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サッカー日本代表史 18. 06’ドイツWカップ

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サッカー日本代表史 18.「06’ドイツWカップ」

ドイツ・ワールドカップ 代表メンバー発表

05年12月9日、ドイツのライプツィヒでWカップ本戦の組分け抽選会が行なわれ、日本の対戦相手はオーストラリア・クロアチア、そして監督ジーコの母国であるブラジルに決まった。同組の絶対的本命・ブラジルは3戦目での対戦となるので、1・2戦でどう勝ち点を稼ぐかが予選勝ち抜けのポイントとなると考えられた。

06年1月に合宿を行ない、2月末にはブラジルと対戦するドイツの会場で、予行演習としてボスニア・ヘルツェゴビナと戦った。小雪降る中の試合は低調だったが、ロスタイムに中田英寿のゴールが生まれ2-2と引き分ける。勝負強さは見せたものの、悪条件での中田英頼りは相変わらずだった。

5月15日、ドイツWカップに臨む代表選手23人が、ジーコ監督の口から発表された。淡々と選手名が読み上げられる中、最後に名前を呼ばれたのがFW巻誠一郎である。巻はまだ代表の新顔と言ってよく、怪我で調子を落としていた久保竜彦を退けてのサプライズ選出だった。しかし発表されたメンバーにはまとめ役となるベテランが不在で、一抹の不安を感じさせた。

そして最終合宿を終えチームはドイツへ出発、30日に開催国ドイツと親善試合を行なう。この試合は、詰めかけたドイツ人サポータを驚かすものとなった。格下と思われていた日本が試合の主導権を握り、高原直泰の2得点で終盤までドイツをリードしたのである。

さすがに地力に勝るドイツは、最後にクローゼとシュバインシュタイガーが連続して得点を決め2-2と引き分けたが、この試合の結果は日本サポータに本番での活躍を期待させるものだった。

初戦オーストラリア戦 屈辱の逆転負け

ドイツ戦の5日後、日本はマルタと親善試合を行う。しかしドイツ戦でピークを迎えた選手たちの士気は上がらず、内容は格下相手に1-0という結果で低調なものに終わる。またジーコ監督の方針により練習は全て公開とされるが、ファンやマスコミに晒された選手は集中力を削がれ、コンディションも落としていった。

6月9日ドイツWカップが開幕、その3日後に日本の初戦対オーストラリア戦がカイザースラウテルンのフリッツ・ワルター・スタジアムで行なわれた。気温は急上昇し猛暑の中での戦いとなったが、平均年齢も若く暑さ対策にも馴れている日本の方が有利と思えた。

一進一退の攻防が続いた26分、中村俊輔のセンタリングに飛び込んだ柳沢敦がGKのシュウォーツァーと交錯、ボールはそのままゴールに吸い込まれていった。オーストラリアは猛抗議をするも、得点が認められ日本は先制した。中村は大会前から原因不明の発熱で苦しんでおり、体調は万全ではなかったが気力でプレーしていた。

日本は体格に勝る相手を、DF陣やGK川口能活が上手く抑える。このまま行くかと思えた56分、DFの坪井慶介が脚を痙攣させて茂庭照幸との交替を余儀なくされた。茂庭は大会直前に負傷した田中誠に替わり、旅行先のハワイから急遽呼ばれた選手で連携面に不安があった。

61分、オーストラリアのヒディンク監督はケーヒルに続き、194㎝の長身FWケネディを投入すると、圧力の強さに日本のDFラインは下がり出す。75分、ヒディンクは畳みかけるようにアロイージを投入、日本選手の体力は見る見るうちに奪われていった。

この状況に、79分ジーコが投入したのが小野伸二だった。ジーコの狙いは、ボールキープ力のある小野にゲームを落ち着かせることだった。だが明確な指示を受けずに試合に入った小野は攻撃参加、日本のポジショニングに乱れが生じる。だが元々攻撃の選手である小野が前に出るのは、当然と言えば当然だった。

84分、スローイングからのボールを飛び出した川口がキャッチミス、そこからケーヒルに同点ゴールを決められてしまう。さらに89分、先制点で勢いに乗るケーヒルを防げず、ミドルシュートを打たれついに逆転を許してしまう。

そしてロスタイムに入った92分、アロイージに駄目押し点が生まれ、ジ・エンド。もはや疲れと混乱で日本の組織は崩れ、オーストラリアを止める力は残っていなかった。こうして1-3で試合は終了、日本は残り8分で3失点という屈辱的な負けを喫してしまった。

まとまりを欠く日本代表

オーストラリアが1点を先制されたハーフタイム、ヒディンク監督は「この試合は我々が勝つ。スコアは3-1だ」と選手に言い切った。もちろん選手を鼓舞するための言葉だが、そこには根拠も自信もあった。

大会前、ヒディンクは徹底したトレーニングを課し、選手のフィジカルを鍛え上げた。さらに試合前には1日半の自由時間を与え、心身ともに最良の状態へ仕上げていたのだ。

オランダのクラブ・PSVとの兼任でオーストラリア代表の指揮を引き受けたヒディンクだが、限られた時間で選手を観察し、リーダーのビドゥカを叱られ役にしてチームを引き締めた。

こうして代表チームを掌握した監督は、選手の気持ちを一つの方向に向け、日本戦での逆転劇に繋げたのだ。このあとオーストラリアはブラジルに敗れるが、最終戦で0-2からクロアチアに追いつき引き分けて、予選突破を果たす。

それに対して日本チームはまとまりを欠き、危機感を覚えた主将の宮本恒靖と中田英は選手ミーティングや決起集会を催す。だがチームは一つに纏まることはなく、マスコミの間では選手間の不和も伝えられていた。

18日、第2戦の対クロアチア戦はニュルンベルグのフランケン・スタジアムで行なわれた。ジーコはそれまでの3バックから4バックに変更、中盤に小笠原満男を入れた。会場は前試合に続き暑さに覆われ、日本選手の動きは重かった。中田英や小笠原が積極的にミドルシュートを打つも、精度が低く得点には至らなかった。

21分、相手FWの動きにつられロングボールへの対処が遅れた宮本は、ペナルティーエリアでファール、クロアチアにPKを与えてしまう。このピンチは川口がファインセーブで防が、通算2枚目の警告を受けた宮本は、次のブラジル戦では出場停止となってしまった。

50分、右サイドの加地亮がワンツーで相手陣内に切り込み、ゴール前に位置した柳沢に決定的なパスを出す。だが絶好の得点機に柳沢がシュートミス、ボールはゴール右に大きく外れていった。いわゆる「急にボールが来たから」起きた情けないミスだった。

そして試合は0-0のスコアレスドローで終了、日本は勝ち点1を得るものの、この時点でグループ最下位に沈んでしまう。だが、まだ僅かな予選突破の望みが日本に残されていた。しかしそれは、最終ブラジル戦で2点以上の差をつけての勝利が条件、という厳しいものだった。

日本のあまりの決定率の低さに業を煮やしたジーコ監督は、FW陣にシュート練習を命ずるが、焼け石に水で何の解決にもならなかった。

ブラジル戦の惨敗

最終戦のブラジル戦は、ドルトムントのワールドカップ・スタジアムで行なわれた。ジーコは結果を出していない柳沢と高原に替え、巻と玉田圭司をFWの先発に起用した。一方、2連勝でグループリーグ突破を決めていたブラジルも、ベテランのカフーやロベカルを休ませるなど先発5人を入れ替えてきた。

試合は序盤からブラジルが圧倒、再三の決定機を作られるものの、川口の好セーブで日本はなんとか耐えた。ゲームを支配しながら得点が入らないことに、ブラジルのリズムに乱れが生じ出す。

そして34分、左サイドでボールをうけた三都主が空いたスペースへドリブルを開始。そこへ玉田がDF裏へ抜け出し、三都主からパスを受けるとゴール左に切れ込みシュート、日本に先制点が生まれた。

奇跡の実現へ日本選手の士気は上がるが、ブラジルの攻撃も目が覚めたかのようにペースを早めた。そして前半ロスタイムの46分、ロナウジーニョのパスを右から走り込んだシシーニョが頭で折り返す。ボールは中央で待ち構えるロナウドがヘディング、同点ゴールを決められてしまった。

後半に入るともはやブラジルの一方的な展開となり、53分フリーの位置にいたジュニーニョがミドルシュート、強烈な無回転ボールが川口の伸ばした両手をすり抜け、左ゴールネットへ突き刺さった。そして59分、ジウベウトの3点目が生まれると、さらに81分には中央にデンと構えるロナウドに、この日2点目のゴールを許してしまった。

この2点目はドイツ、ゲルト・ミュラーの歴代得点記録14に並ぶもので、1・2戦無得点だったロナウドを調子づかせた。ほぼ試合が決まったことで、82分にブラジルは守護神ジッダを第2GKのロジェリオ・セニに交替する。もはや決勝Tに向けて、ブラジルの調整試合となってしまったのだ。

最強世代の挫折と中田の引退

日本はこれといったチャンスも掴めないまま試合は終了、1-4と完敗を喫し予選リーグでの敗退が決まった。戦いを終えた選手たちは日本観客席に挨拶へ向かうが、ピッチに倒れ込んだ中田英はしばらくその場を動こうとしなかった。

その中田英に声を掛けたのは、パルマにいた頃の元同僚アドリアーノと、日本代表の主将・宮本だけだった。他の選手が彼を遠巻きで見つめるだけだったのは、嫌われているというより近寄りがたかったのだろう。どちらにしても中田英が、日本代表で孤立した存在であったのは変わらない。この後7月に中田英は、現役引退を発表する。

ピークを迎えた黄金世代プラス中田、中村の最強チームに、国民の期待は高かった。それだけに、ドイツWカップで1分け2敗の予選敗退という結果は、皆に大きな失望感を与えた。ジーコは敗戦の理由を、一部選手のモチベーションの低さや決定力不足に責任転嫁する。しかしこれらはジーコの力量のなさが招いたことで、見苦しい言い訳でしかなかった。

ジーコはコンディション調整に無頓着、チームマネジメントにも疎く、選手起用が偏っていた。ヒディンクのオーストラリアや、王国ブラジルに惨敗するのは当然の結果だったのだ。だが監督経験のないジーコに、日本代表の指揮を任せたのはサッカー協会幹部である。漠然とした期待だけで監督選びをしたことは、あまりに安易だったと言えるだろう。

次:サッカー日本代表史 19. オシム/岡田時代

カテゴリー サッカー史

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