「裏切り者」と呼ばれた男 エリア・カザン




映画監督あるいは舞台演出で知られる、社会派の巨匠エリア・カザン監督。舞台演出家としてピューリッツァー賞やトニー賞を受賞。映画監督としても数々の名作を生み出し、アカデミー賞を始め多くの映画賞に輝いた。

また、劇団時代の仲間と俳優養成学校「アクターズ・スタジオ」を設立。後に加わったリー・ストラスバーグとともに「メソッド演技」の指導を行ない、マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン、ポール・ニューマン、ダスティン・ホフマン、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロらの名優を輩出している。

そんな華々しい経歴を誇るカザン監督。だが一方ではハリウッドの「裏切り者」として、晩年まで批判の声が絶えなかった映画人でもある。1940年代後半から50年代初め、ハリウッドでは“赤狩り”旋風が吹き荒れていた。その突風を受け、進歩派と見られていたカザンは転向。仲間を共産主義者として認める証言を行ない、身の保全を図ったのである。

そのあと、数々の名作を世に送り出したカザン監督。映画界への長年の功績に対し、米映画アカデミー協会から98年に「名誉賞」が与えられることになった。授賞式当日、オスカー像を受け取るカザンに、慣例として会場からスタンディング・オベーションが送られる。だがカメラは、椅子に座ったまま無表情の、エド・ハリス、ニック・ノルティ、イアン・マッケランらの姿も捉えていた。

リチャード・ドレイファスは授賞式前に、「カザンは賞賛を受けるべき人物ではない」との主張を展開。会場の外には「裏切り者」「密告者」のプラカードを掲げ、シュプレヒコールを叫ぶ反対派の姿もあった。


1909年9月7日、エリア・カザンはトルコのコンスタンチノープル(現イスタンブール)で誕生。父親はギリシャ系の商人で、トルコの少数民族だった。生活の苦しさから一家は13年にアメリカへ移住、カザンは生まれつきのマイノリティーとして、孤独な少年時代を過ごすことになる。

野心を抱いたカザンは、アメリカエリート“WASP”の通うウイリアム・カレッジに進むが、お金が無いため大学内で皿洗いやウェイターをして生活費を稼いだ。後に、「パーティーに行って学友たちに、フルーツ・パンチをサービスするのが私の仕事だった」と自虐的に振り返っている。

このあと大学を中退、急進的なニューヨークの劇団「グループ・シアター」に入り、俳優として舞台に立つ。この頃カザンは劇団のメンバーとともに共産党へ入党するが、仲間と対立、すぐに離脱した。やがて演出にまわると次第に頭角を現し、40年代にテネシー・ウイリアムスの『欲望という名の電車』やアーサー・ミラーの『セールスマンの死』を手掛けて脚光を浴びることになる。

2本のドキュメンタリーを撮ったあと、45年の長編『ブルックリン横町』を監督し映画界に本格デビュー。そのあと『影なき殺人』『紳士協定』『ピンキー』の社会批判三部作を発表した。ユダヤ人の人種差別問題を扱った『紳士協定』は注目され、アカデミー賞の作品賞・監督賞・助演女優賞を獲得している。

こうしてハリウッドでの地位を築きつつあったカザンだが、47年に始まった“ハリウッドの赤狩り”に巻き込まれていくことになる。カザンは共産党との関係を疑われ、先鋭的な内容の『紳士協定』も反感を買い、保守勢力に目を付けられてしまったのだ。

52年、非米活動委員会(HUAC)の聴聞会に召喚されることになったカザン。証言を拒否、或いは応じたとしても、その内容によっては罪に問われる可能性もあった。現に、頑なに委員会へ抵抗した映画人の中には、”ハリウッドテン”のように投獄されてハリウッドを追われた者もいた。

カザンは悩み抜いた末、委員会に協力することが愛国心に繋がると考えるようになった。そして聴聞会に出席した彼は自ら進んで共産党への在籍歴を明らかにし、今では何にも関係ないどころか、強い批判を持っていると述べた。そして、共産党に関わった仲間の名前を公にしたのである。

カザンはそれだけではなく、ニューヨークタイムズ紙に自費広告を出し、自分は共産主義者ではないとのアピールも行なっている。こうして自分の地位と生活を守ったカザンだが、それは明らかな権力への屈服・転向と友人に受け取られ、彼には「裏切り者」「スパイ」という言葉が投げかけられることになる。

赤狩りに抵抗し続けた女流劇作家リリアン・ヘルマンは、カザンが自分に自己弁護を行なう様子を、苦々しく本に書いた。彼の裏切りに失望した舞台プロデューサーとも、その後一切口をきくことが無くなってしまった。友人の劇作家アーサー・ミラーもカザンとの交流を断ち、やはり友人だった俳優からは「口に締まりのないやつ」と罵られる。

後年カザンは、貧しいギリシャ移民の子として苦労をした頃を振り返り「ともかくサバイバルすることが、人生でいちばん大事なのだと学んだ」と語っている。マイノリティーとしての辛さを味わってきたカザンにとって、何を言われようと生き抜くことが重要な課題になっていたのだ。

権力に屈し己を守ったカザンだが、そのかわり多くの友人を失い、のちのちまで精神的ダメージを抱えることになった。「あの日から私は、心から笑うことが出来なかった」と述懐するカザンのつくる映画は、以前にも増して陰りを帯びてくるようになる。

このトラウマからアメリカ社会への洞察を深めることになったカザンは、『革命児サパタ』『波止場』『エデンの東』『草原の輝き』などの傑作を発表、疎外感に苦しむ人々の抑圧された欲望を描き続けた。またそれらの映画で、マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン、ウォーレン・ベイティらの若手俳優も発掘している。

76年の『ラストタイクーン』で事実上の引退。88年には自叙伝を出版し、当時の行動は芸術の自由と民主主義を守るためだったと弁明した。この本の感想を求められた“赤狩り”の被害者ダルトン・トランボは、「我々は全て犠牲者だったのだ」とのコメントを残した。

アカデミー名誉賞ではブーイングも浴びたカザンだが、かつて『紳士協定』で主役を務めたグレゴリー・ペックは、「仕事の実績とその人の生き方は分けるべきだ」と受賞を擁護した。また彼を理解するマーティン・スコセッシやロバート・デ・ニーロは、プレゼンターとして彼に心からの祝福を送っている。

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