《 サッカー人物伝 》 ギュンター・ネッツァー

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「反逆のゲームメーカー」 ギュンター・ネッツァー ( 西ドイツ )

ブロンドの長髪をなびかせ、軽快なタッチでボールをコントロール。隙あらばドリブルで敵陣深く切り込み、「センチメーターパス」と呼ばれた長短の正確なキックで戦況を一変。そして欧州屈指と言われるフリーキックが、相手を恐怖に陥れた。

60年代から70年代初めにかけて西ドイツで活躍した、大きな足を持つ司令塔。稀代のゲームメーカーにして優れた戦術家、それがギュンター・ネッツァー( Günter Theodor Netzer )というプレイヤーだった。

そしてネッツァーが注目されるのはフィールドのプレーだけではなく、日頃の振る舞いも人々の関心となっていた。副業としてナイトクラブを経営、トレーニング場には赤いフェラーリやジャガーで乗り付けるという派手さで、世間の注目を集めていたのだ。

そんなライフスタイルを見せるネッツァーは、規律や敢闘精神を重んじた当時の西ドイツでは異色の存在、「プレイボーイ」「遊び人」と眉をひそめる人も多かった。しかし自由を求める若者からは圧倒的な支持を得て、「ボールの反逆児」と呼ばれる人気者となっていた。

メンヘングラッドバッハとネッツァー

ネッツァーは1944年9月14日に、西ドイツ・メンヘングラッドバッハで誕生。9歳の時に地元クラブでサッカーを始め、19歳でボルジア・メンヘングラッドバッハとプロ契約を結んだ。そしてそこで出会ったのが、選手の才能を見抜く力に定評のあった西ドイツの名将、へネス・バイスバイラー監督である。

バイスバイラー監督の指導を受けたネッツァーは持ち前の才能を伸ばし、2年目からはチームの中心を担うようになった。ネッツァーの他にもフォクツ、ボンホフ、ハインケス、ヴィンマー、シモンセンといった若手が監督に見いだされ、強豪クラブに成長したボルジアMG。「駿馬のイレブン」と呼ばれて全国に名を馳せるようになった。

70年、ボルジアMGはリーグ初優勝を果たし、翌シーズンも連覇を達成。その原動力となったのが、チームの司令塔ネッツァーだった。初めて代表に招集されたのは65年、21歳の時。だが70年のメキシコ・ワールドカップは直前にコンディションを崩し、惜しくもメンバーから漏れてしまった。しかし彼の代表キャリアにおける一番のハイライトは、その2年後に訪れる。

欧州選手権の活躍

72年の欧州選手権、ネッツァーはリベロに下がったベッケンバウアーと、深いところから交互にゲームを組み立てる絶妙のコンビネーションを確立する。そして大会の白眉となったの試合は、「聖地」ウェンブリーで行われた西ドイツ対イングランドの準決勝。

フィールドの中央を支配したネッツァーは、最前線の見方に鋭いパスを繰り出し、時には高速のドリブルで前進して敵陣の心臓部へ切り込んだ。キック&ラッシュに終始するイングランドを西ドイツが翻弄、ネッツァー自身もPKによる得点を決め、アウェーの地で3-1の快勝を収めたのだ。

決勝でもソ連を3-0と難なく下し、西ドイツが欧州選手権を初制覇。その立役者となったネッツァーは国内最優秀選手に選ばれる。バロンドールも、1位となったベッケンバウアーに続く、ゲルト・ミューラーと同率の2位。名実ともに西ドイツ最高のプレイヤーの一人と認められることになった。

名門レアル・マドリードへ

西ドイツの人気者となったネッツァー。高級スポーツカーを乗り回しながらディスコも経営、彼の住まいはモダンな装飾品に溢れ、衣装タンスにはお洒落な服がずらりと並んだ。髪の毛もだんだん長くなり私生活の派手さが注目され始めると、バイスバイラー監督との不仲も噂されるようになった。

73年、バルセロナがヨハン・クライフと契約を交わすと、それに対抗するようにレアル・マドリードからネッツァーへオファーが舞い込む。それを受け、ネッツァーがスペインに旅立つことをクラブに告げると、バイスバイラーはシーズン最後の試合となるドイツ・カップの決勝で彼を先発から外した。

試合が1-1で延長に入ると、ネッツァーはおもむろにジャージを脱ぎ、目を合わせようともしないバイスバイラーに「僕が出ますよ」と告げグラウンドに向かった。そして延長のピッチに立った数分後、ボンホフとのワンツーでスペースに抜け出すと、ネッツァーは鮮やかなミドルシュートをネットに突き刺す。このゴールが、ファンに対する別れの挨拶となった。

Wカップ優勝の隠れた貢献

そんなネッツァーには多くの国民が、74年に開催される自国大会、Wカップ・西ドイツ大会での活躍を期待した。しかし、「左足の芸術家」オベラートとのポジション争いに敗れたネッツァー、ワールドカップに出場したのは僅か1試合、途中出場した1次リーグ東ドイツ戦での21分間に留まってしまった。

このあとネッツァーはベンチからも外され、決勝のオランダ戦はスタンドから眺めることになった。クリエイターであろうとする余り献身性に欠け、代表監督ヘルムート・シェーンの信頼を掴みきれなかったのだ。

しかしネッツァーは観客の知らないところで、西ドイツの優勝に貢献していた。決勝前に行なった、対オランダを想定した紅白戦。クライフ役となったネッツァーは、マーカーとして待ち受けるフォクツを出し抜く動きを見せる。そして決勝本番、開始直後にクライフがフォクツのマークを振り切りPKを獲得、早くも西ドイツはリードを奪われた。

クライフにやられてしまったフォクツだが、ネッツァー相手に練習をしていたおかげで慌てず騒がず、柔軟に頭を切り換えることができた。このあとフォクツはフルに動き回り、クライフを密着マークで封じる。そして残り時間オランダのエースに全く仕事をさせず、これが逆転勝利に繋がることになる。

ビジネスマンへの転身

ネッツァーはレアル・マドリードで2度のリーグ優勝を経験したあと、76年に移籍したスイスのグラスホッパーで現役引退した。その後ハンブルガーSV(HSV)のゼネラルマネージャーに就任、優秀な監督・コーチングスタッフを招き入れ、クラブの強化に努めた。

するとHSVは5年間で3度のリーグ優勝を果たし、83年のチャンピオンズ・カップも初制覇する。クラブを強豪チームに育てたネッツァーは、90年代にビジネスマンへ挑戦、スポーツ・マーケティング会社の重役となり実績をあげた。

さらに人気解説者として評判を得る一方、06年のドイツワールドカップ招致にも協会の委員として尽力している。

インテリジェンスにあふれたネッツァーはプレイヤーとしてだけではなく、多方面でその才能を発揮し続けることになったのだ。

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