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ワールドカップの歴史 第6回スウェーデン大会(1958年)

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FIFAワールドカップ、第6回スウェーデン大会(1958年)

「サッカーの新時代」

真の世界大会

50年に開かれたFIFA総会で、第6回ワールドカップの開催地としてスウェーデンが選ばれた。スイスと同様中立国だったスウェーデンは戦争の被害が少なく、他に有力な開催候補地も無かったためである。この第6回ワールドカップには世界のサッカー主要国がすべて参加し、初めて真の世界大会と呼べるものになった。これまで大会参加を見送ってきたソ連だが、国際スポーツ大会に力を入れ始め、戦後のオリンピックではメダル大国となっていた。そして56年のメルボルン五輪のサッカー競技では優勝を果たし、満を持してワールドカップに臨んできた。また国情不安などで3大会を辞退していたアルゼンチンも、元凶のもとだったファン・ペロン大統領を追放、政情も安定し24年ぶりに予選を戦う。こうしてスウェーデン大会は、サッカーの新時代を感じさせるものになった。

世界中の55ヶ国が大会にエントリーし、出場が決まっているスウェーデンと西ドイツを除く各国が予選で激しい戦いを繰り広げた。これまで英国選手権をワールドカップ予選に当ててきた英国4協会も別々のグループで戦い、イングランド、北アイルランド、スコットランド、ウェールズの4ヶ国すべてが予選を突破した。

他に本大会出場を果たしたのは、チェコスロバキア、フランス、ユーゴスラビア、ハンガリー、ソ連、オーストリア、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、メキシコ。予選が激化したことで過去の優勝国であるイタリアとウルグアイが、本大会出場を逃すという事態も起こっていた。

ちなみに日本は、ワールドカップに参加した選手はオリンピックに参加できないという規定が出来たため、五輪を重視しこの大会にはエントリーしていない。

サッカー強国への道

スウェーデン国営放送によって初めてテレビの国際中継が行われ、欧州各地で生放送の試合が観られるようになったのも新しさを象徴する出来事だった。だがなんといってもこの大会が新鮮なものに写ったのは、卓越した個人技に最先端の戦術を身につけた、魅力的なサッカー強国が誕生したからだ。

地元開催の大会で『マラカナンの悲劇』を味わい、前大会でも乱闘の末ハンガリーに敗れ去ったブラジルは、勝負弱さの反省から徹底したチームの立て直しを図っていた。その立て直しを近代システム的な発想で主導したのが、ブラジルスポーツ連合の会長・ジョアン・アヴェランジェ(のちのFIFA会長)だった。

アヴェランジェはチーム強化のため、心理学者や医療グループ、フィジカルトレーナーなどの専門家を招集し、大会までの準備プログラムを計画した。そして、当時最強と言われたハンガリーチームの試合を収めたフィルムや、動きを描いたスケッチなどでその戦術を解析するなど、科学的アプローチを行った。

その結果、監督のビセンテ・フェオラが完成させたのが、攻撃と守備の間に2ボランチを置く4-2-4システムだった。ラインDFを敷く4バックは柔軟性に富み、マンツーマンに慣れた当時の欧州チームを驚かせた。そして流動的に動くDFをカバーしつつ、攻撃の起点として重要な役割を任されたのが、30歳のベテラン選手ジジである。

前大会ではFWのインナーを務めたジジだが、その戦術眼を買われ今回は右ボランチのポジションに下がっていた。また彼は高い技巧を持つ選手で、南米予選では『バナナシュート』と名付けられた落差の大きいFKを決めている。

陣容整うカナリア軍団

4人の攻撃陣は屈強なFWババと、当時19歳でACミランにスカウトされたスター選手、アルタフィーニ。そして右ウイングにジョエル、左ウイングにはセレソンでは少数派である知的な白人選手、マリオ・ザガロが入った。しかしこの攻撃陣には、まだ力を秘めた選手が控えていた。

ブラジル代表は56年に欧州遠征を行い、イングランドには完敗を喫している。しかしこの遠征の目的は勝ち負けではなく、長距離移動に馴れることと、南米と季節の逆転した欧州でのコンディション作りを学ぶためだった。そうして大会のためスウェーデン入りしたブラジルは、都会から離れた静かな場所に宿泊し本番の試合に備えたのである。

大会の形式は、前回の変則的で偏った内容が見直されたものになった。ひと組4チームの総当りでリーグ戦を行い2位まで勝ち抜け、決勝T1回戦(準々決勝)では別組の1位と2位が対戦するというバランスの良い方式が採られる。そして58年6月8日、ワールドカップ・スウェーデン大会は、全国8つの会場で始まった。

第6回 ワールドカップ・スウェーデン大会開幕

1次リーグ第1組は、前回優勝国の西ドイツがスタービレ(第1回大会得点王監督率いるアルゼンチンを3-1と破り、残りのチェコ戦と北アイルランド戦を引き分けるも1位で予選を突破した。※2位北ア

第2組はフランスが初戦でパラグアイに7-3と圧勝、次のユーゴスラビアには2-3と敗れたが、最終節スコットランドで2-1と勝利し1位通過を決めた。実は大会前のフランスに対する評価は低かった。前年のワールドカップ予選でアイスランドに勝って以来、大会に入るまで1勝も挙げていなかったからだ。※2位ユーゴ

しかし大会を目前に長らく代表を離れていた司令塔のレイモン・コパがチームに復帰、フランスに明るい兆しが見えていた。コパは正確なパス技術と高い戦術眼を持つプレイヤーで、名門レアル・マドリードの中心選手でもあった。

さらに1次リーグの戦いでは、怪我をしたFWに代わり起用されたジュスト・フォンティーヌが大ブレイク、コパとのホットラインで予選6得点という大活躍を見せたのだ。

ガリンシャとペレの登場

第3組は、開催国スウェーデンが初戦でメキシコに3-0と快勝、第2節では接戦の末ハンガリーを2-1と下して予選突破を決めた。ハンガリーにはヒデクチやボジグなど「マジック・マジャール」と呼ばれた時代の選手も残っていたが、もはやかつてほどの強さは無かった。

そして最終節のウェールズ戦で主力を温存、0-0で引き分けて1位となった。実のところスウェーデンにはプロリーグが無く、イタリアで活躍するベテラン選手に頼るチームだった。その中心となるのはACミランで活躍するグレン、ノルダール、リードホルムの、いわゆる「グレ・ノ・リ」3人衆。チームの平均年齢は30を越えていた。※2位ウェールズ

第4組、ブラジルは初戦のオーストリア戦をアルタフィーニの2得点などで3-0と勝利を収めるが、次のイングランド戦では0-0と引き分ける。イングランドは2月に起きた飛行機事故『ミュンヘンの悲劇』でダンカン・エドワーズなどのキープレイヤーを失っていたが、その堅い守備は健在だった。

最終節の相手は、同時代最高のGK『黒い蜘蛛』レフ・ヤシンを擁するソ連。この試合の結果次第では、ブラジルにも予選敗退の可能性があった。フェオラ監督はこの大事な試合にあたり、2人の選手の入れ替えを行った。

1人は障害を持ちながら華麗なプレーで相手を翻弄する天才ドリブラー、右ウイングのガリンシャ。もう1人は、戦術にフィットしないアルタフィーニを外し、まだ17歳の小柄な少年・エドソンを先発に起用した。若き日のペレである。

試合開始直後、ガリンシャのドリブル突破から放ったシュートがポストを直撃、レフ・ヤシンをヒヤリとさせた。続いてペレもジジからのクロスをダイレクトシュート、今度はバーが得点を阻んだ。試合はババの先制点と駄目押し点でブラジルが2-0と勝利したが、勝因はソ連の守備陣をかき乱した初出場2人の活躍にあるのは明らかだった。※2位ソ連

激闘、ブラジル vs フランス

準々決勝、ブラジルの対戦相手はウェールズ。堅牢な守りを見せる相手にブラジルも攻めあぐね、後半途中まで膠着状態が続いた。だが65分、ゴール前でジジのパスを受けたペレが、相手のDFを背にしながらボールを浮かして反転、もう1人のDFをかわすと右足で見事なゴールを決めた。

ブラジルはこのままウェールズを無得点に抑え、ペレの得点で1-0と勝利する。この時まで無名だった少年が、一瞬にして世界にその名を知らしめることになった、衝撃のデビュー弾だった。

準決勝でブラジルと対戦することになったのはフランス。フランスは準々決勝で北アイルランドを4-0と撃破、優勝候補の一角に名乗りを上げていた。フォンティーヌは北アイルランド戦でも2得点、動き出しの良さと鋭い得点感覚を持つ彼の才能が、コパとのコンビで開花したのだ。

今大会一番と言える好ゲームとなったこの試合、開始2分にババの先制点が生まれると、早くも9分にはフォンティーヌが同点弾を入れ替えした。そして相手の守備の穴を見つけ出したコパが、この後スルーパスでブラジルを苦しめる。だが39分、フランス選手が怪我の治療を受けている間に、ジジが強烈な勝ち越し弾を決めた。

後半に入り反撃を試みるフランスだったが、その思いを打ち砕いたのはペレだった。ペレは53分、64分、76分と立て続けにゴールを記録、ハットトリックでフランスを撃沈させる。終盤に1点返されたものの、ブラジルは5-2とフランスに勝利し、2大会ぶりの決勝進出を決めたのだ。

もうひとつの準決勝は、開催国スウェーデンと前回優勝国・西ドイツとの対戦になった。肉弾相打つ戦いとなったこの試合は24分に西ドイツが先制、しかし33分スウェーデンがすぐに追いついた。後半57分、スウェーデンの右ウイング、ハムリンがファールで相手を挑発、西ドイツ選手の退場を誘った。

さらに74分、スウェーデンのパールリンが、ラフプレーでフリッツ・バルターに大怪我を負わせ自身も退場となるが、偉大な西ドイツ主将をピッチの外へ追いやった。老獪な試合運びで優位に立ったスウェーデンは終盤に2得点を挙げ、地元の期待を受けて決勝戦へ進むことになった。

決勝の前日に行われた3位決定戦は、若手5人を起用してきた西ドイツにフランスが6-3と勝利を収めた。フォンティーヌはこの試合も4得点、合計13ゴールで大会得点王に輝いた。これは1大会最多得点記録として、今も破られていない。しかしその後度重なる怪我のため、28歳の若さで現役を引退している。

鮮やかな勝利

第6回ワールドカップチャンピオンを決める戦いは、6月29日ストックホルムのラズンダ・スタジアムに5万人の観客を集めて行われた。フィールドは前日から一昼夜降り続いた雨でぬかるんでおり、技術に長けたブラジルには不利になると思われた。

開始4分、リードホルムがペナルティエリアで巧みなフェイントから2人のDFを抜き去りシュート、ゴールを決めた。スウェーデンのジョージ・レイナー監督は「先制すればブラジルはパニックに陥る」と言っていたが期待通りにリード、後は自分たちのペースに持ち込むだけだった。

ブラジルが先制点を奪われたのは今大会初めてだったが、この時のセレソンは、昔のように浮き足だってしまうようなチームでは無かった。

慌てず騒がず反撃の機を窺っていたブラジルは9分、右サイドでボールを受けたガリンシャが華麗なドリブルを披露する。そして驚異的な加速とフェイントでDF2人を抜き去ると、中央へ折り返しのクロス、それをババが決めてたちまち同点とした。

さらに32分、今度は左サイドでガリンシャが相手DFを置き去り、そこからのパスで再びババが得点を決め、ブラジルは前半で逆転を果たした。もはやこの時点で、動きの遅いスウェーデンはブラジルの攻撃に対処しきれなくなっていた。

そして後半に入った55分、左サイドからのクロスをペレがジャンプし胸トラップ、脚でボールを高く浮かし素早くマーカーをかわす。そして落下するボールを右足で捉えると、鮮やかなボレーシュートがゴール左に突き刺さった。まさにワールドカップ史上の、伝説となるアクロバティックシュートだった。

この後68分にザガロが4点目を挙げるが、スウェーデンも80分にリードホルムのスルーパスから1点返す。しかし終了直前、ペレが左からのクロスを頭で合わせこの日2点目、決勝のフィナーレを飾る。こうしてブラジルが5-2で勝利、悲願のワールドカップ初優勝を果たした。

試合終了後、子供のようにはしゃぎながらピッチを走り回るセレソンたちに、詰めかけたスウェーデンの観客も惜しみない拍手を送り、彼らを祝福した。リズミカルで機能的なブラジルサッカーと新しいスターの活躍は、スウェーデン国民をも魅了していたのだ。

次:第7回チリ大会(1962年)

カテゴリー サッカー史

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