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アナザーストーリーズ「釜石ラグビーの奇跡」

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「新日鉄釜石ラグビー7連覇 ~東北で起きた2つの奇跡~」

去年秋、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ、ラグビーのワールドカップ。そのおかげでトップリーグの2020年開幕戦も大人気、日本ラグビーはさらに盛り上がりを見せるはずだった。

しかし新型コロナウィルスの影響により、リーグ戦は第6節を消化したところで中断。そして23日には残り試合が中止となり、先日リーグ戦の今季打ち切りが発表された。ラグビー界だけの出来事ではないにしろ、去年そのままの勢いで行きたかったところ。本当に残念な事態になってしまった。

その日本ラグビー界で、約40年前に前人未踏の日本選手権7連覇を達成したのが、新日鉄釜石ラグビー部。NHK BSのアナザーストーリーズでは、「新日鉄釜石ラグビー7連覇 ~東北で起きた2つの奇跡~」を放送、釜石ラグビーが刻んだ栄光と苦闘が語られていた。

東北の弱小チーム

釜石7連覇の土台を築きあげた男が、市口 順亮(よしあき)。市口は1964年に京都大学工学部から、新日鉄の前身となる富士製鉄へ鉱山技師として入社。三陸の沿岸部にある人口3万の小さな町、釜石市に配属される。そして京大ラグビー部主将の経歴を持つ市川は、釜石ラグビー部の運営を任されることになった。

だが当時の釜石ラグビー部は、部員12名の弱小集団。全国制覇など夢のまた夢だった。そこで市口はまず人材発掘に着手。有力選手の獲得など望むべくもないため、無名でも伸びしろのありそうな高校生を求めて東北・北海道を探し歩いた。

こうして69年には、部員が31名まで増加する。だが会社員でもある選手たちは、朝8時から夕方まで普通に働き、練習はそのあと。時間は足らず仕事の疲労も残ったままで、しかもグラウンドには寒風が吹きすさぶという厳しい環境だった。

「ラグビーと仕事を両立させるんだ!」と理想を追い求める市口は、しばしば部員と衝突。「面白くない、練習やめた」と言って反抗する選手と、つかみ合い・殴り合い直前までいくこともあった。そういった現状を打破すべく、市口は抜本的な改革を模索することになる。

そんな時市口は、たまたまラグビー技術を解説した英語の教則本を見つける。最新の技術を選手たちに学ばせれば、短時間の練習でも強くなれると考えた市口。海外の資料を買い集め自ら翻訳、部員たちに読ませた。そして最新の情報を手に入れたことで、トレーニングも科学的なものになっていった。

さらに冬の寒さ対策として、パスを使った鬼ごっこを全員参加でやるという練習を考案。するとスクラム要員だったフォワード陣も、これまで求められなかったパス技術を磨くことになり、釜石の画期的なプレースタイルが生まれることになる。

こうしてチーム強化の施策は徐々に実りだし、市口が専任監督に就任した70年に釜石ラグビー部は、全国社会人大会で初優勝を果たすことになる。そして翌71年1月15日の日本選手権で、宿沢広明(後の日本代表監督)を擁する早稲田大学と対戦。しかしスピーディーな早稲田ラグビーに振り回された釜石は、16-30と完敗を喫してしまった。

松尾雄治と「北の鉄人」

パスで対抗しても早稲田に勝てないと考えた市口。そこで思いついたのが「88艦隊」と呼ばれる戦略。平均身長180㎝/体重85kの大型フォワードを揃えて鍛え上げ、巨漢も走りまくる集団に変える。そこから洞口や瀬川といった「走れる巨漢」が育つが、さらに必要なのは戦術眼に長けた司令塔だった。

市口が目を付けたのは、明治大学を初の日本一に導いた松尾雄治。試合の展開を読み、閃きで攻撃を組み立てていく、大学ラグビーのスタープレイヤーだった。市口の必死の勧誘により、松尾は76年に釜石ラグビー部に入団。彼は部員たちに、自分の持つ戦い方のセオリーを伝え始める。

部員たちも、スターの驕りがなく練習熱心な松尾を信頼。松尾の“決まりごとをしっかりやるラグビー”が、部員たちに浸透していった。そしてその翌77年、釜石は再び日本選手権に登場。すると巨漢のフォワード陣が早稲田を蹴散らし突進、27-12の勝利で初の日本一に輝いた。

松尾率いる釜石ラグビーは、79年にも日本選手権で優勝。ここから破竹の7連覇が始まった。いつしかスタンドには応援団が持ち込んだ大漁旗が振られ、釜石ラグビー部は地元の誇りとなっていく。こうしてその名を全国に轟かせた彼らは、「北の鉄人」と呼ばれるようになった。

82年から兼任監督となった松尾雄治、日本代表に選ばれるような若手選手も育っていく。そんな若手の成長を目の当たりにした松尾は「調子の悪いベテランより、調子の良い若手を使う」という信念を強めることになる。

そして85年の全国社会人大会決勝、対神戸製鋼戦。松尾から始まったパスは、90mを延べ13人が次々と繋ぎ、最後に得点。「日本ラグビー史上最も美しい」と語り継がれるトライが生まれる。

奇跡の7連覇達成

こうして社会人を制した釜石は7連覇を目指し、同志社大学と日本選手権を戦うことになる。この日本選手権での現役引退を決めていた松尾だが、痛めていた左足を悪化させ、試合の8日前に入院。激痛により歩くことも出来ない重症で、出場が難しくなってしまった。

日本選手権の相手となる同志社は、平尾誠二や大八木淳史といった日本代表を擁した大学最強チーム。自分の出番は終わったと考えていた松尾だが、キャプテン洞口の「チームにはお前が必要だ」の言葉に悩み抜いた末、強行出場を決意。試合当日は麻酔注射を2本打ち、自分の信念を曲げ、本調子でないのを承知でグランドに立った。

松尾の「最後に余力を少し、俺にくれ」の言葉に奮い立った釜石の選手たち。前半は同志社に2トライを許して苦しい展開となるが、後半に押し返して逆転。最後は31-17と強敵を退け、かつての弱小チーム新日鉄釜石ラグビー部は奇跡の7連覇を成し遂げた。

釜石とワールドカップ

そのあとの釜石ラグビーは、苦難の道を歩むことになる。89年には不況による経営合理化で、高炉が休止。チームも低迷を続け、優勝から遠ざかった2001年には廃部が決定した。だが一時は消えたかと思えた釜石ラグビーの灯火は、新たに発足したクラブチーム「釜石シーウェイブス」が引き継ぐことになる。

しかし11年に東日本大震災が発生。釜石市も津波の被害に遭い、死者・行方不明者1000人以上の犠牲者を出す壊滅状態となる。その惨状に立ち上がったのが、松尾を中心とする7連覇のメンバーたち。彼らはNPO法人「スクラム釜石」を立ち上げ、全国に復興支援を呼びかけた。

その支援活動で持ち上がったのが、ワールドカップの試合を釜石で開催しようという話。そしてその話には、阪神淡路大震災を経験した平尾誠二も協力、計画は実現に向かって進み出した。15年に釜石市が全国12会場の一つに選ばれ、翌年にはスタジアム建設予定地が津波に呑まれた小中学校跡に決定。17年に工事が始まった。

2019年9月25日、ラグビーワールドカップ・アルゼンチン対フィジー戦が、ついに釜石鵜住居(うのすみ)復興スタジアムで開催。そしてその観客席の最上部では、試合中にたくさんの大漁旗が振られていた。

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