「 天衣無縫のドリブラー 」 ジョージ・ベスト ( 北アイルランド )
天性のバランス感覚と抜群のボールコントロール、緩急を駆使しての鋭いステップで世界中のファンを魅了した20世紀最高のドリブラー。スキースラロームのようにDFの間をすり抜け、相手ゴールに迫って多くの得点を決めた。60年代マンチェスター・ユナイテッドの名ウィンガーとして7番伝説を創ったのが、ジョージ・ベスト( George Best )だ。
17歳でプロデビューを飾ると、64-65、66-67シーズンのリーグ優勝に貢献。67-68シーズンはリーグ得点王に輝くと共に、チャンピオンズカップ決勝で貴重な得点を挙げて初優勝の立役者となる。その活躍により史上最年少の22歳でバロンドールを受賞。同賞受賞者のボビー・チャールトン、デニス・ローとクラブ60年代後半の黄金期を築く。
W杯など代表での活躍はなかったが、トレードマークとなった長髪とアイドル的な見た目から「5人目のビートルズ」と呼ばれ、若い女性からの人気も高く、まさに “時代のアイコン” となった。だが派手な私生活でスキャンダルを頻発させ、輝かしいキャリアに暗い影を落とすことになってしまった。
ジョージ・ベストは1946年5月22日、北アイルランドの首府であるベルファスト東部のクレガで、6人兄妹の長男として生まれた。造船所で働く父ディッキーは、アマチュアクラブでプレーした元サッカー選手、母アンもホッケーの名選手として知られた運動一家だった。
二人の遺伝子を受け継いだ息子ジョージは、生後10ヶ月となる前から歩き出し、部屋の中や庭で遊ぶとき、寝るときさえもボールを手放さないなど、幼くしてサッカーに親しむ。
こうして早くから才能の片鱗を見せ始めたベストだが、学業の方も極めて優秀。飛び級試験に合格して11歳で名門グロブナー高校に通うも、そこにサッカー部はなく、しばらくの間ラグビーに取り組んでいた。
だが結局グロブナー高校の環境に馴染めず、地元の友達が通うリスナシャラ中等学校に転校。学校のチームでプレーするとともに、少年クラブのクレイガー・ボーイズに入団。大いにサッカーを楽しんだ。
すると15歳で出場したユース大会でのプレーが、マンチェスター・ユナイテッドのエリア担当スカウトであるボブ・ビショップの目に止まり、名門クラブのトライアルを受けることになる。このときビショップがユナイテッドのマット・バスビー監督宛に、「天才を見つけた」の電報を送ったというエピソードは有名である。
トライアルを無事通過した10代半ばの少年は、親元を離れてマンチェスターの街に降り立つが、たった一晩でホームシックとなり逃げ帰ってしまう。だがバスビー監督から連絡を受けた父親にクラブへ戻るよう説得され、ようやく覚悟を決めてプロを目指すことになった。
そしてアマチュア(規定でプロになれるのは17歳から)として雑用の仕事をしながらクラブでのトレーニングに励み、17歳となった63年5月の誕生日、晴れてユナイテッドとプロ契約を結ぶ。
その4ヶ月後の9月14日、オールドトラッフォードのウェスト・ブロムウィッチ戦でトップチームデビュー。12月のバーンリー戦で初ゴールを決めて、右ウィングのレギュラーに定着。プロ1年目の63-64シーズンは17試合4ゴールの成績。FAカップでも7試合に出場して2ゴールを挙げる。
いきなりクラブの期待に応えた若きウィンガーのプレーは、あの名将バスビー監督をして「ベストを指導するな。彼は天才だ」と唸らせたと言われる。
その活躍で北アイルランド代表にも17歳で招集され、64年4月のウェールズ戦で最年少となる初キャッを刻む。そして同年11月に行なわれたW杯欧州予選のスイス戦で初ゴールを記録。弱小の北アイルランドはグループ2位と健闘したものの、58年大会以来2度目となるW杯出場は叶わなかった。
2年目の64-65シーズンは、代表戦で欠場した1試合を除き41試合にフル出場。10得点を挙げてクラブの8季ぶりとなるリーグ優勝に貢献し、早くもチームに欠かせない主力へと成長。その早熟さ、ポジション、ドリブルを得意とするプレースタイルで、英国の名選手スタンリー・マシューズとも比較されるようになった。
翌65-66シーズンは、自身初となるチャンピオンズカップに出場。ユナイテッドは順調に勝ち上がり、準々決勝でポルトガルのベンフィカと対戦。ベンフィカはエウゼビオ、マリオ・コルナ、ホセ・アウグストら強力なタレントを擁し、61年、62年とチャンピオンズカップを2連覇。当時欧州屈指の強さを誇っていたチームだった。
ホームでの第1戦は、激戦を繰り広げて3-2の勝利。そしてアウェーでの第2戦、開始12分にベストが先制点を挙げると、その7分後には見事なドリブルで3人を抜き去り2点目を記録。これでユナイテッドの攻撃に勢いがつき、ベンフィカを相手に5-1の圧勝。
勝利の立役者となった19歳のベストは一気に注目される存在となり、当世流行りの長髪をなびかせ颯爽とプレーする姿から、ポルトガルのスポーツ紙に「オ・クイント・ビートル(5人目のビートルズ)」と大きく取り上げられた。
だが準決勝では膝に故障を抱えていたベストが欠場し、パルチザン(ユーゴスラビア)に敗退。それでも世界に強いインパクトを残した若者は、英国のサッカーファンだけではなく若い女性にもアイドル的人気を博すようになり、時代のアイコンとなってゆく。
66-67シーズンは膝の手術を受けた影響で42試合10ゴールの成績に終わるが、チームは2季ぶりのリーグ優勝。イングランド王者としてチャンピオンズカップの出場権を得る。
67-68シーズン、故障の癒えたベストは開幕戦から絶好調。ニューカッスル戦で初めてのハットトリックを記録するなどトップコンディションを維持し、41試合28ゴールの活躍でリーグ得点王を獲得する。
リーグ戦は最終節でライバルのマンチェスター・シティーに優勝をさらわれ、2連覇を逃してしまうが、チャンピオンズカップでは快調な戦いを続けて準決勝に進出した。
そして準決勝では、好調ベストが勝利を呼び込む1ゴール1アシストの活躍。強豪レアル・マドリードを2戦合計4-3と下し、ついにユナイテッドが初となる決勝へ進む。
68年5月に行なわれた決勝の相手は、2年前も戦った強敵ベンフィカ。会場となったのはイングランドの聖地ウェンブリー・スタジアムだった。
前半は相手の激しいマークを受けたベストが動きを封じられ、0-0でハーフタイムを折り返す。だが後半56分、デヴィッド・サドラーのクロスボールに反応したボビー・チャールトンがヘッドで叩き込んで先制点。このまま逃げ切りたいユナイテッドだったが、79分にハイメ・グラサのゴールを許して追いつかれてしまう。
1-1となった試合は延長戦に突入。そして延長前半の99分、相手ロングキックのカットを拾ったベストがマークを振り切りゴールへ突進。最後は鮮やかなステップでキーパーをかわし、無人のゴールへ勝ち越し点を流し込む。
その2分後にもブライアン・キッドの追加点が生まれ、3-1の勝利。ユナイテッドが「ミュンヘンの悲劇」(チームが壊滅寸前となった飛行機事故)からちょうど10年の節目となる、チャンピオンズカップ初優勝を達成した。イングランド勢としても初の欧州制覇だった。
これらの顕著な活躍により、ベストは史上最年少の22歳でバロンドールを受賞。FWA(英国サッカーライター協会)年間最優秀選手にも選ばれる。そして同じバロンドール受賞者のボビー・チャールトン、デニス・ローとは「ホーリー・トリニティー(聖なる三位一体)」と呼ばれ、ユナイテッド60年代後半の黄金期を築いた。
若くして名誉、人気、大金とすべての栄光を手にしたベストだが、早すぎるキャリアの頂点は彼の人生に暗い陰を落とすことになる。
かつて内気で寂しがり屋だったアイルランドの少年は、マンチェスターでの名声の上昇とともに驕慢で自堕落な男へと変貌。一挙手一投足が世間に注目されるというストレスから、次第に酒、ギャンブル、女性へと溺れていった。
さらに長らくチームを率いていたバスビー監督が、69年の欧州制覇を最後にユナイテッドから勇退すると、ますますベストを御する人間はいなくなってしまう。
クラブで特別扱いとなったベストは、試合の直前まで女の子とホテルで過ごすなどやりたい放題。本来なら厳重処分を下すべきところだが、次々と入れ替わる監督たちがチームの人気スターを咎めることはなかった。
二日酔いで練習もサボるようになった彼のきまぐれな行動は、必然のようにチームワークを乱してゆき、ユナイテッドの成績も下降気味となっていく。ベスト自身も度重なるスキャンダルを起こして次第に疲弊、己のパフォーマンスを落としていった。
70年、たびたび審判とトラブルを起こしていたベストは、サッカー協会・懲罰委員会からの呼び出しを受ける。この事態にユナイテッドの重鎮・バスビー元監督は、ベストとの懲罰委員会への同行を承諾。マンチェスターのピカデリー駅で彼と待ち合わせることになった。
しかしいつまでたってもベストが駅に姿を現すことはなく、とうとうバスビーは恥を忍んで当人抜きの懲罰委員会に赴かざるを得なくなってしまう。
こうして自分から破滅への坂を転げ落ちていったベストは、72年にはガールフレンドへの暴力で訴訟沙汰。有能な弁護士を雇ってどうにか事を収めるが、もはや精神的にも肉体的にも追い詰められ、同年に引退を宣言する。
この宣言はすぐに撤回されチームに残るが、25歳にして彼の力の衰えは明白となっていた。そしてついに74年、11年を過ごした名門クラブを退団する。またベストを始め主力が次々と去って行ったユナイテッドも、ここから長い低迷期へと入っていく。
このあとベストは世界各国の無名チームを転々。そのほとんどは客寄せパンダのような扱いだったが、時に思い出したように往年の輝きを見せることもあった。
またピッチ内外で騒動を起こしていたのにもかかわらず、北アイルランド代表にはコンスタントに選出される。しかし他の選手とのレベルの違いは歴然で、ベストは代表活動を「レクレーションみたいなもの」と放言し、そこへ情熱を注ぐことはなかった。
このままW杯にも欧州選手権にも出場することなく、77年に代表を引退。14年間の代表歴で37試合に出場、9ゴールを記録した。
そのあと北アイルランドは82年のW杯で24年ぶりの出場を果し、ベストの代表招集も検討されるが、35歳という年齢とアルコール依存症の問題により見送られた。
84年、ブリスベン・ライオンズ(オーストラリア)でのプレーを最後に、37歳で現役を引退。引退後もアルコールとスキャンダルの生活は相変わらずだったが、その人気は衰えず、イベントや解説では引っ張りだこだった。
05年9月、インフルエンザにかかった59歳のベストは、感染症を併発して入院生活を送ることになる。しかし病状は回復せず、11月25日に帰らぬ人となってしまった。長年によるアルコールへの依存と不摂生が、彼の身体を蝕んでいたのだ。
故郷のベスファルトで行われた葬儀には20万人もの人々が国内外から駆けつけ、ベストの早すぎる死を悼んだ。