市川崑監督「東京オリンピック」

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来年7月に開催される東京オリンピックまであと1年足らず。このタイミングで先日、昭和の東京オリンピックの記録映像を使いながら、今また改めてオリンピックを考えようとするNHKの番組『1964 TOKYO』が放送されていた。

政府の肝いりで進められ、1965年に公開された記録映画が『東京オリンピック』だ。その作家性の高い内容で「芸術か記録か」という論争を呼ぶが、公開されると観客動員数1950万人の大ヒットを記録する。もし単なる記録映画だったら、これだけの観客を惹き付けることは出来なかっただろう。

1950万人という観客動員数は2001年の『千と千尋の神隠し』に抜かれるまで、36年間観客動員の最多記録を誇るものだった。ただし『東京オリンピック』は学校や公民館など劇場以外でも上映が行なわれ、事実上の動員数記録のトップにあると言われている。


監督は、シャープな映像と都会的センスで、数々の名作を世に送り出した当時48歳の市川崑。コメディから文芸作まで多彩なジャンルの作品を手掛けていたが、記録映画は初めてだった。それどころかこの時までオリンピックに対する知識はほとんどなく、知っているスポーツは野球ぐらいだったそうだ。

市川監督の下、この記録映画のため集められたのは、ニュース映画の監督やカメラマンなど総勢561名、予算は2億7千万(現在の価値に換算すると10億円超、最終的には製作費3億5千万)という大掛かりなものである。撮影班には、数々の傑作映画を撮った名キャメラマン宮川一夫の名前もあった。

脚本は市川崑と和田夏十(なっと)の名コンビ夫婦、そして白坂依志夫と谷川俊太郎の4人。脚本はまず最初に劇作家でもある谷川が、オリンピックを一編の物語として構成するという、記録映画としては邪道と思えるやり方で進められた。

そのうえで監督の演出意図を大勢のスタッフに提示するため、各競技の緻密なシナリオが作られていったらしい。『1964 TOKYO』の番組内で紹介されたシナリオには、あらかじめ予想されるような選手の様子が、観てきたかのように内面の心理にまで渡って描かれていた。

市川崑は総監督的立場で、競技別に立てた監督と話し合いながら毎日演出プランを練っていたそうだ。そして重要な競技の撮影には、市川監督自ら現場に赴き撮影するというやり方だったらしい。

オリンピック映画としては、ベルリンオリンピックを記録した女性監督レニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』(1938年)が有名だ。この『オリンピア』は記録映画というより芸術作品、市川監督もかなりこの作品を意識し、直接リーフェンシュタール女史にも会ってもいる。

東京オリンピックの前年、アメリカで黒人差別撤廃を訴える運動が起きたように、当時は厳然たる差別が世界中に存在していた時代だった。『1964 TOKYO』によれば、市川監督は記録性よりメッセージ性を重視し、世界の平等と平和というテーマを、映像に込めてアピールしようと考えたらしい。

そのため映画では黒人選手や女性選手など、当時のオリンピックではではまだマイナーだった存在を、人種や性別の隔てなく躍動感溢れる姿で描いている。

通常の記録映像なら、俯瞰で全ての選手を捉え、レースの展開が分かるような撮り方をする。しかし市川監督は望遠レンズで選手を追いかけ、競技ではなく人間の動きを写した。そのため監督はカメラマンに、「とにかく選手をアップで撮れ」としつこく指示していたそうだ。

そしてまた監督が狙ったのが、競技の前で見せる選手の癖や、競技直後の生態を写し出すこと。男子100m決勝のシーンでは、スタートラインで準備する選手をクローズアップで捉え、スロー映像で彼らの緊張や不安の表情を克明に映し出す。

また女子800m決勝では、最後に5人をゴボウ抜きし1位となったイギリスのアン・パッカー選手が、ゴールのテープを切るとそのまま恋人のもとに駆け寄り、抱擁し喜び合う様子をずっとアップで写し続ける。市川監督は死力を尽くす競技の前後にこそ、人間のそのままの姿があると考えたのだ。

柔道では日本が4階級中3階級で金メダルを獲ったのに、映画に写し出されるのは神永昭夫がオランダのアントン・ヘーシンクに敗北した試合のみ。監督は日本が敗北したこの試合こそ、柔道が世界の競技になったという実感を持ったようだ。

優勝が決まった瞬間、興奮して畳に上がろうとしたオランダ青年を、ヘーシンクが神聖な場所だと手で制したのは有名な話。映画でも、互いへの礼で始まる試合の様子が静かに描かれ、日本柔道がその精神性とともに海外へ伝わったのだと感じさせる。

またハイライトとなるマラソン競技の、独走したアベベの孤高な姿と、最後に抜かれて3位となった円谷幸吉の無念の表情も非常に印象深い。

そして最後、整然と行なわれるはずだった閉会式だったが、各国の選手が入り乱れ喜び合いながら、お祭りのような行進を始める。『1964 TOKYO』では、粛々と行なわれるはずの閉会式を思い描き、静かな結末となる脚本を用意していた市川監督が、予想外の事態に真っ青になるエピソードが語られていた。

しかし脚本で映画を作る監督と違い、ぶっつけ本番のニュース映像を撮り馴れているカメラマンはこのハプニングに大喜び、グラウンドに降りて選手たちの表情を撮りまくった。そして閉会式のフィルムの現像が終わって編集作業となると、素晴らしいシーンが多すぎて市川監督も嬉しい悲鳴を上げたらしい。

完成した映画の試写を観たオリンピック担当大臣の河野一郎は「まるで競技の様子が分からない」と激怒、市川監督とすったもんだした挙げ句、競技中心に再編集したものをもう一本作ったそうだ。しかし人間の躍動と息吹を描いたこの本編は海外でも高く評価され、今でも人々の記憶に残る作品となっている。

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