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ワールドカップの歴史 第8回イングランド大会

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FIFAワールドカップ、第8回イングランド大会(1966年)

「フットボールの祖国」

サッカー発祥の地

英国で創立されたFA(フットボール協会)は1963年で百周年を迎え、それに敬意を表し66年のワールドカップは「フットボールの祖国」イングランドで開催される事が決まった。また61年には英国出身のスタンリー・ラウスが第6代FIFA会長に就任したのも、イングランド開催を後押しした。

イングランドは “サッカー発祥の地” たる自負から「栄光ある孤立」を貫きWカップを無視、戦前の3大会には参加しなかった。しかしそうしているうち欧州や南米諸国の実力は着実に上昇、53年の親善試合では“マジック・マジャール”に惨敗してしまう。イングランドの実力は、相対的に低下していたのだ。

戦後初めて参加したブラジル大会ではアメリカに足を掬われるなど、これまでのWカップではこれといった実績も残せておらず、その権威は失墜気味。この自国開催は、まさに英国サッカーの権威を復活させる、絶好の機会だった。

イングランド復活の使命を託されたのは、アルフ・ラムゼー監督。番狂わせとなったあのアメリカ戦の敗北も選手として経験。持ち前の統率力から「将軍」と呼ばれていた男である。それまで代表選手の選抜は協会の委員が行っていたが、ラムゼーはその権限を自分のものとし、強力なチームを編成した。

攻撃の中心となるのは、マンチェスター・ユナイテッドの主力でもあるボビー・チャールトン。54年の飛行機事故「ミュンヘンの悲劇」を生き延びた選手で、左脚から放たれる強烈なミドルシュートは「キャノンシュート」と呼ばれ恐れられていた。そして最前線には、点取り屋のジミー・グリーブスもいた。

イングランドの強固なDFラインを支えるのはスイーパーのボビー・ムーア、高いキャプテンシーを誇る主将でもあった。その相棒となるストッパーがジャッキー・チャールトン。ボビー・チャールトンの兄である。そして守護神を務めるのが「イングランド銀行」の異名を持つゴードン・バンクス。あのレフ・ヤシンと並ぶ当代最高のGKだった。

ワールドカップ開幕とベッケンバウアーの登場

この大会から代表選手のナショナルチーム転籍が禁止、予選には70ヶ国がエントリーした。だが合わせて1枠しか与えられなかったアフリカとアジアの各国が、抗議のため予選をボイコットする。

その中で唯一辞退をしなかった北朝鮮が、オーストラリアとのプレーオフを制しWカップ初出場を決めた。ちなみにメキシコ五輪に集中していた日本は、始めから大会にエントリーをしていない。

第8回ワールドカップの開幕戦となる1次リーグ1組、イングランド対ウルグアイの試合は、66年7月11日にエリザベス女王列席の下、聖地ウェンブリー・スタジアムで行われた。だが双方守備的に戦ったこの試合は、これといった見せ場もなくスコアレスドロー、詰めかけた観客をがっかりさせた。

イングランドはこの後メキシコに2-0、フランスにも2-0と勝利し1位通過を決めるが、守備が堅くても得点力の乏しい戦いにイギリス国民は不安を覚えるようになる。1組の2位は1勝2分けでウルグアイが勝ち上がった。

2組では、西ドイツがスイスとの初戦を戦った。この試合には西ドイツ20歳の新鋭、フランツ・ベッケンバウアーがワールドカップデビュー。攻撃的右サイドとして、いきなり2得点を挙げた。

続くアルゼンチン戦では堅い守りを誇る相手に0-0と引き分けるが、最終戦スペイン戦では2-1と逆転勝ちを収めた。この結果西ドイツは2勝1分けでアルゼンチンと並ぶが、得点の差で1位勝ち抜けを決めた。

ブラジルの敗退

3組の第1節は、優勝候補ブラジルとブルガリアの対戦。ブラジルには25歳となり全盛期を迎えたペレが健在だったが、2連覇のメンバーは大半が引退、チームは新旧交代の過渡期にあった。それでもブラジルは前半にペレがFKを決めて先制、後半もガリンシャがFKで追加点を奪った。

しかしブルガリアはひっきりなしにペレを攻撃、試合は2-0と勝利したがペレの脚は傷んだ。第2節のハンガリー戦には負傷したペレが欠場、代わりに起用された19歳のトスタンが1点を奪うも、ハンガリーの流れるような攻撃の前に3-1で敗れてしまう。ブラジルがWカップで負けたのは実に12年ぶり、スイス大会で同じハンガリーに敗北して以来だった。

予選敗退のピンチで、ブラジルが第3節を戦うのはポルトガル。ポルトガルは欧州予選で前回準優勝国のチェコスロバキアを撃破、Wカップ初出場を果たしている。モザンビーク出身の「黒豹」エウゼビオを擁するこのチームは、ハンガリーを3-1、ブルガリアを3-0と破り勢いに乗っていた。

ブラジルはペレの復帰を始め、9人もの選手を入れ替えてこの試合に臨んだ。しかし14分、ポルトガルに先制点を許すと、26分にもエウゼビオに追加点を奪われてしまう。さらに30分過ぎ、悪質なファールを受け続けていたペレがモレイラの足払いを受け負傷、仲間に抱き抱えられながらピッチを退いていった。

しかし英国主審は危険なプレーをしたモレイラを退場させる事もなくスルー、後半ブラジルが1点返したもののエウゼビオが終盤に追加点を入れた。こうしてブラジルは1-3で破れ、Wカップ3連覇の夢は早々に絶たれてしまった。1位はポルトガル、2位でハンガリーが準々決勝に勝ち上がった。

負傷したペレは「ボールより脚を蹴るのが目的の大会には、もう出たくない」とコメントし大会を去って行った。こうした暴力行為に危機感を抱いたFIFAは、次のメキシコ大会ではイエローカード・レッドカードを採用する。

「東洋の神秘」の快挙

第4組は、ソ連がレフ・ヤシンを中心とした堅い守りで3連勝、1位通過を決めた。同組、英国との国交もなくフットボールの祖国にやって来た北朝鮮は「東洋の神秘」のベールに包まれていた。だがその姿を知る数少ない国・ソ連には0-3と完敗を喫し、第2節のチリ戦を迎えた。

北朝鮮は豊富な運動量でチリと互角の戦いを繰り広げるも、26分にPKを与え1点リードされてしまう。このまま試合は進み、北朝鮮が謎のまま大会から消えてしまうかと思われた88分、活発な動きでチームの攻守を支えてきた朴承振パク・スンジンのシュートがネットを揺らし同点とする。寸前のところで1-1と引き分けた北朝鮮は、予選通過に首の皮一枚を残した。

だが北朝鮮の最終節の相手は古豪イタリア。ソ連には0-1と惜敗を喫していたが、攻撃にACミランのファンタジスタのジャンニ・リベラや、「グランデ・インテル」の爆撃手サンドロ・マッツォーラ、攻撃的SBの先駆け”ジャチント・ファケッティといったタレントを擁した強豪チームだった。

開始早々北朝鮮に2度のピンチが訪れるが、GK李賛明リ・チャンミョンの神がかりセーブで失点を凌いだ。その後、疲れを知らない北朝鮮の運動量とスピードは、動きの鈍いイタリアを圧倒する。34分にはタックルを仕掛けたイタリア選手が逆に膝を痛め、退場してしまった。

そして42分、朴斗翼パク・ドゥイクがジャンニ・リベラからボールを奪い、DFラインを抜け出してシュート、北朝鮮の先制弾が決まった。縦横無尽に動き回る相手にイタリアは対処しきれなくなり、最前線のマッツォーラも孤立してしまう。こうして試合は1-0で終了、ジャイアント・キリングを成し遂げた北朝鮮はグループ2位となる。

イタリアに帰国した選手たちは空港で腐ったトマトを投げつけられ、数ヶ月間彼らの出場する試合で「コリア!・コリア!」と罵声が浴びせられることになった。

「南海の黒豹」エウゼビオが大爆発

奇跡の準々決勝進出を果たした北朝鮮の前に立ち塞がったのが、勢いに乗るポルトガル。この強敵に対し、朴承振のシュートでわずか開始1分に北朝鮮が先制する。さらに22分、李東雲リ・ドンウンがGKのミスから折り返しを決めて2点目、その3分後には楊成国ヤン・ソングクが追加点を挙げた。

思いがけない展開に会場が騒然とする中、ポルトガルは反撃を開始、27分にスルーパスを受けたエウゼビオが1点を返す。そして42分にポルトガルがPKを得ると、エウゼビオが確実に決め1点差とした。しなやかな身の捌きで北朝鮮を翻弄するエウゼビオは、後半の57分に同点弾、その2分後にも相手DFのファールを誘い、自らPKを決めてついに逆転を果たした。

試合は終盤にも点を入れたポルトガルが5-3と勝利、エウゼビオの大活躍で台風の目となりつつあった北朝鮮を撃破した。

快進撃を続けるポルトガルは、準決勝でイングランドと対戦する。イングランドは準々決勝で、肉弾戦を仕掛けてくるアルゼンチンと激闘を演じていた。

西ドイツ主審はラフプレーで相手を潰そうとするアルゼンチン選手2人を退場処分、数的有利となったイングランドはグリーブスに代わって出場したジョス・ハーストが得点を決め、1-0で「ウェンブリーの戦争」と呼ばれた試合を制する。

イングランドのラムゼー監督はアルゼンチンを「ケダモノ」と非難、試合後のユニフォーム交換も許さなかった。FIFAはこのあと、ラフプレーと執拗な抗議を繰り返したアルゼンチンに罰金を命じる。

ボビー・チャールトンのキャノンシュート炸裂

イングランドとポルトガルの戦いは、荒れた試合が続いたこの大会で一番フェアなゲームとなった。この試合ではイングランドの右ハーフ、ノビー・スタイルズがエウゼビオを徹底マーク、彼に仕事をさせなかった。30分、ポルトガルのGKがイングランドのシュートをパンチング、こぼれ球を拾ったB・チャールトンが冷静にゴールを決めた。

ポルトガルは反撃を試みるも、イングランドの堅い守りの前に攻めあぐねる。そして79分、ハーストの折り返しを受けたB・チャールトンの左足が炸裂、強烈なミドルシュートを叩き込んだ。ポルトガルは終盤エウゼビオのPKで1点を返すが、試合はイングランドが2-1で勝利、初の決勝進出を決めた。

ポルトガルはこのあと3位決定戦を制し、この試合でもPKを決めたエウゼビオが9ゴールで得点王に輝く。

片方の山では西ドイツが準々決勝でウルグアイと対戦。英国主審が西ドイツ寄りのジャッジを行ったため、ラフプレーに走ったウルグアイの2選手が退場となる。そして西ドイツはベッケンバウアーやヘルムート・ハーラーなどの活躍で4-0と勝利した。

そして準決勝、西ドイツの対戦相手はソ連。この試合もコンタクトの激しい試合となりソ連の2選手が退場、ベッケンバウアーとハーラーの得点で西ドイツが2-1と勝利した。こうして西ドイツは3大会ぶりに決勝へ進出、地元優勝を狙うイングランドと雌雄を決することになった。

ウェンブリーの激闘と疑惑のゴール

第8回ワールドカップ決勝は7月30日、ウェンブリー・スタジアムに9万8千人の観客を集めて行われた。開始12分、西ドイツのハーラーが先制点、しかし18分にイングランドのハーストがゴールを入れ返す。西ドイツはB・チャールトンをベッケンバウアーにマークさせたが、それはベッケンバウアーの攻撃力を削ぐことにもなった。

そして78分、西ドイツのクリアを拾ったピーターズのシュートが決まり、イングランドは待望の勝ち越し点を手に入れる。こうしてイングランドの優勝が決まったかに思えた後半のロスタイム、西ドイツがFKから奇跡の同点弾を決め勝負は降り出しに戻った。こうして試合はWカップ決勝初の延長戦にもつれ込むことになった。

延長前半の11分、ロングボールの折り返しをハーストがシュート。ボールはバーの下側を叩き地面に落下、これをスイス人主審がゴールと認める。西ドイツはライン外を主張し主審に詰め寄るが、判定は覆らずイングランドが再びリードした。この得点は「疑惑のゴール」と呼ばれ、のちのちまで議論を呼ぶことになる。

さすがに気落ちした西ドイツから終了直前にハーストが得点、決勝戦でのハットトリックを達成した。こうして試合は4-2で終了、フットボールの祖国・イングランドが悲願の初優勝を成し遂げたのだ。

試合後、イングランド主将のムーアがエリザベス女王からジュール・リメ杯を受け取り頭上へ高く掲げる。ちなみにこのジュール・リメ杯、大会前ロンドンで展示中に盗難に遭い、開幕の1ヶ月前に一般家庭の庭で飼われていた犬が見つけたという、曰く付きのトロフィーだった。

次:第9回メキシコ大会(1970)

カテゴリー サッカー史

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