「 孤高のエゴイスト 」 エリック・ カントナ ( フランス )
70年代からの低迷後、アレック・ファーガソン監督の指揮のもと復活。90年代にプレミアリーグの常勝軍団となった名門マンチェスター・ユナイテッドの中心を担ったのが、フランス人プレイヤーのエリック・カントナ( Éric Daniel Pierre Cantona )だ。
強靱な肉体と天性のスピードを誇り、ボールテクニックやインスピレーションも一級品。ストライカー、或いはチャンスメイカーとして卓越した能力を発揮し、低迷していたマンチェスター・ユナイテッドの復活に貢献した。そしてファンからは、ユニフォームの襟を立て悠然と振る舞うあの姿で「エリック・ザ・キング」と呼ばれた。
そんな優れた資質に溢れた選手だったが、一方ではその荒々しい気性から「激情家」「唯我独尊」と呼ばれた男でもある。他人への妥協・追従は一切拒否。気に入らなければ対戦相手、チームメイト、監督、審判、観客と、誰彼なく噛み付いていった。
そのため行く先々でトラブルを起こし、出場停止処分になることも度々だった。フランスでは1年ごとにクラブを転々としていたカントナが、ユナイテッドに5年も在籍できたのは、ファーガソン監督の手綱捌きによるところ大だろう。
カントナは1966年5月24日生まれの、フランス・マルセイユ出身。地元クラブでプレーしていた15歳の頃から、相手に対する不遜な態度で知られていたようだ。17歳で1部リーグデビュー、たちまち目覚ましい働きを見せ、注目される存在となった。
87年には、21歳で代表に招集される。そしてデビュー戦となった東ドイツとの試合では1-2と敗れたものの、唯一のゴールをもたらすなど気を吐いた。しかし選手としての評価が高まるにつれ、傍若無人さも目立つようになる。
突然頭を丸めて出場した試合では、見事なフリーキックを決めて話題を独占。だが別の試合で途中交代を告げられると、不服な様子を隠さずボールをスタンドに蹴り込み、ユニフォームを投げ捨てた。そしてテレビのインタビューで公然と監督批判を行なうなど、無敵の異端児ぶりを発揮し始める。
ある時チームメイトで代表GKのマルティーニに、鞄を持ってきてくれと頼まれた若手のカントナ。ところがカントナはそれを断り「俺はお前の命令を受けない」と言うと、なんとマルティーニの顔面に一発食らわせ、クラブから罰金処分を受けるという事さえあった。
その後もフランス代表監督のアンリ・ミッシェルに「クソッたれ」と罵ったり、試合中勝手にグラウンドを離れてそのまま3日間行方をくらましたりと、問題行動が続いた。そして91年12月、カントナは主審にボールをぶつけた行為を咎められ、サッカー協会に呼びだされて1ヶ月の出場停止処分を言い渡される。
すると委員の一人に歩み寄り、「バカ」と罵ったカントナ。当然彼にはより厳しい処分が下され、我慢の限界にきたカントナは引退を宣言してしまう。しかしこの時、カントナを高く評価していたミッシェル・プラティニ(当時、フランス代表監督)が説得し、引退を翻意させた。そしてプラティニの勧めで、カントナはイングランドへ渡ることになる。
92年のシーズン途中に、プレミアリーグのリーズ・ユナイテッドへ加入したカントナ、たちまち主力となってチームに優勝をもたらした。その彼に目を付けたのが、マンチェスター・ユナイテッドのファーガソン監督。チームの得点不足に悩んでいたファーガソンにとって、攻撃力に優れたカントナは魅力的な選手だった。
マンU移籍したカントナは「イングランドの攻撃的なサッカーが、俺には合っている」と、その持ち味を発揮。チャンスを逃さない突進力と卓越したボールテクニックで、ファンを魅了した。
強力な点取り屋を得たファーガソンのチームも2シーズン連続でリーグ優勝を果たし、年間最優秀選手となったカントナはサポーターから“英雄”と称えられるようになる。
しかし、それでも悪童カントナの気質が変わった訳ではなかった。事件が起きたのは、95年1月25日のクリスタル・パレス戦。相手DFにユニフォームを引っ張られたカントナは、腹を立てて報復のキック、一発退場となってしまう。すると退場の通路に向かうカントナに、相手サポーターの1人から汚い言葉が浴びせられた。
激高したカントナは、そのサポーターに駆け寄りカンフーキック、さらに馬乗りになって何発ものパンチを見舞う。前代未聞の暴挙に世界は騒然、カントナは8ヶ月の出場停止処分となり、3万ポンドの罰金も科せられる。そしてマンUも、3季連続優勝を逃してしまうことになるのだ。
一時は禁固刑、そしてクラブの解雇も考えられたカントナ。しかしサポーター側の悪質さも認められ情状酌量の判断、カントナはボランティアを課せられることで許され、マンUとも新たに2年契約を結んだ。
しかし記者会見では「カモメがトロール船を追いかけるのは、鰯が海に放られると思っているからだ。ありがとう」の言葉で記者をポカンとさせ、後年には「最高の瞬間? たくさんあるけど、ひとつ選ぶならフーリガンに蹴りを入れた時だな」とうそぶくなど、ヒールぶりは相変わらずだった。
出場停止処分を受け、しばらくフランス代表も離れることになったカントナ。しかしこの期間に、ジネディーヌ・ジダンが台頭。エメ・ジャケ監督はカントナらベテランを外し、ジダンを中心としたチーム作りへ着手することになる。
94年のアメリカ・ワールドカップを、フランスが予選最終戦のロスタイムに失点するという失態で敗退、カントナも出場を逃していた。そして母国開催の98年大会前には構想外となり、ついにワールドカップとは縁が無く終わってしまった。
97年までユナイテッドでプレーしたあと、カントナは30歳で引退を表明した。まさに彼は人を寄せ付けない孤高の存在だったが、全体練習の他に個人練習を重ねるひたむきな姿勢は、デヴィッド・ベッカム、ライアン・ギグス、ポール・スコールズらの若手に影響を与え、その後のマンU全盛期に繋がっていったという。
ちなみにカントナは94年にフランス代表として、J・P・パパン、ジノラ、ジョルカエフ、デシャン、ブラン、デサイーら豪華メンバーと来日。キリンカップでファルカン・ジャパンと戦い、4-1と圧勝して力の違いを見せている。