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ワールドカップの歴史 第1回ウルグアイ大会

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FIFAワールドカップ、第1回ウルグアイ大会(1930年)

「空色(セレステ)の初代王者」

FIFA創立とワールドカップ開催への道のり

1900年のパリ五輪で、非公式の公開種目ながら初めてサッカー競技が行なわれ、英国のアマチュアチームが世界一に輝いた。それに刺激を受けたオランダのサッカー連盟会長が、プロが参加する“真の世界大会”の開催を発案する。すでに20世紀の初め頃には、欧州や南米の各地でプロリーグが発足していたのだ。

そして04年には、フランスを中心に国際サッカー連盟(FIFA)が設立され、2年後に予定された世界大会の招待状をFIFA加盟国に送るが、結果的に参加を申し込んだのは1ヶ国もなかった。当時のFIFAには実務能力がなく理念先行、参加にかかる費用の負担など、全てが曖昧で準備不足だった。

その後も世界大会開催に向け模索が続くが、サッカーの母国を自認する英国フットボール協会(FA)に反対されるなど難航する。そうしているうち14年に第一次世界大戦が勃発、世界大会開催の協議は中断を余儀なくされる。

ようやく世界大会開催が現実味を帯びてきたのは、26年のFIFA総会でのこと。フランスサッカー協会総務理事アンリ・ドロネーが「もはやサッカー競技は、オリンピックの枠内で収まらなくなっている」と力説、FIFA加盟国の間で気運の高まりが起きた。

それを受け、FIFA第三代会長のジュール・リメが世界大会の実現に奔走、28年のパリ総会で大会名『ワールドカップ』の開催が正式に決定した。

開催国はウルグアイに決定

開催国に名乗りを上げたのは、イタリア・オランダ・スペイン・スウェーデン・ハンガリーの欧州勢と、南米の雄ウルグアイ。ウルグアイは当時人口200万人足らずの小国ではあったが、サッカー競技では24年のパリ五輪、28年のアムステルダム五輪と連覇、世界屈指の実力を持つと見られていた。

しかもウルグアイはワールドカップを建国100周年の国家事業と捉え、新スタジアムの建設や参加国の渡航費及び滞在費の負担を約束する。この熱意の前に、他の5ヶ国は開催権をウルグアイに譲った。しかし開催地が南米になったことで、欧州各国は大会参加に難色を示すことになる。

旅客機のなかった当時、欧州から南米への移動手段は船旅しかなく、選手たちは1ヶ月以上国を離れることになる。この頃の代表チームにはプロ・セミプロ・アマチュアが混在しており、本職を持つ選手たちの生活保証などの問題があったのだ。

欧州各国の煮え切らない態度に、反発した南米諸国はFIFA脱退をも辞さない態度で臨む。この事態に頭を抱えたジュール・リメ会長は、母国フランスを説得して参加を表明させる。さらに前向きな姿勢を見せていた、ベルギー・ルーマニア・ユーゴスラビアを訪れ、参加を働きかけた。こうしてようやく大会2ヶ月前に、欧州チーム4ヶ国の出場が決まったのだ。

他の参加国は、南米のアルゼンチン・ブラジル・チリ・パラグアイ・ペルー・ボリビア、そして北中米のメキシコ・アメリカ。第1回ワールドカップは、この計13ヶ国で行なわれる事になった。ちなみに28年にFIFA加盟を果たした日本も参加を打診されたが、極東からはるばる南米まで遠征する力はなく、これを断っている。

第1回 FIFAワールドカップ開幕

優勝候補はもちろん開催国のウルグアイ、空色のユニホームから「ラ・セレステ」の愛称を持つチームだ。アムステルダム五輪後引退していた黒人スター選手、ホセ・アンドラーデも代表に復帰、優勝を義務づけられた大会に備えた。

そしてサッカー漬けとなる合宿が2ヶ月に渡り行なわれ、ホテルに宿泊する選手たちには外出禁止令が出される。その厳しさは、夜中に外出を試みた中心選手がチームを追放されるほどだった。

対抗馬と見なされたのは、ウルグアイとラプラタ川を挟んだ隣国のアルゼンチンである。ウルグアイとアルゼンチンは南米の両雄と呼ばれ、16年に始まった南米選手権(コパ・アメリカ)でも毎回のように優勝を争っており、アムステルダム五輪も決勝を戦っていた。

大会の形式は、13チームを4グループに分け予選リーグを行ない、各組1トップとなった4チームで決勝トーナメントを戦う方式となった。大会は全て首都モンテビデオで行なわれ、記念すべきワールドカップ最初の試合は、30年7月13日にモンテビデオのポシットス・スタジアムで行なわれたフランス対メキシコ戦だった。

この試合19分にフランスのローランが、ワールドカップ第1号となるゴールを記録すると、その後も得点を重ねメキシコに4-1と快勝、初勝利チームの名誉を得た。だがそのフランスも後の2試合を連敗し、大会を去ることになった。

第1組を勝ち抜いたのはアルゼンチン。アルゼンチンは新鋭のFWギジェルモ・スタービレが5得点と大爆発、3戦無敗という強さを見せつけた。第2組はユーゴスラビア、シード国ブラジルを破っての勝ち抜けだった。ブラジルはこの時まだ発展途上のチーム。ようやく黒人選手に門戸が開かれ始めた頃で、戦術やスタイルも定まっていなかった。

第3組は順当にウルグアイ、第4組は大方の予想を裏切ってアメリカが勝ち抜く。だがアメリカ代表と言っても実のところ、イングランドとスコットランドのプロ選手を中心に構成された傭兵軍団だった。彼ら強靱な肉体を誇るプレヤーたちは、フランスから「砲丸投げの選手」と揶揄された。

準決勝ではウルグアイがユーゴスラビアに6-1と圧勝、アルゼンチンもアメリカを6-1と粉砕し、決勝は予想通り両雄の戦いとなった。

ウルグアイ vs アルゼンチン 南米決戦

ワールドカップ初代王者を決める決勝戦は7月30日、新競技場センテナリオ(百周年)・スタジアムに7万人近い観客を集めて行なわれた。勝負の駆け引きはキックオフ前から始まり、それぞれのチームが用意した試合球を使うよう主張して譲らなかった。

結局、主審のコイントスにより前半はアルゼンチン、後半はウルグアイのボールを使用することで試合は始まった。そして12分、右ウイング・ドラドがGKの股を抜くシュートを決め、ウルグアイが先制する。

しかし20分、アルゼンチンは同じく右ウイング・ペウチュレの強烈なシュートで同点とした。さらに37分、絶好調のスタービレがオフサイドぎりぎりに抜けだしゴールを挙げる。こうして前半はアルゼンチンが2-1とリードした。

後半、観客の大声援を受け「ラ・セレステ」が反撃、57分にFWセアによる巧みなドリブルシュートで追い着いた。勢いに乗ったウルグアイは68分、左ウイング・イリアテのロングシュートがネットを揺らし、ついに逆転する。その後アルゼンチン必死の攻撃が続くが、それを凌いだウルグアイは89分にFWカストロが駄目押し弾を突き刺す。

こうしてウルグアイはアルゼンチンを4-2と下し、ワールドカップ初代王者に輝く。そして大喜びする観客を前に、名誉あるジュール・リメ杯のトロフィーを掲げたのだ。そして国民は国中のクラクションや汽笛を鳴らして勝利を祝い、ウルグアイ政府は決勝翌日の日付、7月31日を祝日と定めることになる。

反対に負けたアルゼンチン国民は大暴れ、首都ブエノスアイレスにあるウルグアイ大使館に石を投げるなど狼藉を働き、国交問題にも発展する。そのためアルゼンチンサッカー協会の幹部たちは、責任を問われ辞職に追い込まれてしまうことになる。

大成功だった大会

得点王に輝いたのは、8得点を挙げたアルゼンチンのスタービレ。スタービレはこの大会の活躍でイタリアのクラブチームにスカウトされ、ヨーロッパに渡ったため、アルゼンチン代表歴はこの大会の4試合に留まることになった。

初の世界大会で各国レフェリー間の解釈の違いが起きるなど、ジャッジを巡るトラブルが問題となった大会だったが、18試合で多数の観客を集め経済的には大成功だった。こうして盛況に終わった第1回ワールドカップは、後に続く大会の礎となったのだ。

次:第2回イタリア大会(1934)

カテゴリー サッカー史

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