スポンサーリンク
スポンサーリンク

ワールドカップの歴史 第4回ブラジル大会(1950年)

スポンサーリンク
スポンサーリンク

FIFAワールドカップ、第4回ブラジル大会(1950年)

「マラカナンの悲劇」

大戦後初のワールドカップ

世界大戦終了後の46年、長らく延期となっていたFIFA総会がルクセンブルグで開かれ、第4回ワールドカップ(この総会で正式名称が“ジュール・リメ杯 世界選手権”となる)の開催国にブラジルが決定した。この時、戦災の復興途中だった欧州からの立候補はなく、南米でも候補が一本化されていたため、すんなりブラジル開催が決まったのである。

第4回ワールドカップはオリンピックの中間年である50年に開催されることになり、ブラジルから大会方式が提出されるが、これが激しい論争を呼ぶことになる。ブラジルが提案したのは、出場16チームを4組に分けて1次リーグを行い、さらに勝ち上がった4チームで決勝リーグを戦って優勝を決めるという、2次リーグ方式だった。

しかしこの提案には、FIFAや欧州各国から反対の声があがった。欧州ではノックアウト方式のカップ戦とリーグ戦は明確に分けられており、国際大会はカップ戦で行うのが伝統となっていた。そのためワールド“カップ”なのに、カップ戦を行わないのはおかしいというわけである。

しかし南米では、~カップという大会でもリーグ戦で行われており、そちらの方が人気があった。しかもカップ戦で行うより、2次リーグ方式のほうがずっと試合数が多く、収益面でも有利だった。またリーグ戦方式なら、1チーム最低3試合行えるというメリットもあったのだ。

この方式が受け入れられなければ開催を返上するというブラジルの強硬姿勢に、結局FIFAが折れて提案を受け入れることになった。

英国4協会の予選初エントリー

同年、FIFAを脱退していた英国4協会(イングランド、スコットランド、北アイルランド、ウェールズ)が26年ぶりの復帰を果たし、ワールドカップへの参加を表明した。これに敬意を表したFIFAは、4ヶ国で行われる英国選手権の上位2チームに、ワールドカップ出場権を与えることにした。

また同時期にソビエトもFIFAへ加盟しているが、共産政権がワールドカップに興味を示さず大会には参加しなかった。そのため戦前の大会準優勝国・チェコスロバキアとハンガリーなどの衛星国(東欧諸国)も、大会不参加を余儀なくされた。

大会にはFIFA加盟の73ヶ国中33ヶ国がエントリー、開催国のブラジルと前回優勝国のイタリアを除く31ヶ国でグループ予選が行われた。だが戦後の混乱期だったこともあり参加辞退国が続出する。アジアではインドが予選なしでワールドカップ出場を決めていたが、FIFAに裸足でのプレーを禁じられたため、大会直前に参加を取りやめている。

たた裸足云々の話は方便で、実際は南米遠征の資金がなかった事と、大会の重みを知らなかった事が辞退の理由らしい。こうして結局、アジアからの大会参加はなくなってしまった。ちなみに敗戦国となった日本は、ドイツとともにこの時FIFAの資格を停止されている。

大会参加の混乱と「スペルガの悲劇」

欧州予選で出場が決まったのはイングランド、スコットランド、トルコ、ユーゴスラビア、スイス、スウェーデン、スペインの7ヶ国。しかし英国選手権1位ならワールドカップに参加すると宣言していたスコットランド協会は、2位に終わったため説得も聞き入れずに出場を辞退する。また、トルコものちにワールドカップ不参加を表明した。

北中米では3ヶ国による予選を行い、アメリカとメキシコの出場が決まった。南米ではアルゼンチンなど予選を棄権する国が続き、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア、チリの4ヶ国が戦わずして本大会出場を決めている。

強豪国アルゼンチンは、ファン・ペロン大統領の政策失敗により国内が混乱に陥っていた。そして有力選手の多くがコロンビアの金満クラブに引き抜かれ、代表招集も困難でベストチームが組めなかったのだ。またブラジルとは近年の大乱闘試合で不仲が続いていたことも、予選棄権の理由だった。

ちなみにコロンビアのクラブに引き抜かれた選手の中には、のちに名門レアル・マドリードで中心選手として君臨、史上最高のオールラウンド・プレイヤーと呼ばれたアルフレッド・ディ・ステファノがいた。

スコットランドとトルコが参加辞退を表明したことで、FIFAはポルトガルとフランスに参加を要請する。しかしポルトガルは出場を断り、フランスもぎりぎりまで迷ったが結局要請を受けなかった。長距離移動を強いられる日程の改善を求めたのだが、自国有利のスケジュールにしか関心のないブラジルに無視されてしまったからだ。

そのあとインドも参加を取りやめ、16ヶ国で開催されるはずが13ヶ国に減ってしまった。すでに決まっていたグループの組み替えもなく、インドが辞退した3組では3チーム、スコットランドとトルコが辞退した4組では2チームという、いびつな形でリーグ戦が行われることになった。

第二次世界大戦中に飛行機の性能が大幅に向上、戦後には大西洋を越える民間航空機路線も開設され、多くの国が旅客機でブラジルにやって来た。しかし当時の旅客機はまだ信頼性と快適性に欠けるため、イングランドチームは船旅で、ゆっくりと体調を整えながら大西洋を渡ってきた。

もう1ヶ国、船旅でやって来たのがイタリアチーム。49年5月4日に、セリエA5連覇中・トリノFCの選手を乗せた飛行機が、トリノ近郊にあるスペルガの丘へ激突。ヴァレンティノ・マッツォーラら8人のイタリア代表を含む、乗員・乗客の全31名が死亡するという事故が起こっていた。

「スペルガの悲劇」と呼ばれた事故の記憶に、トラウマを持ったイタリア選手は航空機を拒否、船旅を選んだのである。

ワールドカップ史上最大の番狂わせ

50年6月4日、ワールドカップ開幕戦となる1次リーグ第1組のブラジル対メキシコ戦は、こけら落としが終わったばかりのマラカナン・スタジアムに、8万2千の観客を集めて行われた。当時の首都、リオ・デ・ジャネイロに建設されたこのスタジアムは、収容人数20万を誇る世界最大のサッカー競技場だった。

ブラジルは、第1節メキシコ戦をFWアデミールの2得点などで4-0と快勝する。第2節スイス戦では終盤に追いつかれ、2-2の引き分けと不覚をとるが、最終節のユーゴスラビアを2-0と退け、難なく決勝リーグ進出を決めた。

第2組の本命は、ワールドカップ初参加となるイングランド。スタンリー・マシューズやトム・フィニーといった世界的な選手を擁し「フットボール・マスター」として各国から畏敬の念を集めていた。代表の指揮を執るのは英国初のフルタイム監督となる、ウォルター・ウィンターボトム。初戦のチリ戦は2-0の勝利で順調なスタート、そして第2節のアメリカ戦を迎えた。

一流のプロが揃ったイングランドに対し、アメリカはセミプロとアマチュアの集まり。「大会最強チームと最弱チームの戦い」と報じた記事もあり、アメリカ選手さえチャンスは無いと考え、前日の夜に遊び歩いていたほどだ。

試合が始まると、予想通りイングランドの一方的な攻撃となり、アメリカ陣内でのプレーが続いた。アメリカはFWゲーチェンスだけを前線に置き、残りの全員で必死の守りを見せる。GKボルギの好守とゴールポストやバーに助けられ、どうにか失点を防いでいた38分、イングランドに一瞬の隙が生まれた。

スローイングを受けたアメリカのバールが、前方にスペースが空いたのを見逃さずドリブル、追いつかれる前に40mの距離からシュートを放った。正面やや左に飛んできたボールを、GKウイリアムスがキャッチしようと右に動く。その時、ウイリアムスの死角から猛然と体を投げ出してきた選手がいた。

体を投げ出してきたのは、ゲーチェンス。GKキャッチ寸前にボールは彼の頭を擦り、ゴールの中へ転がっていった。唖然とボールを見つめるイングランド選手をよそに、スタンドからはブラジル人観客の大歓声が響いた。

まだ時間はたっぷり残っていたが、焦りからイングランドは単純なロングボールを放り込み出す。アメリカはその攻撃を粘り強く跳ね返し、相手のリズムに慣れてきた終盤には敵陣内に攻め込み、惜しいシュートを放つ場面さえあった。こうして試合はアメリカが1-0で勝利、ワールドカップ史上最大の番狂わせが起こったのだ。

初優勝へ歩みを進める開催国ブラジル

この後イングランドはスペインにも破れ、1勝2敗でブラジルを去って行った。この結果2組は、3戦全勝でスペインが予選を突破した。3組では優勝候補にも上がっていたイタリアが、飛行機事故の影響からか1勝1敗で敗退、スウェーデンが1勝1分けで決勝リーグへ進んだ。4組はウルグアイがボリビアを8-0と一蹴、余力を残しての勝ち抜けとなった。

1次リーグが終了した1週間後、リオとサンパウロの会場で決勝リーグが行われる事になっていた。ブラジルは自ら組み合わせと日程を決め、自国の試合はすべてリオの会場で行なうようにした。そしてライバルとなるであろうウルグアイとの戦いを、最終節に廻す。

調子を上げてきたブラジルは、スペインを6-1、スウェーデンを7-1と撃破し、エースのアデミールも6得点と大爆発した。対するウルグアイはスペインと2-2で引き分けた後、スウェーデンには逆転で3-2とようやく勝ち星を挙げた。こうして最終節、ブラジルはウルグアイに引き分けても優勝、という有利な状況になった。

事実上の決勝 ブラジル vs ウルグアイ

優勝を決める試合、決勝リーグ第3節ブラジル対ウルグアイ戦は、7月14日にマラカナン・スタジアムで行われた。スタジアムに押し寄せた観客は、公式発表で19万9854人。実際には不正にゲートをくぐり抜けた者も多く、実人数は22万とも25万とも言われている。

この戦いを観戦したイタリアの元代表監督ヴィットリオ・ポッツオは、試合前のリオ市長の挨拶を聞いて驚く。リオ市長はセレソン(ブラジル代表)に向かって「君たちは2時間後に勝者となっているだろう、あらかじめ祝福しておきたい」とスピーチしたからだ。ブラジル国内に、母国チームの優勝を疑う者はいなかったようだ。

観客の大声援に押され、ブラジルは開始から全力で攻撃に出た。しかしウルグアイは主将オブドゥリオ・バレラを中心に堅い守りを敷き、ブラジルの攻撃を抑える。こうして前半は0-0で折り返したが、後半開始直後アデミールが相手DFを引きつけると、スペースでボールを受けたフリアサがゴールを決めブラジルが先制した。

ここで一旦様子見すべきだったブラジルだが、興奮する観客の声援に冷静さを失いさらに猛攻。66分、前掛かりになったブラジルの右サイドを破り、ギッジャがDFをかわしクロス。スキアフィーノが右足で合わせてウルグアイが同点とした。

マラカナンの悲劇

このまま引き分けてもブラジルの優勝だが、失点のショックからセレソンはすっかり落ち着きを失っていた。そして79分、再びギッジャが右サイドを突破、クロスを警戒するGKバルボーザの裏をかきシュートを放つと、ボールはゴール左に吸い込まれていった。

一瞬にして静まるスタンドと、抱き合うウルグアイの選手の前で呆然と立ちすくむセレソンたち。ブラジル国民にとって悪夢のような光景が、マラカナン・スタジアムで繰り広げられた。

残り時間、ブラジルは反撃を試みるがウルグアイの守りを崩せず試合は終了。2-1と勝利したウルグアイは、大逆転で大会2度目の優勝を果たす。ブラジル代表にかかるプレッシャーは大きく、巧者ウルグアイの老練な試合運びにやられてしまったのだ。

放心状態となったセレソンたちは、肩を抱き合いながら夢遊病者のようにロッカールムへ引き上げていった。思いがけない結果に予定されていた表彰式のセレモニーは中止、FIFA会長ジュール・リメがウルグアイ主将バレラに優勝杯を手渡し、手短な祝辞を述べただけだった。

『マラカナンの悲劇』と呼ばれたこの試合で、ショック死や自殺した観客がいたと言われているが、どうやら都市伝説らしい。超満員となったスタンドで混雑が起き、数十人の観客が怪我をしたという事実が誇張されたようだ。ただ、ラジオ実況を聞いていた50代男性が、ショック死したという事実はあるらしい。

同時に行われたサンパウロの試合では、スウェーデンがスペインを破り3位。得点王は8ゴールを記録したアデミールが獲得する。

ブラジルはウルグアイ戦で着用した白いユニフォームを廃止、新デザインを公募し、国旗を模したカナリア色のウェアを公式ユニフォームとして採用することになった。

次:第5回スイス大会(1954)

カテゴリー サッカー史

タイトルとURLをコピーしました