「男はつらいよ」山田洋次と渥美清

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偉大なるマンネリ

映画のシリーズ物は世の中にあまたあるが、次第にマンネリ化し、尻つぼみになって終わるもの。たとえ人気が続いたとしても、監督や主役が交代してしまうのが普通だ。『男はつらいよ』のように同じ監督(第3・第4作を除く)同じ主演で、26年間48作品もシリーズが続いたのは希有な例だと言える。

達者な芸と、可笑しさの中から哀愁をにじませる渥美清の魅力。そして山田監督の心を掴む人情話の上手さと、映画に対する誠実さ。この二人の出逢いが、奇跡の長寿シリーズを生み出したと言えるだろう。彼らが飽くこともなく、しかも作品の質を落とさずに、『男はつらいよ』を続けてきたのというのは本当に凄いことだ。

「偉大なマンネリ」と呼ばれるこの映画。人情喜劇としての面白さだけでなく、風来坊を受け入れる下町人情の温かさ、駄目な兄を包み込む妹さくら(倍賞千恵子)の優しい母性が、観客を和ませるのだろう。この心地よいパターン化が、多くの観客を何度も映画館に足を運ばせることになった理由だと思う。

松竹の落ちこぼれ

1931年、中国の大連で生まれた山田洋次は、戦後日本に引き揚げ、山口県の宇部で少年時代を過ごす。父親が失業し食うや食わずの生活だった山田はアルバイトに追われ、闇屋も経験している。その買い出しで知り合った仲間にお調子者の陽気な男がおり、それが寅次郎の原型となったそうだ。

1954年に松竹へ入社。同世代の大島渚、篠田正浩、吉田喜重らが「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれ脚光を浴びる中、山田は地味な存在で監督昇進も遅かった。「松竹ヌーベルバーグ」たちが進歩的なアート作品を発表していたのに対し、山田の書く脚本は庶民のありふれた話ばかり。周りからは「どうしてそんな話しか書けないんだ」と馬鹿にされていたらしい。

それでもハナ肇主演でつくった喜劇が評価され、監督としての自信がつき始めていた68年、フジテレビから連続ドラマ『愚兄賢妹(仮題)』の脚本依頼が舞い込む。主演の渥美清が、山田洋次に脚本を書いて欲しいとプロデューサーに頼んできたのだ。

不遇の時代

1928年、東京の下町で生まれた渥美清(本名、田所康夫)。父は地方新聞の政治記者だったが家は貧しく、戦中戦後を不良少年として過ごした。この時期工員として働きながら、テキ屋の手伝いもしていたらしい。

そのあと新派の軽演劇を経て、浅草フランス座のコメディアンとなる。だが子供の頃から病弱だった渥美は、肺結核で倒れ、約2年間の療養生活を余儀なくされる。そして手術で片肺を摘出、退院後は酒やタバコはもちろん、コーヒーさえも絶ち、ストイックな生活を貫くようになった。

57年、電通の人に認められテレビデビュー。NHKの『若い季節』や『夢で逢いましょう』への出演で、全国に名前を知られるようになる。映画の仕事でも評価を受けていた渥美清、人気者の彼に目を付けたのは、視聴率競争で苦戦していたフジテレビだった。

思わぬ大ヒット

こうして、一緒にドラマの仕事をすることになった二人。山田監督は脚本の前に渥美の人となりを知るため、彼とじっくり会話をかわした。そのとき山田監督が渥美から聞いたのは、少年時代に憧れたテキ屋の話と不良仲間の話。

渥美はテキ屋の口上を見事に実演、そして鋭い観察力と豊かな表現力で、山田監督を驚かせたそうだ。こうして渥美による語りのうまさ面白さに、イメージを膨らませていった山田監督。フーテンの寅のキャラクター、舞台となる葛飾柴又、腹違いの妹、といった設定や道具立てが、次々に浮かんできたそうだ。

タイトルも『男はつらいよ』に決まり全26話の放送が開始、最初は思わしくなかった視聴率も、尻上がりに上昇する。すると、最後に寅次郎が奄美大島でハブに噛まれて死んでしまう結末に、テレビ局には抗議の手紙や電話が殺到した。

こうした視聴者の反響を知り、皆に愛されるキャラクターを殺してしまったのは間違いだった、と反省した山田監督。こうなったら映画の中で、寅次郎を生き返らせようと考え始める。

そこで山田監督は松竹に映画の企画を出すが、会社の反応は「テレビでやったのと同じものをつくったって、客が見にくるか」と冷たかった。当時の映画界のテレビに対する認識は、この程度だったのである。

それでも諦めきれない山田監督。けんか腰で城戸四郎社長と直談判、ようやく撮影を認めて貰ったそうだ。だが映画『男はつらいよ』が完成しても、熱意のない松竹にしばらく放っておかれてしまう。しかし69年8月に公開され、映画が大評判を得ると会社は掌返し。続編をつくってくれと山田監督に言ってきた。

テレビ用につくった材料があるからと、気軽に続編を引き受けた山田監督。だが7・8作目と続くうちに空恐ろしくなり、渥美清たちとはそろそろ止めようという話をしていたらしい。しかし10作目を越えたあたりから離れがたい愛着がわいてきて、行けるところまで行ってみよう、みたいな心境になったそうだ。

名優の死

『男はつらいよ』シリーズの人気が安定すると、渥美清は他の仕事をセーブし始めた。車寅次郎のイメージを壊さないためだったが、元々人間嫌いで、よっぽど親しい人以外の関係を持とうとしなかったからだ。そのため、撮影現場で見物人が渥美に声を掛けても素っ気ない態度しか示さず、寅さんと素顔のギャップは大きかったようだ。

晩年は癌を煩い体調が悪化する中、無理を押して『男はつらいよ』に出続けた渥美清。その頃の新作番宣をテレビで見たが、撮影待機中の渥美清が蝋人形のように、精気がない表情をしているのに驚いた記憶がある。

48作目を撮り終えたあとの94年8月4日、癌が移転していた渥美清は68歳で死去。享年68歳だった。その後97年に特別編、2019年にはアーカイブ映像を使った記念作品がつくられ、『男はつらいよ』シリーズは全50作となっている。

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