《 サッカー人物伝 》 アルフレッド・ディ・ステファノ




「レアルの王様」 ディ・ステファノ(アルゼンチン/スペイン)

「いままでの歴史の中で、世界一のフットボーラーは誰?」と聞かれても難しいだろうが、ペレマラドーナクライフベッケンバウアーボビー・チャールトンといったレジェンドたちが口を揃えて、「最も完成された選手」と賞賛するのが、アルゼンチン出身のアルフレッド・ディ・ステファノ( Alfredo Di Stefano )だ。

ディ・ステファノにはあらゆる才能が備わっており、卓越したボールコントロールに加え、スピードと驚異的なスタミナも持ち合わせていた。自陣の深い位置でボールを受けたかと思えば、一気に加速して相手ゴールを脅かす。そのスピードにDFはついて行けず、さらに何度も何度も繰り返される動きに翻弄されてしまうのだ。

またフィールドを支配する力、破壊的な右足、空中戦での能力、チャンスを生み出す嗅覚、精度の高いキック、神出鬼没さなどオールラウンドな能力で、「ひとりトータルフットボール」を演じていたと言われるスーパー・プレイヤーだった。

その圧倒的な存在感で、53~64年の間レアル・マドリードに君臨。髪の毛の色から「ブロンドの矢」のニックネームを持つ。

「白い巨人レアル」の礎を築いたディ・ステファノ

ディ・ステファノは1926年7月4日、アルゼンチン・ブエノスアイレス郊外のバラカスで生まれた。18歳のときトップチーム・デビューすると、47年には優勝したリーベル・プレートの強力な攻撃ライン「ラ・マキナ(ザ・マシーン)」の一翼を担い得点王にも輝く。

同年アルゼンチン代表に選ばれ、6試合に出場し6得点、コパ・アメリカ優勝に貢献した。このままアルゼンチンのエースになるかと思えたディ・ステファノだが、国内が大不況となりクラブも財政難、49年に母国を離れることになった。それ以降ディ・ステファノは、再びアルゼンチン代表に戻ることはなかった。

コロンビアのクラブを経て、53年にスペインのレアル・マドリードへ移籍。それからの活躍はすさまじいものだった。53~59年までの6シーズンで5回の得点王、在籍11シーズンで公式戦通算307得点の記録を残している。

その間レアルの中心選手として、スペインでリーグ戦8回、カップ戦1回の優勝に貢献。さらに、56年に始まった欧州チャンピオンズ・カップは驚異の5連覇を達成、インター・コンチネンタルカップも制した。

特にチャンピオンズ・カップでは比類なき活躍、58試合に出場し49得点という驚くべき記録をつくった。しかもそのうち7得点は、決勝戦で挙げたものある。

その活躍で57年と59年にはバロンドールに輝き、89年にはクライフプラティニとともに、スーパー・バロンドールの名誉を与えられた。20世紀最高のクラブに輝いた「白い巨人レアル」の礎を築いたのは、このディ・ステファノだったのだ。

チャンピオンズカップのハイライト

プレイヤーとしては多くの賞賛を浴びたディ・ステファノだが、気難しい性格でチームメイトからは畏怖され「ドン・アルフレッド」と呼ばれた。58年スウェーデン・ワールドカップ優勝のあとレアルに入団した、ブラジル代表のジジもその一人。彼はチームに君臨していたディ・ステファノから屈辱的な扱いを受け、憤慨しながら1年で古巣へ戻っていった。

反対に、ディ・ステファノの引き立て役となって「レアルの王様」と共存したのが、フランスのレイモン・コパとハンガリーのフェレンツ・プスカシュ。得点王をディ・ステファノと争っていたプスカシュは、最終戦で彼にパスを出しゴールを譲ったとさえ言われている。

キャリアのハイライトとなったのは、59-60シーズンの欧州チャンピオンズ・カップだった。大会5連覇を狙うレアル・マドリードだが、ディ・ステファノが34歳、プスカシュが33歳と主力2人が高齢化。レイモン・コパも契約延長を断ってフランスに帰国してしまい、戦力低下は明らかだった。

最大のライバル、バルセロナは、ラディスラオ・クバラ、ルイス・スアレス、シャンドール・コチシュ、ゾルターン・チボールらのタレントを揃えた強力な布陣で、レアル・マドリードの牙城を崩しにかかった。

この両雄は、チャンピオンズ・カップ準決勝で対戦。しかしさすがのレアルは、ホームのサンチャゴ・ベルナベウで3-1と快勝、アウェーのカンプ・ノウでも3-1と勝利し、力の違いを見せつけた。そして決勝で争うことになったのは、前評判にも昇らなかったドイツのアイントラハト・フランクフルトだった。

際だったスターこそいないが、秀でたチームプレーで高い得点力を誇るフランクフルト。キックオフから果敢に攻め込み、18分に右サイドのクレスが先制ゴール、レアルは思いがけないリードを許してしまった。しかしディ・ステファノが26分、28分と立て続けに得点、あっという間に逆転した。前半終了間際にはプスカシュのゴールが生まれ、3-1でハーフタイムを折り返す。

後半に入った53分、プスカシュがPKで1点。さらに60分、68分と15分間で3得点を決める。それでも怯まないフランクフルトは71分、75分と若いシュタインのゴールで3点差と詰めるが、72分にディ・ステファノがハットトリックとなる駄目押し点でケリをつけた。

試合は7-3で終了。プスカシュ4点、ディ・ステファノが3点という両エースの活躍で、レアルが5年連続の王座に輝いたのだ。このあと、60年から始まったインターコンチネンタル・カップでウルグアイのペニャロールと対戦。ディ・ステファノらのゴールで南米王者を下し、レアルが初代世界一クラブに輝いた。

栄光の黄昏

62年、レアルは2年ぶりにチャンピオンズ・カップ決勝へ進出、前年チャンピオンのベンフィカと戦った。この試合でプスカシュがハットトリック、そのうち1点はディ・ステファノからの息の合ったスルーパスから生まれている。しかし試合はエウゼビオが終盤に2得点を挙げる活躍、レアルはベンフィカに3-5と敗れ6度目の栄冠はならなかった。

64年にエスパニョールへ移籍、66年に40歳で現役引退すると、そのあとスペインやアルゼンチンのクラブ監督としても実績を残した。そんな輝かしいキャリアを誇るディ・ステファノだが、唯一足りないのがワールドカップでの活躍だった。

スペイン代表(当時はナショナルチームの変更可)では31試合に出場、23得点の記録を残し、62年のチリ・ワールドカップでもメンバーに選ばれる。しかしそんな彼も、あの大舞台へ登場することはついになかった。同郷のスペイン代表監督、エレニオ・エレーラと折り合いが悪く、プライドの高いディ・ステファノは怪我を口実に出場を拒んだのだ。

2000年、レアル・マドリードの名誉会長に就任。レジェンドとしての余生を過ごした。14年、心臓発作を起こし搬送された病院で死去。享年88歳だった。

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