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《 サッカー人物伝 》 フランコ・バレージ

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「 ロッソ・ネロの魂 」 フランコ・バレージ ( イタリア )

クラブカラーから、「ロッソ・ネロ(赤と黒)」の愛称を持つACミラン。そのミランで選手としての生涯を貫き、80年代から90年代にかけて「ロッソ・ネロ」の象徴となったのが、フランコ・バレージ( Francheschino Baresi )である。

バレージの堅実なマーク、ボールを奪ってからの組み立て、ゲーム展開を読み取る力。ユース時代からリベロとして卓越した才能を見せ、若きカピタン(キャプテン)としてミランの最終ラインを統率した。この堅い守備ラインがあったからこそオランダトリオが力を発揮し、ミランの第3期黄金時代が始まったのである。

だが80年代初めから半ばにかけては、2部落ちするなど低迷期にあったミラン。それでもバレージは信念でクラブへの忠誠を貫き、「ロッソ・ネロ」であり続けた。イタリアではバレージこそ、真の「バンディエラ(1クラブを貫いた偉大なプレイヤー)」なのだ。

バンディエラへの道

バレージは1960年5月8日、北イタリアのトラヴァリアートに生まれた。熱狂的なミラニスタ一家で育ったバレージは、先にプロサッカー選手となった二人の兄の後を追うように、14歳でクラブ下部組織の入団テストを受ける。

だが、まだ細身で小柄だった身体を理由に、いくつかのクラブで不合格となってしまったバレージ。しかし、彼の希有な守備センスがミラン関係者に認められ、プリマヴェーラ(ジュニアチーム)に入団を果たすことになる。ここからバレージの、生涯ミラン「バンディエラ」への道が始まったのだ。

プリマヴェーラでもすぐに注目を浴びるようになったバレージ、18歳で早くもトップチームに昇格した。そして2年目には、若手とは思えない自身と落ち着きでレギュラーの座に定着。78-79シーズンにリーグ優勝を果たしたチームの、立役者の一人となった。

だがその栄光も一転、翌80年にイタリア・サッカー界の八百長スキャンダルが発覚する。ミランも八百長に関与しているのではと疑惑を持たれ。79-80シーズンは3位で終えたにも関わらず、セリエBへの降格処分を受けてしまった。

このスキャンダルに大きなショックを受けるバレージ。そして彼のもとには他クラブから数々のオファーが舞い込むが、「カルチョを教えてくれたのは、ミランなんだ」と、降格したチームへの残留を選んだ。

バレージが残ったミランは、80-81年シーズンにセリエBを制覇、セリエAへの復帰を果たした。しかし弱体化していたチームは復帰した81-82年シーズンを14位と低迷、再びセリエBへ降格することになってしまった。

ACミランの若きカピタン

この窮地に、弱冠22歳にしてミランのカピタンを任されることになったバレージ。サンプドリアやインテルからの誘いを断り、クラブ復活の機会を待つことになる。83年、ミランは再びセリエAに復帰、シーズンをどうにか8位で乗り切り、残留に成功する。そしてバレージも、リーダとしての地位を着々と築いていった。

翌85-86シーズンにミランは5位と健闘。しかし財政難にあえいでいたクラブは、シーズン終了後に経営破綻してしまう。そこに登場したのは、「イタリアのメディア王」と呼ばれたシルヴィオ・ベルルスコーニ。ベルルスコーニは破綻したミランを買収、経済力をバックに名門クラブの再建に乗り出した。

監督には、新進のアリゴ・サッキを招聘。そしてフリットファン バステン、ドナドーニ、アンチェロッティといった能力の高い選手たちをかき集め、チームの強化を図った。そしてバレージは、サッキ監督が唱えるプレッシングサッカーの担い手となり、「世界最高のリベロ」としてチームを躍進させる。

87-88シーズン、ミランは17勝2敗11引き分けの好成績を残し、マラドーナ率いるナポリを破って9年ぶりのスクデットを獲得した。さらにチャンピオンズ・カップ、トヨタ・カップも制覇、「ロッソ・ネロ」は鮮やかな復活を遂げたのである。

ワールドカップと不屈の闘志

はじめてイタリアのフル代表に招集されたのは1980年、20歳のとき。そしてこの年の欧州選手権と82年のスペインWカップでもメンバーに選ばれた。82年のWカップではイタリアが優勝を果たしているが、当時のアズーリには最高のリベロと称されたガエターノ・シレアがいたため、若きバレージの出番はなかった。

86年のWカップもシレアの壁に阻まれメンバー落ち、88年の欧州選手権でスイーパーとしてレギュラーに定着し、ベスト4進出に貢献した。地元開催の90年イタリアWカップでは、精神的支柱としてカテナチオを統率。この大会でのイタリアの失点は、準決勝でアルゼンチン、3位決定戦でイングランドに奪われた2点のみだった。

そして94年のアメリカWカップ、34歳となったバレージはチーム最年長の主将として大会に臨んだ。しかし1次リーグの第2戦、ノルウェーとの対戦で膝を痛め途中退場、残り試合の欠場を余儀なくされる。

苦境に陥ったイタリアだが、薄氷の勝利を続け、ついにブラジルとの決勝まで勝ち上がった。怪我のあと帰国せず、ニューヨークで内視鏡手術を受けていたバレージ、リハビリも間に合って24日後にチームへ復帰する。決して体調は万全でなかったが、深い読みと統率力でロマーリオ、べべトーの強力2トップを封じた。

延長の120分を終え、勝負は決勝初のPK戦に持ち込まれる。イタリアの一番手はバレージ。だが疲れ果てていた彼のキックは、大きくバーを超えていってしまった。最後のバッジオもPKを外し、イタリアは準優勝。しかしアズーリのカピタンが見せた不屈の闘志は、世界を感嘆させた。

97年6月、37歳のバレージは現役引退を表明する。20年にわたる選手生活に、「ロッソ・ネロ」のバンディエラとして別れを告げたのだ。そして彼の背番号6は、ミランの永久欠番となった。

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