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《 サッカー人物伝 》 ギュンター・ネッツァー

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「 反逆のゲームメーカー 」 ギュンター・ネッツァー ( 西ドイツ )

 ブロンドの長髪をなびかせ、軽快なタッチでボールをコントロール。ドリブルで敵陣深く切り込み、「センチメーターパス」と呼ばれた長短の正確なキックで戦況を一変。欧州屈指と言われるフリーキックで相手を恐怖に陥れた稀代のゲームメーカーが、ギュンター・ネッツァー( Günter Theodor Netzer )だ。

名将へネス・バイスバイラー指導のもとで才能を開花させ、ボルシア・メンヘングラードバッハの司令塔として活躍。地方の無名クラブをリーグ屈指の強豪に押し上げた。ネッツァーを始め、フォクツ、ボンホフ、ハインケス、ヴィンマー、シモンセンら若い力が躍動するチームは「駿馬のイレブン」と呼ばれた。

西ドイツ代表として72年の欧州選手権に出場。リベロのベッケンバウアーと共にゲームの組み立てを司り、大会初優勝の立役者となる。だが自国開催となった74年のW杯では、オベラートとのポジション争いに敗れて出場は1試合のみ。優勝を決めたオランダとの決勝をピッチの外で見届けた。

ボルシアMGの若き司令塔

ネッツァーは第二次大戦中の1944年9月14日、メンヘングラードバッハ(当時ミュンヘングラードバッハ)市の中心部にあるガストハウス通りで生まれた。両親ともにそれぞれ店を持ち、種苗や雑貨品を取り扱う商売人。ネッツァーものちに商業学校へ進み、経営を学んでいる。

一人息子だった彼は何不自由なく育てられ、その頃としては珍しく自分のサッカーボールを与えられて、子供仲間のリーダーとして路上サッカーに興じた、9歳のときに地元クラブの1.FCメンヘングラードバッハへ入団。当初はゴールキーパーを任されるも、すぐにフィールドプレーヤーとしての資質を見いだされる。

そのあと地域のユース選抜に選ばれるなど活躍し、63年には同じ街のボルシア・メンヘングラードバッハへ移籍。18歳でプロ契約を結び、ロートヴァイス・オーバーハウゼン戦でレギオナル・リーガ(当時ドイツ2部)デビュー。さっそく初ゴールを記録した。

攻撃的サッカーを標榜するへネス・バイスバイラー監督の薫陶を受け、早くも2年目の64-65シーズンからチームの司令塔として活躍。ボルシアMGはバイエル・ミュンヘンに続く2位を確保し、創設されたばかり(63年8月~)のブンデスリーガへの昇格を果した。

ブンデス1年目の65-66シーズンも31試合13ゴールと活躍。トップリーグに昇格したばかりのチームは13位と苦戦するが、バイスバイラー監督に鍛えられた若い才能が次々に主力へと成長。そして昇格5年目の69-70シーズン、ついにブンデスリーガ初優勝を達成する。

ネッツァーを始め、ベルティ・フォクツ、ユップ・ハインケス、ライナー・ボンホフ、ヘルベルト・ヴィマー、アラン・シモンセンら若手が躍動するチームは、「駿馬のイレブン」と呼ばれて西ドイツサッカーを席巻。同じ新興チームのバイエルン・ミュンヘンと70年代の覇権を争っていく。

ボールの反逆児

翌70-71シーズン、ボルシアMGはブンデスリーガを連覇。チャンピオンズカップにもクラブとして初参戦を果すが、2回戦で戦ったエバートンと2戦合計で2-2の引き分け。本大会で初導入となったPK戦で敗れ、惜しくも姿を消した。

71-72シーズンは27試合17ゴールとキャリアハイの成績を残すも、ライバルのバイエルンに優勝を奪われリーグ3位。一方、2季連続出場となったチャンピオンズカップでは前年に続いて2回戦に進み、ホームでの第1レグでイタリアの強豪インテル・ミラノに7-1の大勝。このうちの2点は、ネッツァーのFKとループシュートによるものだった。

だが試合中に観客席から投げ込まれたコーラの冠が、インテルFWボニンセーニャの喉を直撃。ボニンセーニャはピッチの外で治療を受けるはめとなった。そのため試合はUEFAの裁定で無効となり、10日後にベルリンで行なわれた再試合は0-0の引き分け。アウェーの第2レグでは4-2と敗れてしまい、無念の敗退となった。

このあとインテルは決勝まで進み、ヨハン・クライフ擁するアヤックと対戦するも、大会2連覇を許している。世界中のファンが期待していたのはネッツァーとクライフとの新時代スター対決だったが、この顔合わせが大舞台で実現することは無かった。

ネッツァーが注目されたのはフィールドだけではなく、日頃の振る舞いも人々の関心となっていた。副業として「ラバーズ・レイン(恋人たちの小道)」という店名のディスコ兼バーを経営。トレーニング場には赤いフェラーリやジャガーで乗り付けるという派手さで、世間の耳目を集めていたのだ。

自由なライフスタイルを謳歌するネッツァーは、規律や敢闘精神を重んじた当時の西ドイツでは異色の存在。「遊び人」と眉をひそめる人も多かった。しかしカウンターカルチャーの時流に影響された若者からは圧倒的な共感を得て、「ボールの反逆児」と呼ばれる人気者となっていた。

オベラートとのポジション争い

ブンデスリーガデビューを果した半年後の65年10月、オーストリアとの親善試合で21歳にして代表初キャップを刻む。

だがなかなか代表に定着できず、66年イングランドW杯に出場した同世代のフランツ・ベッケンバウアーやヴォルフガング・オべラートの活躍を、外野から眺めるだけだった。

特にポジション争いのライバルとなったのが、同じゲームメーカーで1歳年上のオベラート。ネッツァーが「センチメーターパス」と呼ばれる精度の高い右足ロングキックを武器としたのに対し、「左足の芸術家」の異名を持つオベラートは、丹念にボールを繋ぐ繊細なスタイルを持ち味としていた。

代表のヘルムート・シェーン監督は、二人の競演を68年欧州選手権予選のアルバニア戦で試みるが、役割分担が曖昧で機能せず。格下の小国を相手に痛恨のスコアレスドローを演じ、決勝大会への進出を逃してしまう。以降、二人が同時にピッチへ立つことは無くなった。

さらに70年のメキシコW杯では、大会直前にコンディションを崩してメンバー外。だがその2年後、ようやくネッツァーに代表キャリアのハイライトが訪れる。

欧州選手権優勝の立役者

72年4月に行なわれた欧州選手権予選の準決勝、西ドイツはアウェーでの第1レグでイングランドと対戦。ネッツァーは負傷欠場したオベラートに代わり、リベロのベッケンバウアーとのダブル司令塔を務めた。

敵地ウェンブリー・スタジアムのフィールドを支配したネッツァーは、最前線の味方に鋭いパスを繰り出し、時には高速ドリブルで敵陣の心臓部へ切り込んだ。キック&ラッシュに終始するイングランドを西ドイツが翻弄。ネッツァー自身もPKによる得点を決め、3-1の快勝。西ドイツがイングランドのホームで勝利したのは、これが初となる快挙だった。

6年前のW杯決勝、同じスタジアムでイングランドに敗れた借りを返した西ドイツは、ホームでの第2レグを0-0と引き分け、ベルギーで開催される決勝大会へ進む。

トーナメントの準決勝では地元ベルギーと対戦。開始24分にネッツァーのクロスから、ゲルト・ミュラーが頭で叩き込んで先制。後半71分もネッツァー得意のロングパスに、再びミュラーが飛び込んで追加点。2-1と勝利して決勝進出を決めた。

決勝の相手はソ連。前半27分、ネッツァーのボレーシュトがクロスバーを叩くも攻撃が繋がり、最後はミュラーが押し込んで先制。さらに52分にはネッツァーを起点に2点目が生まれる。その6分後にはミュラーがダメ押し点。3-0と快勝した西ドイツが大会初優勝を果す。

欧州選手権制覇の立役者となったネッツァーは、クラブでの活躍と合わせてドイツ年間最優秀選手賞に輝く。バロンドールでもベッケンバウアーに続く2位タイ(ミュラーと同票)、名実ともに世界を代表するゲームメーカーと認められた。

レアル・マドリードへの移籍

翌73年も続けてドイツ年間最優秀選手賞を受賞。人気スターとなった彼の住まいはモダンな装飾品に溢れ、衣装タンスにはお洒落な服がずらりと並んだ。髪の毛もだんだん長くなり、私生活の派手さが注目され始めると、バイスバイラー監督との不仲も噂されるようになる。

こうして会話もままならなくなったネッツァーとバイスバイラー監督。その二人の間に入って意思伝達の橋渡しをしたのが、ネッツァーが親友と認めるフォクツだった。

73年、バルセロナがクライフと契約を交わしたことで、それに対抗するようにレアル・マドリードからネッツァーへオファーが舞い込む。それを受けてスペインに旅立つことを決めると、バイスバイラー監督は72-73シーズン最後の試合となるDFBポカール(ドイツカップ)の決勝、1.FCケルン戦で彼を先発から外した。

試合は1-1で延長に突入。するとベンチに座っていたネッツァーはおもむろにジャージを脱ぎ、目を合わせようともしないバイスバイラーに、「僕が出ますよ」と告げグラウンドに向かった。そしてピッチに立った数分後、ボンホフとのワンツーでスペースに抜け出すと、鮮やかなミドルシュートをネットに突き刺す。この決勝ゴールがファンに対する別れの挨拶となった。

レアル1年目の73-74シーズン、クラブ初のドイツ人選手としてプレーするネッツァーだが、新しい環境に適応できず22試合ノーゴールと不振に陥る。チームもリーグ8位と過去20年間で最低の成績。伝統のクラシコではクライフ率いるバルセロナに0-5の大敗を喫し、好敵手の活躍にその影を薄くしてしまう。

唯一コパ・デル・レイ優勝のタイトルは得たものの、決勝のピッチにネッツァーの姿はなかった。こうして新天地のスタートは、期待を裏切るものに終わった。

輝けなかった自国開催のW杯

74年6月、自国開催となるWカップ・西ドイツ大会が開幕。ネッツァーはレアルで不振だったこともあり、ポジションをオベラートに譲ってベンチで待機することになった。シェーン監督はプレーがより確実なオベラートを好んだとも、ベッケンバウアーとのコンビネーションを考慮したとも言われている。

初戦はチリに1-0、第2戦もオーストラリアに3-0と勝利して早々と2次リーグ進出を決める。2試合ともゲーム内容は決して良くなかったが、ネッツァーの出番は訪れなかった。

1次リーグ最終節の対戦相手は、ここまで2位につける東ドイツ。史上初にして、唯一となる東西ドイツ対決だった。首位突破を目指して前半から仕掛ける西ドイツだが、守り固める相手を攻めあぐねてしまう。そして無得点でハーフタムを迎えると、満員の観客席からは「ネッツァー、ネッツァー」と2年前のヒーロー投入を期待する声が湧き上がった。

観客の声援に押されるように、後半69分にはオベラートに代わってネッツァーがピッチに登場。だがその11分後、一瞬のカウンターからゴールを許して失点。0-1と敗れた西ドイツは、グループ首位を東ドイツに明け渡してしまった。

この敗戦をきっかけに、主将のベッケンバウアーが主導してチーム編成を見直し。ネッツァーは控え5人のベンチメンバーからも外され、以降の戦いをスタンドから見守ることになる。

2次リーグではそれまで出番がなかったボンホフが重用され、ユーゴスラビアを2-0、スウェーデンを4-2と撃破。快進撃を続けていたポーランドも接戦のすえ1-0と下し、決勝進出を決める。

決勝の相手は、クライフを中心とした「トータルフットボール」で大会に旋風を起こしたオランダ。ネッツァーは相手キーマンのマークを任されたフォクツのため、練習で「クライフ役」を務めて本番へ臨ませた。

決勝は開始早々の1分、Pエリアに侵入したクライフをフォクツが倒してPK。これをヨハン・ニースケンスに沈められて先制を許してしまう。それでも25分にパウル・ブライトナーのPKで同点とすると、前半終了間際の43分にはミュラーが勝ち越し弾。

後半はフォクツが徹底マークでクライフの動きを封じ、無失点に抑えて2-1の逆転勝利。地元西ドイツが5大会ぶり2度目の優勝を果す。

優勝の喜びを味わったものの、ネッツァーの出番は東ドイツ戦のわずか20分あまり。ポジションを譲ったオベラートとはライバルであるとともに親友で、「彼は代表のために生まれたのだ」と諦観したように語った。

そして翌75年10月のギリシャ戦を最後に招集されなくなり、代表のキャリアを終えた。10年間の代表歴で37試合に出場、6ゴールの記録を残している。

引退後のキャリア

74-75シーズン、代表の仲間であるブライトナーがレアルに入団。相性の悪かった監督も交代して息を吹き返したネッツァーは、29試合7ゴールと復調気配。3季ぶりとなるリーグ優勝とコパ・デル・レイ2連覇に貢献する。

75-76シーズン、レアルはリーグを2連覇。チャンピオンズカップでも順調に勝ち上がり、準々決勝でネッツァーの古巣であるボルシアMGを破ってベスト4進出を果す。

準決勝の相手は、このとき大会2連覇中だった王者バイエルン・ミュンヘン。ホームの第1レグで1-1と引き分けると、アウェーの第2戦はミュラーの2発に沈んで0-2の完敗。一方で決勝へ進んだバイエルンは、クライフ時代のアヤックスに続く大会3連覇の偉業を成した。

これを最後にネッツァーはレアルを退団。それからスイスで1シーズンを過ごし、77年に32歳で現役を引退する。

引退後はハンブルガーSV(HSV)のゼネラルマネージャーに就任。優秀な監督やコーチングスタッフを招き入れ、クラブの強化に努めた。

するとHSVは5年間で3度のリーグ優勝を果たし、83年のチャンピオンズカップも初制覇する。クラブを強豪チームに育てたネッツァーは、90年代に入るとビジネスマンへ転身。スポーツ・マーケティング会社の重役となり、両親から受け継いだ商売の素養を生かして実績をあげた。

さらに人気解説者として評判を得る一方、サッカー協会の委員として、06年のドイツW杯招致成功に大きな役割を果している。

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