「 ミュンヘンの爆撃機 」 ゲルト・ミュラー ( 西ドイツ )
175㎝77㎏のずんぐり体型ながら、抜群の嗅覚と泥臭いまでのプレーでゴールを量産。華麗なテクニックがあったわけではないが、シュートに持って行くボールコントロールに優れ、無理な体勢でも確実にゴールへ飛ばす技を持っていた。その驚異的な得点能力で「デル・ボンバー(爆撃機)」と呼ばれたのが、ゲルト・ミュラー(Gerhard Müller)だ。
60年代半ばから70年代半ばのバイエルン・ミュンヘン隆盛期に絶対的エースとして君臨。15年の間に7度のリーグ得点王に輝き、ブンデスリーガ優勝4回、DFBポカール優勝4回、チャンピオンズカップ3連覇など、多くのタイトルをクラブにもたらす。1シーズン40得点、リーグ通算365得点は、長らくブンデスリーガの最多記録を保持していた。
西ドイツ代表では、72年の欧州選手権初優勝と自国開催となった74年W杯優勝に大きく貢献。クライフ率いるオランダと戦った74年W杯決勝では、逆転のゴールを決めて20年ぶり2度目の優勝の立役者となった。代表での通算68得点とW杯通算14得点は、2010年代にクローゼに抜かれるまで同国の最多記録だった。
ミュラーは戦後間もない1945年11月3日、バイエルン州のネルトリンゲンで4人兄弟の末っ子として生まれた。後にクラブと代表でチームメイトとなるベッケンバウアーより50日遅れての生誕である。
「ハッデ」の愛称で呼ばれたミュラーは小さい頃からストリートサッカーに興じ、際だった得点能力で仲間から一目置かれる存在となる。彼の才能に目を付けた地元のジュニアクラブから勧誘の声がかかるも、内気で恥ずかしがり屋な性格でそこに加わることはなかった。
それでもジュニアクラブで活躍していた友人に誘われ、13歳の時にTSVネルトリンゲンの練習に参加。家が貧しく穴空きシューズしか持っていなかったミュラーは、友達のスパイクを借りてたちまち2ゴールを記録。「おい!アイツはいったい何者なんだ?」と、そこにいたコーチを驚かせた。
こうして本格的なキャリアを始めると、すぐにズバ抜けた得点力を発揮。62年にネルトリンゲン・ユースは1シーズンで204得点を記録したが、そのうち180得点は17歳のミュラー1人が挙げたものだと言われる。
その活躍でトップチーム昇格を果すと、2年目の63-64シーズンはベツィルクスリーガ(バイエルン州2部リーグ)で28試合47得点を記録。チームのランデスリーガ(同1部リーグ)昇格に大きく貢献した。
ネルトリンゲンでの活躍でミュラーの名は広く知られるようになり、ブンデスリーガに所属する強豪TSV1860ミュンヘンからスカウト。しかし自分の力を過信することのないミュラーは、そのオファーを断ってレギオナルリーガ(南部ドイツリーグ、実質ブンデスリーガ2部)に所属するバイエルン・ミュンヘンと契約する。
当時バイエルン・ミュンヘンは1860ミュンヘンの影に隠れた無名クラブだったが、ミュラーはすぐにレギュラーとなれそうな下部リーグのチームを選んだのだ。
だが当時は168㎝とまだ小柄で、ずんぐりとした体つきのミュラー。大きな太ももだけが異様に目立つ若者を練習場で初めて見たチャイコフスキー監督は「この重量挙げの選手を、どうしろというんだい?」と困惑したという。
それでもミュラーは監督の不安をよそに、1年目の64-65シーズンから26試合33ゴールと大活躍。同期入団のベッケンバウアーとともにチームの主力となってレギオナルリーガ優勝に貢献し、バイエルンをブンデスリーガ昇格に導く。
トップリーグでの65-66シーズンも33試合15ゴールと安定した成績を残し、クラブ初となるDFBポカール優勝に貢献。ミュラー、ベッケンバウアー、ウリ・へーネス、ゼップ・マイヤーと若い才能を揃えたバイエルンは、ここから強豪クラブへの道を歩み始める。
翌66-67シーズン、ミュラーは32試合で28得点を挙げて初のリーグ得点王を獲得。同シーズンには欧州カップウィナーズ・カップ制覇にも大きな役割を果し、ドイツ年間最優秀選手賞に輝く。
67-68シーズンはタイトル無冠に終わったが、68-69シーズンは30試合30ゴールの成績で2度目の得点王。バイエルンを初のブンデスリーガ優勝に導き、DFBポカールも制してタイトル2冠。2度目のドイツ年間最優秀選手賞に選ばれる。
69-70シーズンは38ゴールで2季連続の得点王。優れたポジショニング感覚で次々と得点を重ねるミュラーに、新聞は「時を超えて、最も素晴らしい才能を持ったゴールゲッター」と評した。またどんな体勢でも執念でボールを捉え、腕以外のありとあらゆる部分を使ってゴールを量産する姿で「デル・ボンバー(爆撃機)」の異名がつけられた。
西ドイツ代表には66年に20歳で初招集。10月12日のトルコ戦でデビューを飾る。そしてデビューから2戦目となる翌67年4月の欧州選手権予選・アルバニア戦では、代表初ゴールを含む4得点の快挙。早くもレギュラーFWの座を掴む。
68年10月から始まったW杯欧州予選では、グループの全6試合で計9得点を記録。チームを5大会連続のW杯出場に導く。12-0と大勝したキプロス戦では、またも1人で4得点を決めるという暴れっぷりだった。
70年5月31日、Wカップ・メキシコ大会が開幕。初戦は前半にモロッコに先制を許すも、後半56分にミュラーのパスから主将のウーベ・ゼーラーが同点弾。76分にはミュラーが決勝点を決め、初ゴールでW杯デビュー戦を飾った。
続くブルガリア戦は、ミュラーのハットトリックによる活躍で5-2の勝利。最終節のペルー戦もミュラーが連続ハットトリックを記録し、相手の反撃をクビジャスの1点に抑えて3-1の快勝。グループ首位でベスト8へ進む。
準々決勝の相手は、前回の決勝で苦杯を舐めた因縁のイングランド。2点を先攻されて苦戦する西ドイツだが、後半68分にベッケンバウアーがゴールを決めて反撃。76分にはゼーラーの同点ゴールが生まれ、延長へともつれ込む。その後半の108分、ヨハネス・レーアの落としをミュラーがボレーで叩き込んで決勝点。前大会の借りを返した西ドイツが準決勝に勝ち上がった。
アステカ・スタジアムで行なわれた準決勝は、イタリアと対戦。前半8分に早くも先制されると、カテナチオの堅守を破れず0-1のまま終盤戦へ。敗色濃厚となった後半ロスタイムの92分、大ベテランのシュネリンガーが起死回生の同点ゴール。2試合連続の延長へと持ち込む。
延長の94分にはミュラーが勝ち越しゴールを決めるが、そのあと立て続けにゴールを許して再びのビハインド。110分にミュラーのヘディング弾でまたも追いつくが、直後の111分にジャンニ・リベラの決勝ゴール。「アステカの死闘」と呼ばれた名勝負で西ドイツは3-4と惜敗した。
このあとウルグアイとの3位決定戦を1-0と制して大会ベスト3。10ゴールを挙げて得点王に輝いたミュラーは、チームメイトのベッケンバウアーやオベラートとともに大会ベストイレブン選出。またクラブでの活躍と合わせて、この年のバロンドールにも選ばれる。ドイツ人選手としては初めての栄誉だった。
71-72シーズン、34試合で40得点を挙げる大活躍で3季ぶり2度目のリーグ優勝に貢献。1シーズン40点の記録は21年にレバンドフスキーに破られるまで(41ゴール)まで、50年間ブンデスリーガの最多レコードを保持することになる。
西ドイツ代表でもエースとして得点を量産し続け、70年9月から始まった欧州選手権予選では8試合7ゴールの大活躍。司令塔として躍動したギュンター・ネッツァーとともに、西ドイツ初となる本大会進出の原動力となった。
72年6月に開催された欧州選手権本大会(ベルギー開催)は、出場4ヶ国によるトーナメント戦で行なわれた。地元ベルギーとの準決勝はミュラーの2得点で2-1と勝利し、ソ連との決勝もミュラーの2得点で3-0の完勝。西ドイツが圧倒的強さで欧州を制覇した。
本大会で4ゴールを記録したミュラーはW杯に続く得点王。ネッツァー、ベッケンバウアー、ヘーネス、パウル・ブライトナーらと一緒にベストイレブンに選出される。
ブンデスリーガでも72年から74年まで3季連続得点王に輝き、バイエルンのリーグ3連覇に大きく貢献。72-73シーズンはリーグ戦、国内カップ。欧州カップの公式戦66ゴールを挙げるという驚異的な記録を残した。そしてバイエルンは73-74シーズンのチャンピオンズカップで快進撃を続け、クラブ初となる決勝進出を果す。
アトレティコ・マドリードとのチャンピオンズカップ決勝は、延長120分を戦って1-1の引き分け。当時はPK戦がなかったため、2日後に再試合が行なわれた。再試合は前半28分にへーネスがゴールを決めてゲームをリードすると、後半56分、69分とミュラーが追加点。終盤の82分にはへーネスがダメ押し点を挙げ、4-0の圧勝。ついにバイエルンが欧州クラブの頂点に立った。
大会10試合で8得点を記録したミュラーは、ベスト8に終わった前年(11ゴール)続く連続得点王。稀代の点取り屋としての名声を世界に轟かせた。
74年6月、自国開催となるWカップ・西ドイツ大会に出場。地元優勝の期待を背負ったチームは無事に1次リーグ突破を果すも、注目された東ドイツ戦で敗れるなど内容は低調。頼みのミュラーもオーストラリア戦で1点を挙げたのみだった。
グループ2位で2次リーグに進んだ西ドイツは、ここから主将のベッケンバウアーを中心にチームを立て直し。2次リーグの第1戦では、難敵ユーゴスラビアをミュラーとブライトナーのゴールで2-0と撃破。続くスウェーデンとの第2戦は、4-2の逆転勝利で激戦を制した。
決勝進出を懸けた第3戦は、圧倒的な攻撃力で連勝を重ねるポーランドと対戦。雨中の試合はポーランドに主導権を握られるも、ラトーやガドハーのシュートを守護神マイヤーが必死のセーブで防いだ。そして0-0で迎えた後半76分、ボンホフからのパスをミュラーがすかさずゴール。1-0と接戦をモノにして決勝へと勝ち上がる。
決勝の相手は、クライフを軸とした「トータルフットボール」で大会に旋風を起こしたオランダ。試合は開始早々にニースケンスのPKで先制を許すが、25分に今度は西ドイツが得たPKをブライトナーが沈めて同点とする。
これで流れを引き寄せると、前半終了直前の43分、ボンホフのクロスにミュラーが反応。後方へトラップミスしたかに見えたが、バックステップしてからの素早い反転シュート。勝ち越しゴールが決まった。このあと西ドイツがオランダの反撃を凌ぎ、2-1の逆転勝利。西ドイツが20年ぶり2度目の優勝を地元開催で飾った。
W杯終了後、28歳での代表引退を発表。ミュラーのサッカー協会への不満が代表引退の引き金となったとされたが、すでにW杯決勝の時点でシェーン監督に「最後の試合」と告げていたとも言われている。
その代表の9年間で62試合に出場、68ゴールを挙げた。これは40年間ドイツ代表の通算最多記録を保持していたが、2014年にミロスラフ・クローゼに更新(136試合71ゴール)されることになる。
またW杯通算14ゴールも長らく大会最多得点記録をキープしたが、これもブラジルのロナウドに抜かれたのち、4大会出場のクローゼによって更新(16ゴール)されている。
代表引退後もバイエルンのエースとして活躍を続け、チャンピオンズカップ連覇やインターコンチネンタルカップ優勝に貢献。77年に北米リーグのニューヨーク・コスモスへ移籍したベッケンバウアーの後任として、チームのキャプテンも務めた。
しかし70年代後半からは椎間板ヘルニアなどの故障に苦しむようになり、78-79シーズンを最後にバイエルン・ミュンヘンを退団。15年を過ごしたチームで7度のリーグ得点王、4度のチャンピオンズカップ得点王に輝き、リーグ優勝4回、DFBポカール優勝4回、チャンピオンズカップ3連覇などに貢献。無名クラブ時代から黄金期を築いたバイエルンの支柱となった。
そのあと北米リーグに新天地を求め、フロリダ州のフォートローダーデールで活躍。チームメイトとしてジョージ・ベストとも競演を果した。ここで3シーズンを過ごし、82年8月、36歳でプロのキャリアを終える。
このあともフロリダに残り、米国移住を決意してミュンヘンに残した全財産を売却。フォートローダーデールで外国人観光客相手のステーキハウスを経営しながら、地元アマチュアクラブでのプレーを続けた。
だがステーキハウスでは看板としての接待役を余儀なくされ、退屈とストレスからその酒量は増える一方。84年4月には望郷の念に駆られ、店の経営権を親族に譲って西ドイツへ帰国する。だがその頃からアルコール依存症に苦しむようになり、仲の良かった妻とも喧嘩を繰り返す毎日。かつてのスター選手は仕事に就くこともなく、酒に浸る無気力な日々を送っていた。
そんな苦境にある男を救ったのは、ベッケンバウアーやへーネス、マイヤーといった仲間たち。元チームメイトの助けでリハビリを始めたミュラーは、ようやくアルコール依存の問題から抜け出すことができたのだ。
こうして平穏な日常を取り戻し、92年にはバイエルン・ユースのアシスタントコーチとして社会復帰。2014年まで同クラブ下部組織でのコーチ職を務め、若手の育成に尽力する。
15年10月には、アルツハイマー病の治療を受けるミュラーの近況をクラブが公表。そのあとヴォルフラーツハウゼンの老人ホームで余生を送り、21年8月15日の早朝、栄光に満ちた75年の人生に幕を降ろした。
22年、バロンドールを主催するサッカー専門誌『フランス・フットボール』が、彼の功績に敬意を表し同誌選定の「ストライカー・オブ・ザ・イヤー」を、「ゲルト・ミュラー・トロフィー」へと改称。その第1回受賞者となったのは、ミュラーの得点記録を次々と塗り替えたバイエルンのレバンドフスキーだった。