、さっそく左サイドとして先発に起用される。その後の強化試合でも使われ続けた三都主は、チームとの連携も深まり主要メンバーとなった。

その三都主に押し出される形となったのは、中村俊輔だった。中村は以前よりトルシエに冷遇されており4月のコスタリカ戦前には、はっきりWカップ当落線上の選手だという宣告を受けている。しかもこのコスタリカ戦では少しの出場機会しか与えられず、この後の試合でもほとんどチャンスを与えられなくなってしまう。

W杯メンバー発表 中村俊輔の落選

中村がトルシエに疎んじられた理由は、監督の唱えるオートマティズムの戦術に、ファンタジスタである中村のプレーが上手く合わなかったことがまず挙げられる。さらに感情をあまり表さない中村の性格は、戸田和幸や鈴木隆行といったファイターを好むトルシエに敬遠されていた。

それとトルシエはスター扱いされる選手を嫌っており、Jリーグ屈指の人気者である中村はそういった選手の代表だった。トルシエはマスコミに中村の冷遇について問いただされると、守備の弱さをあげつらうなどムキになって反論している。

もっともスター扱いされるのは中村に限らなかったが、絶対的存在の中田英やトルシエに気に入られた黄金世代に比べると、中村に対する評価は厳しい。そして黄金世代が育つと、中村はトルシエジャパンにおけるポジションを失うが、以外と神経のか細いトルシエは廻りの批判を気にして彼を代表から外せないでいた。

5月23日、Wカップに臨む代表メンバーが発表された。この発表の場にいるべきはずのトルシエ監督は、質問を嫌ったのか欠席している。そしてサプライズ招集となったのが、大ベテランの中山雅史と秋田豊である。直前に虫垂炎と診断された小野もメンバー入りし、足の怪我が癒えたばかりのキャプテン森岡隆三も代表に復帰した。

血栓症を患ってしまった高原直泰と事前の試合で低調なパフォーマンスに終わった中澤佑二は選外となっていた。そして、アジアカップ優勝の功労者であった名波浩と中村俊輔も選ばれなかった。中村の落選は予想されていたとはいえ、サポーターや関係者を落胆させた。

ワールドカップ日韓共催大会 2002 開幕

日韓Wカップは5月31から始まり、ソウルでの開幕戦では優勝候補フランスが新鋭セネガルに負けるという波乱のスタートとなる。その4日後の6月4日、日本の初戦は埼玉スタジアムに満員の観客を集め行なわれた。対戦相手は『赤い悪魔』の異名を持つベルギーで、小野は虫垂炎の痛みを薬で散らし左サイドで先発した。

初戦ということもあり、前半は両チーム慎重な試合運びに終始する。日本はリスクを避け、DFから前線へボールを当てて相手の隙を窺う戦術に出るが、なかなかチャンスは生まれない。ゲームに動きがあったのが後半に入った57分、オフサイドライン際で残っていたベルギーの主将ウイルモッツに、バイシクルシュートからの得点を許してしまう。

日本のフラット3はベルギーに研究されており、オフサイドラインの上がりが狙われていたのだ。だが日本は気落ちすることなく、すぐに反撃に出た。先制点を許した2分後、中田浩二が相手のパスをカットする。ボールは小野に渡り、そこから相手ゴールに走り込んでいた鈴木隆行にロングボールが送られた。

ベルギーDFの緩慢な動きから鈴木が抜け出すが、前に出てきたGKデフリーヘルによりシュートは阻止されようとしていた。しかし鈴木が寸前で右足を伸ばすと、ボールはつま先に当たりGK脇を抜けて同点ゴールが生まれる。

勢いに乗る日本は67分、稲本が中盤でボールを奪うと柳沢敦とのワンツーでゴール前に抜け出しシュート、鮮やかな逆転弾が決まった。スタンドからは大歓声が上がり、会場は日本の初勝利を期待するサポーター期待に包まれた異様な雰囲気となる。

押し気味に試合を進めていた日本だが、71分左脚を痛めていた森岡が動けなくなってしまった。そこで急遽、宮本恒靖が森岡と交替し、DFラインを統率することになった。宮本は直前の練習試合で鼻を骨折しており、黒いフェイスガードを着けて登場、バットマンと呼ばれ話題となる。

しかし突然の交代劇で日本守備のリズムは崩れ、ベルギーの反撃を受ける。75分、日本はベルギー選手がパスを出すタイミングでDFラインを上げた。だがボールはオフサイドラインの裏を狙われ、ベルギー選手に渡ると、楢崎正剛の頭を抜く同点ゴールを決められてしまう。日本はDFリーダーの交替というアクシデントもあり、同じ失敗を繰り返してしまったのだ。

86分、稲本がペナルティーエリアで鋭い切り返しのあと倒れながらシュート、再びゴールを決めた。しかしこの場面は、反則があったとして得点は認められなかった。

こうして試合は2-2で終了、勝利は逃したものの勝ち点1を得ることが出来た。だが自動的にラインを上げるフラット3のオフサイド戦術は研究され、Wカップの舞台では通用しないことが明らかだった。そこで宮本・中田浩・松田直樹らのDF陣で話し合いが重ねられ、守備戦術が見直される。

ロシア戦の歴史的初勝利とグループ予選突破

9日、横浜国際総合競技場で日本の第2戦が行なわれた。対戦相手のロシアは、初戦のチェニジア戦で勝利し勝ち点3を手にしている。主力選手はスペインのセルタで活躍するモストボイとカルピンの二人だが、日本戦では司令塔のモストボイが怪我により欠場となった。

勝利が欲しい日本は、高い位置からロシアにプレッシャーをかけて試合を有利に展開する。カルピンや成長株の若手イズマイロフも日本DFが上手く抑え、ほとんどチャンスらしいチャンスを与えなかった。宮本が統率するフラット3も慎重にラインを保ち、トルシエの「上げろ、上げろ」の指示も気にせずに臨機応変な対応を見せた。

そして51分、中田浩が中盤から前線の柳沢敦にグラウンダーのパスを送ると、柳沢が稲本へワンタッチパス。するとオフサイドラインぎりぎりで素早く反応した稲本が、巧みにボールを浮かせ先制点が生まれた。

この後も日本はロシアを攻め続け、何度か得点機を逃すものの試合は1-0で終了、歴史的なWカップ初勝利を挙げた。勝ち点も4となり次戦チェニジア戦に引き分け以上か、負けても1点差以内なら決勝トーナメント進出を決めるという有利な条件となった。

第3戦となるチェニジア戦は、大阪の長居スタジアムで行なわれた。決勝トーナメント進出がかかった試合で慎重になる日本と、カウンター狙いで得点を目指すチェニジアとの戦いは静かに始まった。前半の戦いが硬直化してしまったと感じたトルシエは、後半からミスの目立った稲本と柳沢に替えて森島寛晃と市川大祐を投入した。

すると後半開始の僅か3分、中田英のスルーパスを相手ディフェンスがクリアミス、こぼれ球を拾った森島がキレのある動きで先制点を叩き込んだ。さらに75分、右サイドから切れ込んだ市川がゴール前にクロスを送ると、そこへ飛び込んだ中田英がヘディングシュート、日本は追加点を挙げチェニジアを引き離す。

試合はこのまま終了して日本は2-0と勝利、勝ち点7をあげてグループ首位で決勝トーナメント進出を決めた。だが、この試合のあとの記者会見でトルシエは「これからはボーナスのようなもの」と戦闘モードを外し、ホスト国として最低限の義務を果たした選手にも気の緩みが出てしまう。

失われたベスト8進出

日本が決勝トーナメント進出を決めた数時間後、もう一つのホスト国・韓国は強敵ポルトガルを下し予選リーグを突破していた。韓国選手たちは仕事が終わったと胸をなで下ろしていたが、監督のフース・ヒディンクは「戦いはこれからだ」と奮起を促し、日韓両チームに大きな違いが生まれることになる。

日本の決勝トーナメント第1回戦は、雨の降る宮城スタジアムでトルコを相手に行なわれた。主審は決勝でも笛を吹くことになるイタリアの名物審判、ビエルルイジ・コリーナである。トルシエはこの試合、グループリーグで好調だった選手に替えFWに西澤明訓、1.5列目に三都主を起用し中田英と組ませた。

今まで試したことのない布陣に選手たちは戸惑い、トルシエのオートマティズムも機能不全に陥った。そんな不安からか、今までスムーズに行なわれていた連携に乱れが生じてしまう。11分、中田浩の横パスがハカン・シュキルに奪われ、慌ててクリアするがトルコにコーナーキックを与えてしまった。

そのコーナーキックからウミト・ダバラにヘディングシュートを許し、日本は先制されてしまう。トルコのエース・シュキルを警戒するあまり、ダバラへのマークが疎かになっていた。日本選手は馴れない戦い方に浮き足立ち、セットプレーの守備で集中を欠いてしまったのだ。

リードしたトルコは守りを固め、日本は引いてしまった相手を攻めあぐねることになる。41分には三都主が放ったフリーキックがバーを直撃、得点を逃すともはやこれ以上のチャンスは訪れなくなった。後半開始には三都主と稲本を退かせ鈴木と市川を投入、終了直前にはその市川を森島に替えるなど、トルシエの采配はちくはぐだった。

選手のプレーも淡泊なまま試合は終了、日本は1-0で1回戦敗退を喫してしまう。トルシエは組織作りや選手を奮起させることには長けていたが、肝心な所で采配や選手起用が消極的になるという欠点があった。その顕著な例が、シドニー五輪のアメリカ戦でありこのトルコ戦である。トルシエはエキセントリックで傲慢不遜に振る舞っていたが、非常にナイーブで弱気な一面もあったのだ。

この数時間後、韓国は優勝候補イタリアを延長戦で下すという大金星を挙げる。誤審の疑惑も囁かれた試合だったが、韓国選手の闘志あふれるプレーが呼び込んだ勝利であるのは間違いなかった。

次:サッカー日本代表史 16. ジーコ時代(前編)

カテゴリー サッカー史

スポンサーリンク
スポンサーリンク




スポンサーリンク




シェアする

フォローする

スポンサーリンク
スポンサーリンク