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《 サッカー人物伝 》 ロマーリオ・デ・ソウザ

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「有言実行のヒールスター」 ロマーリオ・デ・ソウザ( ブラジル )

高度なテクニックと緩急の妙、そして巧みな駆け引きで相手DFを出し抜き、得点を量産したストライカー。天才的な閃きと驚異的とも言えるボールコントロール術を持ち、意外性のあるプレーから確実にシュートを決めた。ピッチの外では奔放な言動で騒動を繰り返し、「悪童」の名を馳せたのが、ロマーリオ( Romário de Souza Faria )だ。

ブラジルの名門ヴァスコ・ダ・ガマで頭角を現し、22歳でオランダのPSVへ移籍。ここで3度の得点王に輝き、リーグ優勝3回、カップ戦制覇2回の原動力となる。93年にはスペインの強豪バルセロナへ移籍。シーズン前に宣言した「30ゴール」を実現させ、チームのリーグ優勝に貢献。「有言実行のヒールスター」の真骨頂を見せつけた。

ブラジル代表では、88年ソウル五輪の銀メダル獲得と2度のコパ・アメリカ優勝に貢献。その問題児ぶりから一時代表を外されるが、アメリカW杯南米予選の最終戦で復帰。2ゴールを挙げて敗退の危機にあったチームを救った。94年W杯では5ゴールの活躍で24年ぶり4度目となる優勝の立役者となり、大会MVPに輝く。

カリオカ生まれのストライカー

ロマーリオは1966年1月29日、リオ・デ・ジャネイロに住む塗装職人の長男として生まれる。アフリカ、ヨーロッパ、中東などにルーツを持つ混血種の家系だった。そのファーストネームは当時のテレビ番組の人気キャラクター、「ドン・ロマーリオ博士」から拝借して付けられたものである。

幼い頃は貧民街のジャカレジーニョで過ごし、4歳のときにリオ郊外北側へ位置するビラ・ダ・ペーニャへ引っ越し。貧しい環境で育ったロマーリオは、小児喘息の持病と栄養不足で身長が伸びず、「バイシーニョ(チビ)」のあだ名で呼ばれた。

そんなひ弱な体ながら、カリオカ(リオっ子)らしく路上やコパカバーナ海岸でひたすら友達とのボール蹴りに熱中。その様子を見ていた父親は、息子のためにジュニアチーム「エストレリーニャ」を結成。9歳のロマーリオはここで正式なサッカーを覚え、持ち前の負けん気でめきめきと上達。すぐに年長者のチームでプレーするようになった。

13歳の時には噂を耳にしたヴァスコ・ダ・ガマから誘いがかかるが、結局「あまりに身体が小さい」という理由で契約は見送られた。それでもスカウトから2部リーグ所属の「オラリオ」を紹介されて入団。ここでストライカーとしての才能を開花させ、ゴールを量産してジュニアリーグの優勝に貢献。その活躍により、81年には晴れてヴァスコ・ダ・ガマへ移籍する。

移籍後はしばらくヴァスコのユースで実力を蓄え、19歳となった85年には念願のプロ契約。同年2月のコリチーバ戦でトップチームデビューを飾る。

この時トップチームの監督は、ブラジルの10番・ジーコの実兄であるエドゥー。エドゥー監督は驚異的な能力を見せるロマーリオを積極的に起用。ロマーリオはその期待に応え、1年目からカリオカ選手権(リオ州選手権)で21試合11ゴールの活躍。翌86シーズンは22試合で20得点を挙げてカリオカ選手権得点王。ブラジレイロン(全国選手権)でも23試合9ゴールを記録する。

87シーズンも16ゴールを挙げて2年連続得点王。チームの5季ぶりとなるカリオカ州選手権制覇に貢献する。翌86シーズンも16ゴールを決め、得点王は逃したものの、州選手権連覇の立役者となった。こうして若きストライカーの活躍は海外にも届き、欧州有力クラブからの注目を集めた。

ソウル五輪の活躍

プロデビューの85年、U-20代表として南米ユース選手権に出場。ロマーリオは大会得点王となる4ゴールを挙げてブラジル3度目の優勝に貢献。世界ユース選手権の出場権も得た。

エースのロマーリオは当然のように世界ユースメンバーへ選ばれるが、開催地のモスクワに飛び立つ寸前まで夜遊びにうつつを抜かすという問題児ぶりを発揮。首脳陣を激怒させチームを外されてしまったが、悪童がめげることはなかった。

2年後の87年にはA代表へ初招集。5月23日の親善試合アイルランド戦でセレソンデビューを飾り、3日後のフィンランド戦で初ゴールを記録。3-2の勝利に貢献する。このまま代表に定着し、同年6月にはアルゼンチン開催のコパ・アメリカに出場。初戦のベネズエラ戦で得点を記録して勝利に貢献するも、第2戦はチリに0-4と完敗を喫して敗退となった。

88年9月にはU-23代表としてソウル五輪に出場。初戦のナイジェリア戦で2得点を挙げて白星スタートを切ると、続くオーストラリア戦ではハットトリックを記録。連勝で早くもグループ突破を決める。第3戦でローマリオにゴールは生まれなかったが、オシム監督率いるユーゴスラビアに2-1の勝利。3戦全勝でベスト8に進む。

準々決勝では宿敵アルゼンチンを1-0と打ち破り、準決勝では西ドイツに先制を許すも、終盤の79分にローマリオが同点弾。延長に突入した試合はPK戦に持ち込まれ、クリンスマンら3人が失敗した西ドイツに対し、ブラジルはロマーリオら3人が成功。ついに決勝へと進む。

決勝の相手はソ連。前半28分にCKからロマーリオが先制点を挙げるが、60分にPKで追いつかれてしまう。試合は1-1のまま延長となり、その103分に痛恨の失点。1-2と破れてブラジル初の金メダル獲得はならなかったが、7点を挙げたロマーリオは得点王を獲得。その活躍により、同年の夏にはチャンピオンカップ優勝を果したばかりのPSVアイントホーフェンと契約を交わす。

ゴールを量産する悪童

ヨーロッパ強豪への移籍を果したロマーリオだが、慣れないオランダの気候に「今日は寒いから練習には参加しない」と相変わらずのワガママぶり。首脳陣からは非難の目を向けられるが、「結果を出せばいいんだろ」と悪童はお構いなし。

そしてその言葉通りに、1年目の88-89シーズンは公式戦33試合で26ゴールを記録。エールディヴィジとKNVBカップの両方で得点王に輝いてチームをタイトル2冠に導き、結果で周囲を黙らせた。前回王者として臨んだチャンピオンズカップではベスト4に終わるも、6得点を挙げたロマーリオはマルセイユのJPパパンと並ぶ大会得点王。驚異の得点力を見せつけた。

翌89-90シーズンも、リーグ戦23ゴールを挙げて2季連続得点王。168㎝のコンパクトな身体を巧み使い、高度なテクニックと驚異的な決定力で次々とゴールを陥れる。

だが結果を残すたびに、悪童の気ままな行動は増長。大事な試合が控えていても朝までディスコで踊り、連絡が取れなくなることもしばしば。シーズン中もたびたびリオに帰り「俺はカリオカ。サンバとカーニバルが生き甲斐なんだ」と悪びれることなくうそぶいた。それでもこのクラブに彼を諫める者はいなかった。

ブラジルのヒーロー

89年7月、自国開催となるコパ・アメリカに出場。地元ブラジルは順当に1次リーグを勝ち抜け、4チームによる決勝ラウンドへと進出。その第1戦でマラドーナ擁するアルゼンチンと戦う。0-0で折り返した後半48分、ロマーリオのアシストからベベトーが先制点。55分にはロマーリオが追加点を決め、ライバルを2-0と葬り去る。

続くパラグアイ戦もロマーリオとベベトーのゴールで3-0と完勝。最終戦の相手となったのは、大会2連覇中のウルグアイ。ここまで共に2勝ずつを挙げており、事実上の決勝戦だった。

試合が行なわれたのは「マラカナンの悲劇」で知られる巨大スタジアム。自国開催の50年W杯でウルグアイ相手に痛恨の逆転負けを喫し、初優勝を逃してしまったという苦い記憶が刻まれる、曰く付きの会場である。

ゲームは一進一退の展開で前半を折り返すと、後半の49分にロマーリオが均衡を破るゴール。このままブラジルが勝利し、40年ぶり4度目の栄冠。マラカナンのリベンジの立役者となったロマーリオは、一気に国民のヒーローとなった。

90年イタリアW杯での活躍も期待されたロマーリオだが、大会3ヶ月前のリーグ戦で腓骨骨折の重傷。懸命のリハビリで本番には間に合わせるも、コンディションは完全回復に程遠い状況。プレー時間はG/L最終節のスコットランド戦、途中出場からの25分のみにとどまり、初めてのW杯は不完全燃焼に終わった。

有言実行のヒールスター

PSVには93年まで在籍。その5年間で公式戦128ゴールを挙げて3度の得点王に輝き、リーグ優勝3回、国内カップ2回、スーパーカップ1回のタイトル獲得に大きな役割を果した。

世界屈指のストライカーとなったロマーリオには、当時欧州最強と謳われたスペインの名門バルセロナからオファー。クライフ監督率いる「ドリームチーム」の一員に加わる。

しかし選手を管理しようとするクライフ監督のやり方に反発し、リーグ開幕前に「シーズン中に30ゴールを決めてみせる」と挑戦状。その宣言通りに得点を量産し、カンプノウで行なわれた伝統のエル・クラシコではハットトリックの活躍。レアル・マドリードを5-0と大破する歴史的勝利の立役者となった。

ロマーリオはこの試合を含めた5度のハットトリックを重ねて得点を稼ぎ、最終節のセビージャ戦で有言実行の30ゴールを達成。リーグ4連覇に大きく貢献する。

だが相変わらず夜遊びが止まらないロマーリオ。乱れた私生活を注意するクライフに「あんたは自分の事だけ心配してればいい。俺は夜遊びをしているからこそ、ゴールを決められるんだ」と言い放つ。これにはさすがのクライフも、それ以上口出しすることを諦めることになる。夜遅くまで遊ぼうが練習に遅刻しようが、ロマーリオが結果を出しているのは事実だった。

バルサはチャンピオンズリーグでも圧倒的な強さを見せ、2季ぶりの決勝へ進出。その相手となったACミランは、守備の要であるバレージ、コスタクルタの2人を出場停止で欠き、試合を前にしてクライフ監督は勝利を確信するコメントを発した。

だが蓋を開けてみるとロマーリオ、ストイチコフらの強力攻撃陣が封じられ、ミランに0-4の完敗。これが「ドリームチーム」の終焉を告げる試合となった。

母国を救ったエース

92年12月、ブラジルで行なわれたドイツとの親善試合のために滞在するオランダから参加。だが自分ではなくカレカが先発に起用されたことに苛立ち、アルベルト・ペレイラ監督へ「俺はベンチに座るためにはるばる来たんじゃない」とクレーム。

それまでもチームの和を乱すトラブルメーカとしてペレイラ監督の手を焼かせていたロマーリオは、これ以降セレソンに呼ばれなくなってしまった。

しかしロマーリオを欠いたブラジルは、93年7月から始まったW杯南米予選で大苦戦。前半戦でボリビアに史上初めての敗戦を喫すると、ロマーリオを使わないペレイラ監督には国民の批判が集まった。

それでもブラジルは予選後半でどうにか盛り返し、W杯出場はホームのマラカナン・スタジアムで行なわれるウルグアイとの最終戦に懸かることになった。

だがこの大事な一戦を前にFWミューレルが負傷し、窮したペレイラ監督はついにロマーリオを招集。代表に復帰したエースはウルグアイ戦で2ゴールの活躍、ブラジルを15大会連続のW杯出場に導く。こうして母国の救世主となったロマーリオは、大きな野心を抱いて2度目の大舞台に臨む。

ロマーリオの野望、達成

94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。前半28分にベベトーのFKからロマーリオが先制点を挙げると、後半52分にはロマーリオの得たPKをライーが沈めて追加点。2-0の快勝を収める。

第2戦もロマーリオの先制点などでカメルーンを3-0と一蹴。第3戦はスウェーデンに先制を許すも、後半ロマーリのゴールで追いついて1-1の引き分け。ブラジルがグループ首位でベスト16に進出する。

トーナメント1回戦は地元の大声援を受けたアメリカと対戦。前半に左SBのレオナルドが一発退場になるなど苦戦を強いられるが、後半ロマーリオの突破からベベトーの決勝点が生まれて1-0の辛勝。準々決勝へ駒を進める。

準々決勝のオランダ戦は、ロマーリオとベベトーのゴールで後半途中まで2点をリード。だが64分にベルカンプの美技で1点を返され、76分にもCKから失点。流れはオランダに傾きかけたが、81分にブランコによる強烈なFKで勝ち越し。3-1と勝利して準決勝に勝ち上がる。

準決勝はスウェーデンと再びの顔合わせ。ゲームの主導権を握って何度も相手ゴールを脅かすブラジルだが、屈強なDF陣を崩せず終盤までノーゴール。だが膠着状態が続いた80分、ジョルジーニョの折り返しをロマーリオが頭で決めて先制。エースの殊勲弾でついに決勝へと駒を進める。

決勝の相手はイタリア。だが猛暑のピッチとバレージが統率する世界一の堅守に苦しみ、延長120分を戦って0-0。優勝の行方はPK戦に持ち込まれた。

PK戦は双方1人目が失敗するという波乱含みの展開。それでも2人目のロマーリオがきっちり決めると、3人目のブランコ、4人目のドゥンガが成功。後攻イタリアは4人目マッサーロのシュートをタファレルが止め、5人目バッジオのキックはバーの上へ。ブラジル24年ぶり4回目の優勝が決まった。

5ゴールを挙げて優勝の立役者となったロマーリオは、ゴールデンボール賞(大会MVP)を獲得する。優勝後の記者会見では「この大会は、まさにロマーリオの大会だった」と自画自賛のコメント。この年にはバルセロナでの活躍と合わせ、FIFA年間最優秀選手賞に選ばれる。

移籍を繰り返す問題児

栄光のW杯優勝メダルを持って母国ブラジルに凱旋帰国したロマーリオ。バルサとの契約を1年残していたが、大きな目標を達成したことにより欧州へ戻る気持ちを失っていた。そこでリオクラブへの移籍を画策するも、多額の移籍金が用意できるチームを見つけられずに断念。練習開始日より23日遅れでバルセロナへ戻ってきた。

シーズンが始まってもロマーリオはやる気を見せることなく、クライフ監督との関係にも亀裂が生じる。そのうえセビージャ戦では挑発してきたシメオネに左フックを浴びせ、15試合の出場停止処分。ここに及んでバルサは問題児に見切りをつけ、移籍金をディスカウント。95年1月、ロマーリオは思惑通りにリオのフラメンゴへの移籍を果す。

フラメンゴでは “野獣” エジムンドと「バッドボーイズ」コンビを組み、96年のカリオカ選手権優勝に貢献。このあとスペインのバレンシアに請われて再び欧州に渡るが、アラゴネス監督と衝突してレンタルでフラメンゴに出戻りとなる。

フラメンゴでも練習をサボったという理由で契約解除となり、2000年には古巣のヴァスコ・ダ・ガマへ移籍。公式戦66ゴールの活躍でカリオカ選手権得点王に輝き、ブラジレイロンでも優勝に大きな役割を果す。

同年にはブラジル開催のFIFAクラブワールドカップに出場し、3得点を挙げて準優勝(コリンチャンスにPK戦負け)に貢献。ブロンズボール賞と大会ベストイレブンに選出された。

その後のキャリア

ブラジル代表では97年のコパ・アメリカ(ボリビア開催)と、コンフェデレーションズカップ(サウジアラビア開催)優勝に貢献。ロマーリオは両方の大会でハットトリックを決めた。“怪物フェノメナロナウドとの「Ro-Roコンビ」は破壊力抜群。ディフェンディングチャンピオンとして臨む98年W杯に大きな期待がかかった。

しかし大会前のメディカルチェックで筋肉系の故障が判明し、フランスW杯メンバーから落選。自分を代表から外したザガロ監督やジーコに憤懣をぶつけ、裁判沙汰のトラブルにもなった。

2000年3月から始まったW杯南米予選で好調さを取り戻すが、01年のコパ・アメリカは仮病を使って不参加。このサボタージュがバレたことからフェリペ・スコラーリ監督の怒りを買い、02年日韓W杯メンバーに招集されることはなかった。

05年4月、グアテマラとの親善試合を最後に代表を引退。19年間の代表歴(実働12年)で70試合に出場、55ゴールの記録を残した。

2000年代にブラジル、カタール、アメリカ、オーストラリアと各地のクラブを渡り歩いたロマーリオは、07年5月に生涯1,000ゴールを達成。ただしこれには非公式ゲームやジュニア時代のものも含まれており、正確なゴール数については見解が別れている。

このあとプレーヤー兼任でヴァスコ・ダ・ガマの暫定監督を務め、08年4月には正式に現役引退を発表。09年11月に一時的なカムバックを果したあと、43歳でプロのキャリアに終止符を打つ。

現役引退後は政治家に転身。2010年に下院議員選挙に立候補して当選すると、14年には上院議員に選出。18年にリオ・デ・ジャネイロ州知事選へ出馬するも、得票数が伸びず落選。現在は与党議員として政治活動を行なっている。

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