西ドイツ代表として62試合に出場して68ゴール、ブンデスリーガでは427試合で365ゴール、チャンピオンズ・カップでは74試合で66ゴールを挙げ、その驚異的な得点能力で「デル・ボンバー(爆撃機)」と呼ばれたストライカーが、ゲルト・ミュラー( Gerhard Müller )だ。
ずんぐりむっくりの体型で「太っちょ」とからかわれたミュラー。華麗なテクニックがあったわけではないが、抜群の嗅覚と並外れたシュートの能力でゴールを量産。60-70年代の西ドイツ代表とバイエルン・ミュンヘンに栄光をもたらすプレイヤーとなった。
たまたま決まったように見える至近距離のゴールが多く「ゲルティのリトルゴール」と揶揄されたが、実際は彼ならではの察知能力があってこそなせる技だった。また華麗なテクニックはなくても、シュートに持って行くボールコントロールに優れ、無理な体勢でも確実にゴールへ飛ばす技術を持っていた。
ミュラーは1945年11月3日、バイエルン州のネルトリンゲンで生まれた。後にクラブと代表でチームメイトとなる、ベッケンバウアーより50日遅れての生誕である。
少年時代からズバ抜けた得点能力を発揮していたミュラー。17歳のとき所属していた地元のユースチームが1年間で記録した204ゴールのうち、180ゴールは彼1人で挙げたものだった。
当然その活躍はスカウトの目にとまることになり、18歳となった64年に、その時まだ2部リーグにいたバイエルン・ミュンヘンとプロ契約を結ぶ。当時168㎝と小柄で、ずんぐりとした体つきのミュラー。太ももの太さが異様に目立つこの若者を、練習場で初めて見たチャイコフスキー監督は「この重量挙げの選手を、どうしろというんだい?」と困惑したという。
しかし監督の不安をよそに、ミュラーは早くから天性の真価を発揮。同期入団のベッケンバウアーとともにチームの主力となって、バイエルンのトップリーグ昇格へ貢献した。そしてブンデスリーガの1年目、65-66シーズンは15得点を記録。翌66-67シーズンは28得点を挙げて、初のリーグ得点王に輝く。
チームも国内カップ戦優勝、欧州ウイナーズ・カップ優勝と実績を重ねてゆき、68-67シーズンにはついにブンデスリーガ初優勝を果たす。こうしてミュラー、ベッケンバウアー、へーネス、ゼップ・マイヤーと陣容を整えたバイエルンは、74-76年のチャンピオンズ・カップ3連覇も成し遂げ、世界屈指のクラブへと変貌を遂げたのだ。
オートメーション化された機会のように、ミュラーは次々とゴールを生み出した。新聞は彼を「時を超えて、最も素晴らしい才能を持ったゴールゲッター」と評した。彼はどんなに狭いスペースでも反転、左右の足で強烈なシュートを放つことが出来た。そしてそのシュートは強いだけでなく、正確かつ巧妙でさえあった。
さらには優れたポジショニング感覚で、いつの間にか危険な場所に現れてゴールを陥れていたミュラー。立とうが、跳ぼうが、倒れようが、どんな体勢でも執念でボールを捉え、両足や頭はもちろん爪先・腹・お尻と、腕以外のありとあらゆる部分を使ってゴールを挙げていたのだ。
代表には66年の10月に初招集。デビュー2戦目となる翌年のアルバニア戦で、早くも4ゴールを挙げている。続く68年からのWカップ欧州予選では、6試合で9得点を挙げてエースストライカーとなった。そして70年のWカップ・メキシコ大会。ミュラーは1次リーグで2試合連続のハットトリックを含む7ゴールを挙げ、世界を驚せたのだ。
準決勝でイタリアと死闘を繰り広げた末、西ドイツは敗退してしまうが、ミュラーは全7試合に出場して10ゴール。大会得点王となり、この年のバロンドールにも輝いた。72年の欧州選手権でも4ゴールを挙げ得点王、西ドイツを優勝に導くなど、そのゴールゲッターぶりはとどまることを知らなかった。
そして迎えた74年のWカップ・西ドイツ大会。決勝に勝ち上がった西ドイツは7月7日、大会に大旋風を巻き起こしたオランダと、所属クラブのホームでもあるミュンヘン・オリンピア・シュタディオンで雌雄を決することになった。
試合は開始早々の2分にオランダが先制、しかし西ドイツも25分に追いついた。マーカーのフォクツがクライフを封じると、さらに攻勢を強める西ドイツ。43分、ボンホフのクロスにミュラーが反応、後方にトラップミスしてしまうが、バックステップしてからの素早い反転シュート、勝ち越しゴールが決まった。
こうして2-1と逆転した西ドイツは地元でのWカップ優勝を果たすが、この貴重な勝ち越しゴールが、代表におけるミュラー最後のゴールとなってしまった。Wカップ優勝の祝賀晩餐会、妻の同伴を認められなかったことにミュラーが怒り、28歳で代表から引退してしまったのだ。
ミュラーはWカップ2大会に出場して通算14得点。これはブラジルのロナウドに06年のWカップ・ドイツ大会で抜かれるまで32年間、通算最多得点記録を保持することになった。(現在は3位)
ブンデスリーガでは7度の得点王に輝き、78年にB・ミュンヘンを退団。その後アメリカに渡ってプレーしたが、そこでも2年間で113試合に出場して71得点を挙げるなど、選手生活の晩年も抜群の得点能力を見せつけた。
81年に36歳で現役引退。一時は米国での永住を考えるが、望郷の念に駆られ84年にミュンヘンへ帰郷する。引退後はアルコール依存症に苦しむが、ベッケンバウアーやへーネスらバイエルン・ミュンヘン時代の同僚に助けられ再生。14年までコーチとしてクラブに関わった。
15年にはアルツハイマー病を患っていることがバイエルン・ミュンヘンから発表され、晩年は闘病生活を送っていたという。20年11月から危篤状態に入り、21年8月15日に死去。享年75歳だった。