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ワールドカップの歴史 第12回スペイン大会-前編(1982年)

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FIFAワールドカップ、第12回スペイン大会-前編(1982年)

「第三世界の挑戦者」

拡大を続けるワールドカップ

78年に開かれたFIFA総会で、第12回スペイン大会の出場国数を、それまでの16ヶ国から24ヶ国に拡大することが決定した。これはFIFA会長のアヴェランジェが76年の会長選挙の際、アジア・アフリカ枠を増やすと公約を掲げ、それが効を奏して当選したからである。

どちらにしても予選エントリー国は今や109ヶ国、本大会出場枠の拡大は時代の趨勢だった。だが第三世界の出場チームを増やすことで、大会のレベルが下がるのではと危惧する声も上がる。

地区予選の結果、オセアニアで初めてニュージーランドが本大会出場を果たし、そのほかにはカメルーン、アルジェリア、クウェート、ホンジュラスが初出場を決めた。一方で2大会連続で準優勝国となったオランダは、予選で難しい組に入ったこともあり出場を逃した。

大会の方式は24チームを6組に分けて1次リーグを行ない、勝ち上がった12チームで4組の2次リーグを戦った後、各組1位の4チームで決勝トーナメントを行なうという形になった。前大会から決勝・3位決定戦でのPK戦が採用されていた(実施した試合は0)が、今大会もトーナメント戦で決着が付かない場合、PK戦が行なわれることになった。

大会の開幕を間近に控えた82年4月2日、アルゼンチン軍が英国領のフォークランド諸島に侵攻する。これはアルゼンチンの軍事政権が国民の不満をそらすため、かねてから主張していた領有権を解決すべく、実力行使に出たのである。

実効支配のまま和解出来ると高をくくっていたアルゼンチン政府だったが、当時の英国首相マーガレット・サッチャーが『鉄の女』ぶりを発揮。毅然とした対応で軍隊を派遣し、フォークランド戦争が勃発する。6月のWカップ期間中に英国がフォークランド諸島を奪回、国連などの調停により戦争は終結した。

このあと軍事政権は崩壊、83年には大統領選挙が行なわれる。だがサッカーでは、イングランドとアルゼンチンの因縁の対戦が、後々まで続くことになる。

第12回 ワールドカップ開幕

第12回ワールドカップスペイン大会は、6月12日にバルセロナのカンプノウ・スタジアムで華やかな開会式とともに始まった。36年にわたり独裁統治を行なっていたフランコ総統が75年に死去、このWカップは民主化の道を歩み始めたスペインの記念となる大会だった。

1次リーグA組のイタリアは、エースのパオロ・ロッシが国内リーグの八百長騒動に巻き込まれ、2年間の出場停止処分を受けていた。その間イタリアは得点不足に陥り、地元開催の欧州選手権でも成績は振るわずWカップにはようやく出場、チームの前評判は高くなかった。しかもロッシが代表に復帰したのは、大会の僅か1ヶ月半前である。第1節ポーランド戦では両チームとも調子が上がらず、試合は0-0で引き分けた。

第2節はイタリアのコンティが先制点を挙げるが、終盤にペルーに追いつかれ1-1と2試合連続で引き分けてしまう。A組はドロー続きで4チームによる大混戦、1次リーグ突破は最終節の戦いに懸かるが、イタリアはカメルーンを相手にまたもや1-1の引き分けを喫した。

アフリカ代表として初出場を果たしたカメルーンは、アフリカン特有の身体能力をベースに、フランス人のジャン・バンサン監督が組織力を融合させたチームを作り上げていた。当時30歳だったFWロジェ・ミラのスピードある攻撃力に加え、GKトーマス・ヌコノを中心とした守備も堅く、失点は3試合で僅かに1だった。

ともに3分けで並んだイタリアとカメルーンだが、イタリアが得失点差で1つ上回り2位となった。ポーランドは最終節ペルー戦で、ベテランのラトーや若手のスモラレクとボニエクが活躍、5-1の快勝で1勝2分けのグループ1位を決めた。僅かの差で敗退を喫してしまったカメルーンだが、その健闘ぶりは賞賛された。

第三世界の挑戦

B組、西ドイツの初戦の相手は初出場のアルジェリア。「ミスターヨーロッパ」と称えられるカール=ハインツ・ルンメニゲが主将を務める西ドイツにとってアルジェリアは、得点稼ぎに丁度良い獲物のはずだった。予想通り西ドイツが押し気味に試合を進めるが、アルジェリアも踏ん張り失点を許さなかった。

そして50分、アルジェリアの右サイドの細かい繋ぎから、敵陣を斜めに切り裂くスルーパスが通った。そこへ疾風の如く現れたラクダル・ベルミが左脚でシュート、名手ハラルト・シューマッハがぎりぎりで弾くも、詰めていたマジェールが押し込みアルジェリアが先制をした。

だが67分にルンメニゲが同点弾を挙げ、流れは西ドイツに傾いたかに見えた。しかしその1分後、アルジェリアはキックオフから連続で9本のパスを繋ぐと、右サイドから矢のようなクロスを送る。それをベルミが鮮やかに合わせ、勝ち越し点を決めたのだ。

こうしてアルジェリアは2-1と勝利、初出場のチームが強豪西ドイツを倒すという番狂わせを演じた。西ドイツには油断もあったのだが、アルジェリアの技巧的なパス回しはレベルの高いものだった。だが破れた西ドイツも第2節ではルンメニゲのハットトリックなどでチリに4-1と快勝、反対にアルジェリアは守りを固めたオーストリアに0-2と負けてしまった。

それでも最終節、アルジェリアはチリに3-2と勝利し2勝1敗でリーグ戦を終える。その結果1次リーグを突破するB組の2チームは、翌日に行なわれるもうひとつの試合、西ドイツ(1勝1敗)対オーストリア(2勝)戦の内容で決まることになった。

試合は開始10分、西ドイツが先制する。するとゲームは俄に停滞、観客がブーイングする中、両チームの無気力なボール回しが続く。結局西ドイツが1-0と勝利を手にして、3チームが勝ち点4で並ぶが、得失点差で西ドイツが1位、オーストリアが2位、アルジェリアは1次リーグ敗退となった。

西ドイツとオーストリアは、ともにドイツ語を話す隣国同士。この試合は「ヒホンの恥」と呼ばれ、失点を増やさないよう両チームが談合を行なったとアルジェリアが抗議をするも、証拠はなく提訴は却下された。しかし前大会でも、開催国アルゼンチンが関わる八百長疑惑の試合があり、以降リーグ戦の最終節は公平を期して同日・同時刻で行なわれるようになった。

天才児ディエゴ・マラドーナ登場

C組に入った前回王者のアルゼンチン、優勝立役者のマリオ・ケンペスも健在だったが、なんと言って注目を集めたのは、Wカップお披露目となる天才児ディエゴ・マラドーナだった。

マラドーナは17歳だった4年前もWカップメンバーの最終候補まで残り、本大会の選手には選ばれなかったものの、翌年日本で開かれたWユースでは圧倒的な存在感でチームを優勝に導いていた。その後も2年連続南米最優秀選手に選ばれるなど早熟ぶりを見せつけ、満を持しての登場だった。

しかし期待された第1節、アルゼンチンはベルギーに0-1と敗戦、出鼻を挫かれてしまう。第2節のハンガリー戦では、メノッティ監督はケンペスを中盤に下げ、代わりにマラドーナをトップに上げる。するとこの策が大当たり、マラドーナの2得点などでアルゼンチンが4-1の快勝を収めた。

第3節、善戦するエルサルバドル相手にアルゼンチンは苦しむが、それでも2-0と勝利し、ベルギーに続く2位で2次リーグ進出を決めた。だがエルサルバドル戦でマラドーナは執拗に足を狙われ、フラストレーションを溜めていくようになる。

珍事発生

D組第1節の対戦は3大会ぶりの出場となったイングランドと、プラティニアラン・ジレスなど、中盤にタレントを揃えたフランスの顔合わせとなった。イングランドは主力のケビン・キーガンらが欠場となり不安視されたが、開始僅か27秒、マリナーのクロスをブライアン・ロブソンが頭で合わせ先制点を決めた。

24分にはフランスが同点とするが、67分には再びロブソンが勝ち越し点、83分にはマリナーが追加点を挙げ、イングランドが3-1と勝利を収め好調なスタートを切る。その後イングランドはチェコスロバキアに2-0、クウェートに1-0と3連勝を果たし、グループ1位となった。

フランスは第2節でクウェートと対戦、プラティニやベルナール・ジャンニーニの得点などで3-1とした69分、突然クウェート選手の動きが止まり、ジレスが難なくゴールを決めた。

観客席で吹かれた笛が、主審のファールのホイッスルと紛らわしかったとクウェートは猛抗議、ついには貴賓席にいたクウェート・サッカー協会会長のファハド王子がフィールドに降り、選手たちに引き上げを命じた。

結局主審が折れてジレスのゴールは取り消し、ゲームは再開されるがフランスが追加点を挙げて4-1と勝利、試合自体には影響がなかった。しかしジャッジへの介入を問題視したFIFAは、クウェートに罰金を科す。

このファハド王子だが、89年のフセインによるクウェート侵攻で、イラク軍に殺害されてしまうことになる。フランスは最終節チェコ戦で1-1と引き分け、イングランドに続く2位で2次リーグに進むことになった。

開催国スペインの勝ち上がり

E組の第1節、開催国のスペインはホンジュラスに先制されるもPKで追いつき、ようやく1-1で引き分けた。第2節も開始10分、ユーゴスラビアに先制されるがその4分後、スペインにチャンスが巡ってきた。ゴールに迫るスペイン選手がファールを受けたのだが、倒されたのは明らかにPエリアの外。だが主審はゴールを指さし、スペインにPKを与える判定を下したのだ。

第1節でPKを決めたウファルテがキッカーを務めるが、この絶好のチャンスを外してしまう。しかし主審はGKが先に動いたとしてやり直しを命じ、キッカーを替わったファニートが今度は決めて追いついた。後半、押され気味だったスペインが66分に勝ち越し点、やっとのことで地元初勝利を挙げた。

最終節では北アイルランドが、スペインを1-0と破り1位となった。スペインは勝ち点で並んだユーゴを、得失点差で僅かに1つ上回って2位を確保する。開催国の1次リーグ敗退という不名誉を、ぎりぎりで回避することが出来たのだ。

ブラジル「黄金のカルテット」誕生

F組で観客を魅了したのは、王国ブラジル。テレ・サンターナ監督のもと、29歳の円熟期を迎えたジーコを中心に、ソクラテスやトニーニョ・セレーゾといったインテリジェンスと高いスキルを備える選手で中盤を形成し、エースFW不在をモノともしない攻撃力を発揮していた。

ブラジル第1節の対戦相手となったのは、3大会ぶりに姿を見せたソ連。この試合ボランチのT・セレーゾが出場停止、サンターナ監督は彼の代役として、これまで長く代表を離れていてたロベルト・ファルカンを招集していた。

試合は34分にソ連が先制、じりじりした展開が続くも75分にソクラテスが豪快な同点弾を決めると、88にエデルの決勝点が生まれブラジルは初戦を2-1の逆転勝利で飾った。

第2節スコットランド戦ではT・セレーゾが復帰、しかしサンターナ監督はソ連戦で質の高いプレーを見せたファルカンを引き続き起用する。ここに創造性と技量に優れた4人で構成する、「黄金のカルテット(クアトロ・オーメン・ジ・オロ)」が誕生した。

この試合ブラジルはまたも先制を許すが、33分にジーコの美しい弧を描くFKが決まり同点とした。48分にオスカーが勝ち越し点、63分にエデルが追加点を挙げると、87分にはファルカンが4-1となる駄目押し点を決めて試合を締めくくった。

最終節も初出場のニュージーランドに対し、ジーコのオーバーヘッドシュートやファルコンの得点などで4-0と圧勝、3連勝で余裕の1次リーグ勝ち抜けを決めた。そして2位となったのがソ連である。

初出場組の2次リーグ進出はならなかったが、それでも第三世界の潜在的な力を感じさせた1次リーグの戦いだった。

こうして2次リーグの対戦は、A組がポーランド、ソ連、ベルギー。B組が西ドイツ、イングランド、スペイン。C組がイタリア、ブラジル、アルゼンチン。D組がフランス、オーストリア、北アイルランド、という組み合わせとなった。

次:第12回スペイン大会-後編(1982)

カテゴリー サッカー史

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