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ワールドカップの歴史 第7回チリ大会(1962年)

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FIFAワールドカップ、第7回チリ大会(1962年)

「セレソンと悪魔の小鳥」

第7回ワールドカップ開催地決定の経緯とチリ大地震

第7回ワールドカップの開催地にはアルゼンチンとチリ、そして西ドイツの3カ国が立候補した。欧州での開催が続いていたことで南米2カ国の争いとなったが、伝統国かつスタジアムなどの環境が整っていたアルゼンチンでの開催が有力視された。

56年、リスボンのFIFA総会で開催国を決める投票が行われた。その結果、アルゼンチンの得票が10票だったのに対しチリは28票を得る。思いがけない大差でチリでのワールドカップ開催が決まったが、終始頑なな態度で主張を繰り返すアルゼンチより、柔軟に外交を行ったチリ・サッカー協会ティトボルン会長の手腕が、多くのFIFA委員に支持されたのだ。

開催が決まり、スタジアム建設などの準備が始まった60年5月22日、チリ沿岸で2千人以上の犠牲者を出した大地震が発生した。この地震の影響は日本にも及び、発生の22時間後に太平洋を越えてきた大津波が到達、三陸地方を中心に130名近い犠牲者・行方不明者を出している。

この地震でワールドカップの試合が行われる予定だった2都市も大きな被害を被り、チリ大会の開催が危ぶまれた。だがティトボルン会長は、「全てを失い、何物も持たないチリ。だからこそワールドカップはチリで開かれなければいけない」と力強く宣言、予定通り大会は開催されることになった。

大会連覇を狙うブラジル

大会には世界の55ヶ国がエントリー。出場が決まっていたチリとブラジルに加え、予選を勝ち抜いた西ドイツ、イタリア、イングランド、スペイン、スイス、ソ連、ハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ブルガリア、アルゼンチン、ウルグアイ、コロンビア、メキシコの出場が決まった。

欧州予選では、前回準優勝国のスウェーデンと同3位のフランスが、いずれもプレーオフで敗退するという波乱が起きた。特にフランスは、ブルガリア戦で引き分けでも予選突破が決まるという状況で終了直前に失点、結果的に本大会出場を逃すという勝負弱さを露呈している。フランスはこの32年後にも、同じような失態を繰り返すことになる。

アジアでは日本・韓国・インドネシアの3ヶ国がエントリーした。インドネシアが辞退したため、日本と韓国でホーム&アウェイの戦いが行われたが、連勝した韓国が日本を退ける。この後、韓国はユーゴスラビアとプレーオフを行うも、実力の違いを見せつけられ、2回目のワールドカップ出場はならなかった。

地震の被害を受けた2都市での試合は断念、残った4都市にそれぞれグループリーグが配され、試合が行われることになった。自国開催に大きく貢献したティトボルン会長は、開幕の僅か33日前に死去、晴れやかな舞台に姿を現すことはなかった。

大会の形式は前回とほぼ同じやり方になったが、1次リーグで勝ち点が並んだ場合行われていたプレーオフは廃止され、得失点率(得点÷失点)で決める事になった。ただこの得失点率はより失点が少ない方が有利となるため、1次リーグの戦い方が消極的になったと言われる。

前大会のチャンピオン・ブラジルは当然の如く優勝候補に挙げられていた。前大会のフェオラ監督は病気で退き、新たにモレイラ監督が就任、フォーメーションもザガロが引き気味となる4-3-3に近いシステムへ変わっている。

顔ぶれはCBの二人が替わっただけで4年前と殆ど一緒だった。最年長は36歳のニウトン・サントスで、司令塔のジジも34歳、平均年齢は30歳を超えていた。これを円熟と捉えるか、単に高齢化したと見るかは大会の結果次第ではあったが、21歳になっていた10番のペレが、今や世界最高の選手であるのは疑いようがなかった。

ワールドカップ開幕と「サンティアゴの戦闘」

62年5月30日に開幕したワールドカップ・チリ大会は、全国4会場で1次リーグの戦いが行われた。第1組はソ連が2勝1分けで1位、ユーゴが2勝1敗の2位で勝ち抜けを決め、古豪ウルグアイと初出場コロンビアの南米2チームは健闘虚しく大会を去って行った。

第2組は西ドイツが2勝1分けで1位、初戦でスイスに勝利した開催国のチリは、第2節でイタリアと対戦した。この試合、キックオフ前から会場には不穏な空気が漂っていた。南米から有力選手の引き抜きを行っていたイタリアは、南米各国の国民から反感を買っていたのだ。

例えばイタリアのCFアルタフィーニ、4年前のワールドカップではブラジル代表だった選手だ。またマスキオやシボリという、イタリアに移籍していなければアルゼンチン代表に選ばれていたような選手もいた。更にイタリア人記者が書いた記事がチリ国民を侮辱していると批判を呼び、アズーリに対する風当たりは強まっていた。

試合が始まると、チリはツバを吐きかけたり後ろから蹴りを入れるなどイタリアを挑発、報復行為に出たフェリーニ選手へ退場が命ぜられる。フェリーニが退場処分に従わなかったため試合は10分間中断、ようやく係員と警察が彼をピッチの外へ連れ去った。

一人少なくなったイタリアはラフプレーを連発、それに怒ったチリのサンチェスがマスキオの顔にパンチを入れ、彼の鼻の骨を折ってしまう。しかしその暴力行為は審判の死角だったため、サンチェスは退場処分にならなかった。すると今度はイタリアのデビットがサンチェスの首を蹴り退場処分、イタリアは後半を9人で戦うことになった。

その後も小競り合いは続いたが数的優位に立ったチリは終盤に2得点、2-0とイタリアに勝利する。この無様な試合は『サンチャゴの戦闘』と呼ばれ、テレビ中継を見ていた全世界のファンから批判を浴びた。しかしチリは2勝1分けでグループ2位となり、同組のイタリアとスイスは予選敗退を喫する。

予選リーグの戦いとペレの離脱

第4組は、一時弱体化していたハンガリーが新しい選手の成長で復活、2勝1分けで1位となった。初出場のブルガリアは得点力不足で1分け2敗の最下位、2位はイングランドとアルゼンチンの間で争われることになった。

そして直接対決では、ボビー・チャールトンの強烈なミドルシュートなどでイングランドがアルゼンチンに3-1と勝利する。両チームは勝ち点で並んだものの、直接対決の結果が得失点率に反映されイングランドが2位となった。これが後に因縁の対決となる両チームの、第1ラウンドの戦いだった。

3組、優勝候補ブラジルの初戦の相手はメキシコ。前半は0-0で折り返したが、56分にペレの鋭いクロスからザガロがヘッドで先制点を決める。更に73分、今度はペレが4人抜きを決め追加点、2-0と快勝する。

連覇へ順調なスタートを切ったように見えたブラジルだが、第2節のチェコ戦でシュートを打ったペレが太ももを痛めてしまう。ペレは無理をしてその後もピッチに立ち続けるが、引き気味になってしまったブラジルはチェコと0-0で引き分けてしまった。

試合後の診断でペレの負傷は全治数週間と判明、ブラジルは大会をエース抜きで戦うことになった。そして第3節のスペイン戦、モレイラ監督はこの危機にペレの代役として24歳のアマリルドを起用する。スペインの監督はアルゼンチン出身の名将エレニオ・エレーラ。セリエA・インテルの監督でもあり、カテナチオ戦術の創始者だった。

スペインは35分にプスカシュのパスからアデラルドが先制点、その後ゴール前に鍵を掛け、ブラジルの反撃を跳ね返す。セレソンたちに焦りの見えた72分、ザガロがタイミング良く飛び出したアマリルドに正確なセンタリング、そこから同点弾が生まれた。

さらに86分、ガリンシャが電光石火のようにドリブルで駆け上がり中央へクロス。そこに突っ込んだアマリルドが再び点を決め、ブラジルは新顔の活躍で2-1と勝利を収めた。この結果ブラジルが1位、チェコが1勝1敗1分けの2位で準々決勝へ進むことになった。

悪魔の小鳥、ガリンシャ

ブラジル準々決勝の相手はイングランド。この試合で驚異的な活躍を見せたのも、その愛称(ミソソザイという小鳥)の如くピッチを自由に飛び跳ねるガリンシャだった。ガリンシャは小児麻痺で両膝が左側へと変形、手術で歩けるようになったが、左脚は右脚より3㎝も短く背骨もS字に湾曲していた。

読み書きも出来ず、人の目には哀れな小鳥のように写っていたガリンシャ。だがひとたびボールを扱わせるとその姿は一変、予測不能のステップと素早い動き、その天才的なドリブルセンスで相手をキリキリ舞いにさせた。

そこで見せる名人芸は殆ど魔法の域、彼に挑もうとする選手は分かっていても振り回され転がされてしまう。本能的なプレーで悠々と相手を出し抜く不適なさまは、『悪魔の化身』と呼ばれ恐れられるようになった。

試合開始32分、ブラジルCKのチャンスでガリンシャが跳躍、イングランド長身DFノーマンの頭上に舞い飛ぶと、ボールを捉え鮮やかなヘディングシュートを決めた。その後1点返されるも54分、ガリンシャの蹴ったFKは急激に落下、相手GKのファンブルを誘い、それを見逃さなかったババがボールを押し込んだ。

その5分後、またもやガリンシャの蹴ったロングシュートが鋭く曲がり、ゴール右際に吸い込まれていった。こうしてブラジルはイングランドに3-1と快勝、ガリンシャは全得点を生み出す大活躍で、ドリブルに留まらない才能を見せつけたのだ。初出場以来4大会でイングランドの指揮を執ったウインターボトム監督は、これが最後の試合となった。

準決勝、ブラジルと対戦するのは開催国のチリ。チリは準々決勝でソ連の名キーパー、レフ・ヤシンから2点を奪い、勢いに乗っていた。しかしそんな相手の勢いを止めたのもガリンシャ、早くも開始9分に強烈なミドルシュートでゴールネットを揺らして見せた。

そして32分にはイングランド戦の再現となるような、高いジャンプのヘディングシュートを決める。42分に1点返されるもその4分後、ガリンシャの大きく変化するCKをババが頭で合わせ再びリードを広げた。62分にチリがPKを得て1点差に追いつくが、78分ザガロのクロスからまたもやババが頭で叩き込んだ。

4-2のまま終盤を迎え殆ど勝利を手中にしていたブラジルだが、そこに思いがけないアクシデントが起こった。試合開始から脚を削りに来ていたロハスに対する怒りがピークに達し、ガリンシャが彼の尻を蹴り上げ退場処分となってしまったのだ。

試合は終了しブラジルの決勝進出が決まったが、控え室に戻ろうとするセレソンたちに罵声が浴びせられる。この時観客が投げ込んだビンがガリンシャを直撃、頭に怪我を負ってしまった。しかも試合後のFIFAによる裁定により、ガリンシャは決勝戦に出場出来なくなってしまった。(現在は、退場となれば自動的に出場停止)

カナリア軍団 大会2連覇達成

ワールドカップ・チリ大会の決勝戦は6月17日、チリ国際スタジアムに7万近い観客を集めて行われた。決勝の相手は、ブラジルが1次リーグで引き分けたチェコ。そしてそのピッチの上には、出場停止になったはずのガリンシャの姿があった。どうやらブラジルとFIFAの間で何かの政治折衝が行われ、彼への処分が取り消されたようだった。

しかし怪我の影響があったのか、ガリンシャは39度の高熱を発症し体調は最悪、そのプレーは生彩を欠いた。試合はチェコ決勝進出の原動力・マソプストが先制点を挙げるも、すぐにアマリルドが角度のない所から同点弾を蹴り込んだ。

そして後半に入った69分、アマリルドの折り返しをジトが決め逆転する。78分にはジャウマ・サントスが逆光を計算し高いセンタリングを上げ、眩しさでGKがボールを見失ったところを、ババが易々と駄目押し点を入れた。こうして試合は3-1で終了、ブラジルはペレとガリンシャの個人技がなくても、円熟したチーム力で難敵チェコを退けて見せたのだ。

ブラジルが大会2連覇を達成しワールドカップは閉幕、開催国チリは決定戦をモノにし大会3位を勝ち取った。得点王は、ガリンシャやババなど6人が4ゴールで並んだ。

ガリンシャはこの大会で膝を痛めてしまったが、スターとなった彼はロクな治療も受けられないまま、世界中のツアーに連れ回された。そのため、ただでさえ負担の掛かっていた膝は壊れてしまい、その後は酒に溺れるなど凋落の一途をたどることになる。

ガリンシャは次のワールドカップにも出場するが、もはやその華麗なプレーを披露することはなかった。

次:第8回イングランド大会(1966)

カテゴリー サッカー史

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