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ハリウッドの赤狩り

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嵐の始まり

第2次世界大戦終了後、アメリカが自由主義の盟主へと名乗りをあげる一方、ソ連の影響下にあった東欧諸国を中心に共産党政権が次々に誕生し、世界は2大勢力による東西冷戦の時代に入った。するとアメリカの支配層に共産主義の脅威を声高に煽り立てる人々が現れ、その主張は次第にヒステリックなものとなっていく。

そんな状況下にあった1947年10月20日、アメリカ下院非米活動委員会(HUAC)はワシントンで、「映画界における共産主義の浸透」を調査する第1回聴聞会を開いた。リベラル派の多いハリウッドが、”赤狩り(Red Scare)”の標的となってしまったのだ。

HUACは事前調査でハリウッドの映画人のうち共産党員と目される人たちをリストアップし、その罪状を証言する証人を用意して、彼らへの喚問を行なう。

しかしこれに対するハリウッド側の対応も素早く、開催の1ヶ月前、監督のウイリアム・ワイラーとジョン・ヒューストン、脚本家のフィリップ・ダーン、俳優のアリグザンダー・ノックスらの呼びかけで喚問に反対する「第1修正条項委員会」が作られた。

この反対活動にはハンフリー・ボガート、ローレン・バコール、ジーン・ケリー、キャサリン・ヘプバーン、ジュディ・ガーランドなど多数の映画人が加わり、代表団をワシントンに送って聴聞会を傍聴するとともに新聞に意見広告を出し、ラジオ番組を買い取ってキャンペーンを張った。

“ハリウッドテン” の追放

こうしたバックアップを受け、“赤”の容疑者としてリストアップされた映画人たちは必死の抵抗を行なう。そしてHUACの喚問自体、憲法の「第1修正条項」で保証された信教・言論・表現の自由を侵害するものとして証言を拒否、聴聞会は中断され51年に再開、54年まで続いた。

だがハリウッドには“赤狩り”に加担する保守的な勢力もおり、アメリカ俳優組合(委員長、ロナルド・レーガン)や舞台関係者・映画技術者の連合組織が“赤狩り”の推進を決議、「第1修正条項委員会」の運動は急速に勢いを失っていく。ボガードはいち早く転向を表明、ワイラーもHUACへの協力を呼びかけるまでになった。

そしてHUACは、他人を密告して喚問に協力した者を「友好的証人」として無罪放免の方針を示す。だがこれを拒否した者は「非友好的証人」とされ、324人がブラックリストに名を載せられて職場を追放された。その中でも証言や喚問を拒否した監督のエドワード・ドミトリクや脚本家のダルトン・トランボなど、いわゆる“ハリウッドテン”たちは議会侮辱罪に問われ、半年から1年の実刑を受ける。

一時ハリウッドに籍を置いたことのある小説家のダシール・ハメットも、証言を拒否し5ヶ月の入獄を余儀なくされている。また喜劇王のチャールズ・チャップリンもブラックリスト入り、喚問はされなかったが国外追放処分となってしまった。

投獄されたドミトリク監督は、態度を翻してHUACに協力。旧友ジュールス・ダッシン監督らを密告して早期に釈放され、ハリウッドに復帰した。またリベラル派の旗手と見られていたエリア・カザン監督も、聴聞会で友人たちを“赤”と認め、ハリウッド追放を逃れる。

ブラックリスト入りしたダッシン監督は海外へ渡航、ギリシャで『日曜はダメよ』などをつくった。“ハリウッドテン”の一人ダルトン・トランボは、アメリカで名を秘して映画に携わり続け、『ローマの休日』や『黒い牝牛』を書いた。だがその一方、映画界を離れることを余儀なくされた人たちも少なくなかった。

行き過ぎた弾圧運動

50年、上院議員のジョウゼフ・R・マッカーシーが反共を煽る爆弾発言を行ない、赤狩り運動は“マッカーシズム”と呼ばれて、映画界だけでなく多方面で激化することになる。このヒステリックな反共運動は、多分に被害妄想的なところがあり、行き過ぎた弾圧運動の様相を呈し始めた。

しかし朝鮮戦争が休戦となった53年、米ソに雪解けのムードが漂い、反共ヒステリーの“マッカーシズム”は沈静化していく。そして60年代からは、ブラックリスト組のカムバックが続くことになる。

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