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《 サッカー人物伝 》 ジョージ・ベスト

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「天衣無縫のドリブラー」ジョージ・ベスト(北アイルランド)

60年代のマンチェスター・ユナイテッドで、ボビー・チャールトンデニス・ローとともに一時代を築き上げた、天才ウィンガーのジョージ・ベスト( George Best )。ワールドカップには出場できなかったが、選手としての名声は今も続いている。

そのドリブルはまさにマジカル、スキーのスラローム競技のように相手DFの間をすり抜け、軽やかにゴールへ向かうプレーで圧倒した。またシュート技術にも長け、強烈なミドルシュートや意表を突くヒールキック、そしてお洒落なループシュートなどでファンを楽しませ、熱狂させている。

トレードマークとなった長髪と、細身でアイドル的な容貌から「5人目のビートルズ」と呼ばれたベスト。明るく人なつっこい性格で若い女性からの人気も高く、まさに“時代のアイコン”と言える選手で、マンチェスター・ユナイテッド栄光の背番号7は彼から始まった。

その一方、派手な私生活でも知られており。酒・女・ギャンブルに溺れる毎日を送りスキャンダルも頻出。結局それが彼の人生を狂わせ、輝かしいはずのキャリアに影を落とすことになってしまった。

天才の輝き

ベストは1946年5月22日、北アイルランド・ベスファルトの生まれ。地元のサッカークラブでプレーしていた15歳の時、スカウトの目にとまりマンチェスター・ユナイテッドのトライアルを受ける。ベストを見いだしたマンUスカウトのボブ・ビショップが、クラブに「天才を見つけた」と電報を送ったエピソードは有名である。

63年、ベストは17歳でプロデビュー。1年目から活躍を見せると、北アイルランド代表にも最年少で招集された。2年目には、代表戦で欠場した1試合を除き41試合にフル出場。10得点を挙げてリーグ優勝に貢献し、早くもチームに欠かせない主力となった。

その名を一躍世界に知らしめることになったのは、65-66年シーズンのチャンピオンズ・カップ、準々決勝のベンフィカ(ポルトガル)戦・第2レグでのゴールだった。

この試合、ベストは2得点を挙げ5-1の勝利に貢献。特に2点目は、中央でボールを受けるやいなや見事なドリブルで3人を抜き去り、叩き込んだ鮮やかなゴールだった。

この頃のベンフィカは、「黒豹」エウゼビオを擁する最強チーム。チャンピオンズ・カップでも優勝候補の一角に数えられていた。そんな強豪を相手に演じたベストのドリブルとシュートは、世界に強いインパクトを残すことになったのだ。

この年のチャンピオンズ・カップ優勝は逃したが、その2年後にベストはキャリアのピークを迎えることになる。67-68年シーズン、国内リーグ41試合に出場して自己最多の28ゴールを挙げ、優勝の立役者となり得点王にも輝いた。

悲願のチャンピオンズ・カップ初制覇

そしてチャンピオンズ・カップでも好調さを維持、レアル・マドリードとの準決勝では2戦で1ゴール1アシストの活躍を見せた。

そして決勝のベンフィカ戦、試合が1-1で延長に入った数分後だった。ベストは相手DFを抜き去りGKと1対1、その場面をフェイントで崩すと、無人のゴールへボールを流し込んだ。

こうしてユナイテッドはベンフィカを破り優勝を果たす。あの「ミュンヘンの悲劇」飛行機事故からちょうど10年目にしての、チャンピオンズ・カップ初制覇だった。

そしてこの年大活躍のベストも、チームメイトのデニス・ロー、ボビー・チャールトンに続くバロンドールを、史上最年少の22歳で受賞した。

ベストの凋落

だが翌シーズン、長らくユナイテッドを率いていた名監督マット・バスビーが引退。驕慢になっていくベストを御する人間がいなくなり、彼自身のキャリアも急激に下り坂へ向かっていく。

特別扱いとなったベストは、試合の直前まで女の子とホテルで過ごすなどやりたい放題。本来なら厳重処分を下すべきところだが、次々と入れ替わる監督たちがチームの人気スターを咎めることはなかった。

二日酔いで練習もサボるようになったベストの行動は、チームワークを乱してゆき、ユナイテッドの成績も下降気味となっていく。ベスト自身も度重なるスキャンダルを起こして次第に疲弊、自身のパフォーマンスを落としていった。

70年、たびたび審判とトラブルを起こしていたベストは、サッカー協会・懲罰委員会からの呼び出しを受ける。そしてユナイテッドの重鎮・バスビー元監督はベストに同行するため、駅で彼と待ち合わせることになった。

しかしいつまでたっても駅に姿を現わさないベスト。ついにバスビーは、当人抜きで懲罰委員会に赴かざるを得なかった。

こうしてベストは自分から、破滅への坂を転げ落ちていった。もはや精神的にも肉体的にも追い詰められ、72年に引退を宣言する。この宣言はすぐに撤回されたが、25歳にして力の衰えは歴然、74年に11年過ごしたマンUを退団した。そして主力が次々と去って行ったユナイテッドも、ここから長い低迷期を迎えることになる。

早すぎる天才の死

このあとベストは世界各国の無名チームを転々とし、84年まで現役を続けた。引退後もアルコールとスキャンダルの生活は相変わらずだったが、その人気は衰えず、イベントや解説で引っ張りだこになっていたようだ。

だが05年、インフルエンザにかかった59歳のベストは、感染症を併発し入院生活を送ることになる。しかし病状は回復せず、11月25日に帰らぬ人となってしまった。長年によるアルコールへの依存が、彼の身体を蝕んでしまったのだ。

故郷のベスファルトで行われた葬儀には20万人もの人々が国内外から駆けつけ、ベストの早すぎる死を悼んだ。

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