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アナザーストーリーズ「天才激突! 黒澤明 vs 勝新太郎」

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〈2019年11月21日の記事〉
避けられなかった衝突

19日放送のアナザーストーリーズは、『影武者』の撮影で監督と主演が激突し、降板劇が起きた騒動の主役、黒澤明と勝新太郎の二人を追った物語。当時の関係者の証言も興味深かったが、勝新太郎降板前の未公開映像も貴重なもの。勝新太郎の甲冑姿や、ちゃんと合戦コスチュームを身につけてのオーディションなど、思わず見入ってしまった。

『影武者』の製作発表が行なわれたのが78年の12月。世界的巨匠の15年ぶりとなる時代劇、黒澤と勝の顔合わせ、コッポラ/ルーカスの製作協力、大規模な出演者オーディションの実施など、撮影前から話題には事欠かず期待は高まっていた。

だが撮影に入って間もない79年の7月、主演・勝新太郎の降板劇が勃発、一般紙にも騒動が大きく報じられる。番組ではこの降板劇を「青天の霹靂」と表現していたが、実際は危惧を抱いていたファンも多かった気がする。

最初に信玄役としてオファーされ、それを断った若山富三郎は「黒澤さんと勝は必ず喧嘩する。俺は二人の間に挟まれる事になるからやらない」と言っていたそうだ。実兄ならではの言葉だろうが、両者の衝突は初めから避けられなかったのだ。

二人の天才

主役の勝が撮影現場に入ったのは、79年7月17日。そしてその翌日、18日には降板騒動が起こっている。直接の理由は、勝が自分用のビデオカメラを持ち込もうと監督に談判したこと。勝手に役つくりをされては困る黒澤監督はその申し入れを拒否、激怒した勝は降板となった。

しかし火種は早い段階から燻っていた。衣装合わせ、スチール写真、リハーサルでのセリフと、次第に浮き上がってくる考え方の相違。完璧主義でイメージ通りの作品を創りたい黒澤と、感覚的で当意即妙に演じる勝新太郎のすれ違いは大きかったのだ。

67年に自分のプロダクションを立ち上げた勝は、テレビドラマの『座頭市』シリーズ製作を手がけるが、主演兼事実上監督のワンマン状態。脚本はあっても、アイデアが浮かぶままにストーリーを変更、日程や予算がオーバーすることも度々だったようだ。

黒澤の証言者、野上照代さんは、「先生は勝さんのことを知らなかった。不勉強だった」と番組で言っていたが、要するにそういうことだと思う。東宝で天皇と呼ばれ、“黒澤組”という常連のスタッフ・キャストで映画を作り続けてきた黒澤監督、やんちゃな天才役者を上手く使おうなど、発想も無かっただろう。

それにしても番組で使われていた『座頭市』シリーズの趣向を凝らした殺陣のシーンなど、テレビドラマとは思えないクォリティーの高さ。これじゃあ採算が採れずにプロダクション経営に苦労するはずだ。この辺りの話は、春日太一著『天才 勝新太郎』に詳しい。

虚しき大作

主演は“黒澤組”の仲代達矢に交替し、映画『影武者』は撮影終了。そして80年4月に一般公開が始まり、自分も大きな期待を持って劇場に駆けつけた一人だ。しかし見終わった感想はなんとも微妙、ワイドスクリーンのカラー映像が重厚なだけに、却って内容が空虚だと感じてしまった。

実際、黒澤監督の演出は既に枯れ始めていたのだが、勝新太郎の天衣無縫なパーソナリティーが映画に活気を与えるはずだった。やはり仲代達矢では持ち味が違いすぎて、役にも嵌まらず話が全然盛り上がらない。生真面目な演技過ぎて、悲劇性も際立たないのだ。

映画評論家の白井佳夫さんは、中間に立って調整する人がいればと残念がるが、野上さんは「甘いよ」と一笑。確かにクリエイターとして方向性の違いすぎる二人に、折り合いを付けられる人物など想像も出来ない。

勝の証言者として番組に登場したのが、オーディションから徳川家康に抜擢された油井昌由樹さん。晩年の黒澤映画に出ていた頃に比べるとスリムでダンディな老紳士に変貌、言われなければ判らない。「自分(勝)が本当にやりたければ、土下座してでもやるべきだったと思うよ」とおっしゃるが、それもまた無理な話だろう。

『影武者』は世界でも配給され、カンヌ国際映画祭のパルムドールや、米アカデミー賞の外国語映画賞を受賞する。だがまあこれは、映画界の大巨匠に対する功労賞のようなもの、自分の中では失敗作にしか思えない。

夢のあと

映画が公開された80年、勝は異色刑事ドラマ『警視-K』を製作。これは余りに実験的な内容で視聴率は低迷、放映した日本テレビには視聴者から苦情の電話も入り打ち切りとなる。自分もこのドラマを覚えているが、当時その良さが分からずポカーンの状態だった。

81年には勝プロが倒産、89年には自身が製作した映画『座頭市』の撮影中に息子が誤って真剣を使用、死亡事故を起こす。90年にはホノルル空港の検査で下着から麻薬が見つかり逮捕、「もうパンツは、はかない」の言葉を残した。こうして波乱の後半生を過ごした勝新太郎だが、最晩年は癌を煩い97年に死去。享年65歳だった。

最晩年も旺盛な創作活動を続けた黒澤監督は、95年に旅館で転倒骨折し療養生活に入る。そして98年に脳卒中により88歳で死去した。ちなみに三船敏郎と萬屋錦之介も97年に亡くなっており、かつて隆盛を誇った時代劇も完全に過去のものとなった。

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