《 サッカー人物伝 》 ロマーリオ

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「有言実行のヒールスター」 ロマーリオ ( ブラジル )

小柄ながら高度なテクニックと緩急の妙、そして巧みな駆け引きで相手DFを出し抜き、得点を量産したストライカー。94年のワールドカップでは、24年ぶりとなるブラジル優勝の立役者となったのが、ロマーリオ( Romário de souza Faria )だ。

公称168㎝、実際はそれ以上小さいかもしれない身体から「バイシーニョ(チビ)」の愛称を持つロマーリオ。だが彼は人を食ったような言葉と、気ままな行動を繰り返して数々の騒動を起こし、「悪童」「わがまま」「暴君」と呼ばれたトラブルメーカーでもあった。

プライベートでは夜遊びが過ぎて、監督たちの怒りを買ったことは数知れず。しかしそんな時もゴールを公言、試合できっちり結果を出して周囲を黙らせた。まさに天才的な閃きと驚異的とも言えるボールコントロールを持ち、意外性のあるプレーから確実にシュートを決めるのがロマーリオの凄さである。

悪童ロマーリオのスタイル

1966年1月29日、ロマーリオはブラジルのサンパウロに生まれた。出生時の体重は1,200g、シューズケースの中に入ってしまうほどの小さな赤ん坊だったという。貧民街に生まれた育った彼は常に栄養失調で、それが少年期の成長を妨げることになってしまった。

それでも仲間と路上や海岸で、朝から晩までボールを蹴って遊んでいたロマーリオ。父親のつくったサッカーチームに入ると、ストライカーとして才能が開花。身体の小ささがネックとなり紆余曲折あったものの、16歳で名門バスコ・ダ・ガマと契約、19歳でトップチームデビューを果たした。

この時トップチームの監督は、ジーコの兄エドゥー(のち鹿島アントラーズ監督)。エドゥーは驚異的な能力を見せるロマーリオを積極手に起用。若いストライカーは得点を量産し、たちまち国内屈指の点取り屋に育っていった。

しかしこの頃から、問題児として名を馳せていたロマーリオ。ワールドユース大会の代表メンバーに選ばれるが、開催国のモスクワに飛び立つ寸前まで夜遊びにうつつを抜かし、首脳陣を激怒させチームを外されてしまった。

それでもロマーリオはめげることなく、結果を残すことで周りを納得させてやろうと奮闘。88年のソウル五輪では6試合7ゴールの活躍でブラジルに銀メダルをもたらし、得点王も獲得した。そして89年のコパ・アメリカにもエースとして優勝に貢献。こうして有言実行で周りを黙らせるという、ロマーリオのスタイルが生まれたのだ。

名門クラブでの成功

その活躍が認められ22歳のときに、オランダの名門PSVアイントフォーフェンへ移籍を果たす。だがオランダに渡っても「今日は寒いから練習には参加しない」と、さっそく相変わらずの我が儘ぶりを発揮した。当然首脳陣からは非難の目で見られるが、「結果を出せばいいんだろ」とロマーリオはお構いなし。そしてその言葉通りに、試合ではゴールを決めてみせるのだった。

この時の指揮官は、フース・ヒディンク。自信過剰と嘲笑されながら、豪語したとおりの結果を残すロマーリオのプロフェッショナルぶりに感心したという。行き先々で監督と衝突を繰り返していたロマーリオだが、人心掌握術に長けていたヒディンク監督とは良い関係を結んでいたようだ。

90年には、Wカップ・イタリア大会に出場。だがチームの和を乱しがちなロマーリオはレギュラーから外され、1試合25分の出場に留まる。だが5年在籍したPSVでは絶対的エースとして君臨、3季連続で得点王となり、3度の国内リーグ戦、2度のカップ戦優勝に貢献するという輝かしい実績を残した。

93年、オランダで大活躍を見せるロマーリオに、当時ヨーロッパ最強と言われたFCバルセロナから声がかかる。監督はあのヨハン・クライフ。ロマーリオが問題児であるのは知っていたが、「闘将」ストイチコフを使いこなしてたこともあり、悪童と呼ばれるような選手を扱う自身があったようだ。

ロマーリオを徹底管理し、組織の大事さを教え込もうとしたクライフ。当然ロマーリオはそれに反発し、シーズン前に「30ゴール決めてみせる」と挑戦状を叩きつけ、自分を認めさせようとした。だがそれも監督の計算のうち、クライフはことあるごとにロマーリオを挑発し、彼の爆発的な得点力を引き出す。

その結果、ロマーリオは宣言通りの30ゴールを達成、バルセロナのリーグ4連覇に大きく寄与した。だが相変わらず夜遊びが止まらないロマーリオ、乱れた私生活を注意するクライフに「あんたは自分の事だけ心配してればいい。俺は夜遊びをしているからこそ、ゴールを決められるんだ」と言い放つ。

これにはさすがのクライフも、それ以上口出しすることを諦めることになる。夜遅くまで遊ぼうが練習に遅刻しようが、ロマーリオが結果を出しているのは事実だった。

ワールドカップの活躍

93年Wカップの南米最終予選、攻撃陣の不調でブラジルは低迷していた。この窮地に、チームメイトを批判して代表を外されていたロマーリオが、最終戦で呼び戻される。この最終戦でロマーリオは2得点、ブラジルW杯出場への原動力となった。

そして94年Wカップ・アメリカ大会が開幕。エースの座を確保したロマーリオは「このワールカップは、ロマーリオの大会となる」と意気込んだ。その宣言通りエースが5得点を挙げMVPにも輝き、ブラジルを24年ぶりの優勝へ導く。

こうしてブラジルに凱旋帰国した英雄は、故郷で長いバカンスを謳歌した。いつまでも戻ってこない彼にクラブはしびれを切らすが、それでもロマーリオは涼しい顔。ついにクライフも激怒し、ロマーリオは95年の年明けにバルセロナを退団することになった。

このあと南米のクラブを中心に、毎年のように移籍を繰り返したロマーリオ。97年のコパ・アメリカではロナウドとの「Ro-Roコンビ」で活躍を見せるが、Wカップ直前に故障してフランス大会への出場はならなかった。07年には自称1,000ゴールを達成、09年に44歳で現役引退し、翌年には政治家に転身している。

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