「疾走する少佐」フェレンツ・プスカシュ( ハンガリー/スペイン )
小柄ながら左足1本から放たれる強烈なシュートと、高い技術の足技で相手を圧倒したハンガリーの伝説的ストライカー。さらにゲームの流れを読む力とキャプテンシーを備え、正確なパスとクロスでチャンスを演出。軽やかさはないが常に全力プレーを怠らない姿で「疾走する少佐」と呼ばれたのが、フェレンツ・プスカシュ( Ferenc Puskás )だ。
1950年代前半に無敵の強さでヨーロッパを席巻したハンガリー代表「マジック・マジャール」のキャプテンを務め、不動の大黒柱として52年ヘルシンキ・オリンピック金メダルに大きく貢献。翌53年、サッカーの母国イングランドを聖地ウェンブリー・スタジアムで撃破した一戦は、世界に大きな衝撃を与えた。
しかし54年スイスW杯では優勝候補の筆頭と目されながら、西ドイツに敗れて準優勝に終わった。そのあと国内の動乱を逃れて、亡命したスペインのレアル・マドリードへ加入。レアルの王様アルフレッド・ディ・ステファノと強力なパートナーシップを築き、クラブの50~60年代黄金期を支える。
1927年4月2日、フェレンツ・プスカシュ(ハンガリー標記ではプスカシュ・フェレンツ)は首都ブダペストの労働者居住区でドイツ系の一家に生まれ、少年時代を近郊の小さな町キシュペシュトで過ごす。のちに「マジック・マジャール」のチームメートとなるヨーゼフ・ボジグとは近所の幼なじみで、小さい頃からボールを蹴って遊ぶ仲間だった。
36年、9歳のプスカシュは地元の少年チームにボジグとともに入団。少年チームでは元プロ選手だった父親の指導を受け、テニスボールを使ったドリブルやリフティングの練習に取り組む。こうして養われたボール感覚は、プスカシュの足技を躍的に向上させることになった。
43年には地元クラブのキシュペシュトに入団。戦時中だった当時は、働き盛りの男たちが戦場へ送られていたためクラブの選手層が薄く、16歳のプスカシュは早くも同年12月にトップチームデビュー。体が小さかったため「オクシ(弟)」の愛称で呼ばれた。
戦況の激化に伴い国内リーグは一時中断となるも、第二次大戦終了後の46年に本格再開。プスカシュは若くしてキャプテンを任され、監督を務める父親や僚友のボグジとともにチームを牽引。47-48シーズンには31試合50ゴールの活躍で初の得点王を獲得し、リーグ2位に導く。
49年、共産党政権となったハンガリー政府の代表強化方針により、キシュペシュトは陸軍チーム「ホンベド」に吸収合併される。新チームにはプスカシュやボグジの他、ジェラ・グロシチ、シャンドール・コチシュ、ゾルタン・チボール、ラースロー・ブダイら国内最高級の選手が集められた。
国内最強となったホンベドは、50年代半ばまでのリーグタイトルを独占。プスカシュは「怪物」と呼ばれた左足シュートで得点を量産し、同じインナーFWのコチシュと毎年のようにトップスコアラー争いを演じた。そしてキシュペシュト時代と合わせて、8年間で4度の得点王に輝く。
ハンガリー代表に初めて招集されたのは、終戦後間もない45年8月のこと。18歳にしてオーストラリア戦で初出場を果し、早くもゴールを記録してデビューゲームを飾った。
翌47年のルクセンブルク戦では初のハットトリックを記録。同年5月にはハンガリー代表がイタリア遠征を行い、当時隆盛を極めていた「グランデ・トリノ」の選手を中心に構成されたイタリア代表と2-3の好勝負。この試合で強い印象を残したプスカシュは、名門ユベントスから大金で入団を誘われたという。
49年に誕生した「ホンベド」を基板としたハンガリー代表は、グスタフ・セベシュ監督のもと連携を熟成させ、50年6月のポーランド戦から無敗の戦いを続ける。しかし優れたCFだったフェレンツ・デアークが政治的理由でチームから離脱。彼に代わるCFの人材は見つからなかった。
そこでセベシュ監督は当時の主流だった「WMシステム」から、CFを深い位置に引かせる「MMシステム」を採用。新システムにうってつけの人材として、MTKブダペストで活躍するナンドール・ヒデクチを抜擢する。
ヒデクチは囮の動きで深い位置まで下がってスペースをつくると、両インナーのプスカシュとコチシュを走らせゲームメーク。多くのチャンスが生まれた。こうしてハンガリー代表は新戦術を携え、52年のヘルシンキ・オリンピックに臨んだ。
トーナメント形式で行なわれた1回戦は、チボールとコチシュのゴールでルーマニアに2-1の勝利。2回戦もコチシュの得点などで強豪イタリアを3-0と撃破。準々決勝はプスカシュとコチシュがそれぞれ2ゴールを決め、トルコを7-1と粉砕。準決勝もプスカシュの先制点により、地元スウェーデンを6-0と圧倒。初出場のハンガリーが驚異の得点力で決勝進出を決めた。
決勝の相手は同じ共産国のユーゴスラビア。一進一退の攻防が続いた70分、前半でPKを外したプスカシュがドリブルで2人を抜いて先制点。終了間際にもチボールの追加点が生まれ、2-0の勝利。ハンガリー初の金メダルを獲得する。プスカシュはコチシュ(6ゴール)に続く4ゴールを挙げて金メダルに大きく貢献。ハンガリー国民の英雄となった。
金メダル獲得から4ヶ月後の53年11月25日、ハンガリー代表はFA創立90周年を記念するイングランドとの親善試合に招待される。
試合が行なわれたのは聖地ウェンブリー・スタジアム。イングランド代表はナショナルチーム結成以来の90年間にわたり、ホームでは大陸チームに負けたことがないという「不敗神話」を誇っていた。
しかし開始早々の90秒、ヒデクチのロングシュートでハンガリーが先制。一旦同点とされるも、20分にはプスカシュを起点にヒデクチのゴールで勝ち越し点。その2分後にもプスカシュが巧みな足技でキャプテンのビリー・ライトに尻もちをつかせて、3点目を叩き込む。
さらには、ボグジのFKをプスカシュがヒールで合わせて4点目。イングランドもどうにか2点を返すが、後半ボグジとヒデクチが追加点、「サッカーの母国」イングランドを6-3と撃破した。ハンガリーの放ったシュート35本に対してイングランドは僅か5本、英国の伝説的名手スタンリー・マシューズの姿も霞んでしまった。
この試合はBBCテレビで中継され、実況のアナウンサーは「なんと美しいボール捌き。これぞまさに “マジック・マジャール”(ハンガリーの魔術使い)だ!」と絶叫。その半年後にはブダペストでリターンマッチが行なわれるが、プスカシュの2ゴールなどでまたもイングランドを7-1と返り討ちにする。
こうしてハンガリー代表は、「マジック・マジャール」の異名で欧州を席巻。軽やかさはないものの、チームのリーダーとして常に全力プレーするプスカシュは、軍隊での階級をもじって英国メディアから「ギャロッピング・メジャー(疾走する少佐)」と呼ばれた。
54年6月、Wカップ・スイス大会が開幕。この4年間で26戦22勝4分けと無敵の快進撃を続けていたハンガリーは、優勝の最有力候補とみなされていた。
1次リーグの初戦は、プスカシュの先制点を皮切りにハンガリーの攻撃陣が爆発。初出場の韓国を9-0と粉砕する。ゲームを締めくくる得点もプスカシュだった。
続く第2戦は、控え選手主体で臨んできた西ドイツを8-3と圧倒。楽々とベスト8進出を決める。しかしエースのプスカシュが、相手の悪質なタックルを受けて右足くるぶしを負傷。次戦以降の欠場を余儀なくされてしまう。
大黒柱を失ってしまったハンガリーだが、準々決勝では「ベルンの戦闘」と呼ばれる激戦でブラジルを4-2と撃破。準決勝では前回王者のウルグアイと好勝負を演じ、延長で4-2の勝利。南米の2強を退け、ついに決勝へと勝ち上がった。
決勝の相手となったのは、1次リーグで力の違いを見せつけた西ドイツ。敗戦後の制裁が解けて国際舞台に復帰したばかりの西ドイツは、まったくのダークホースだった。プスカシュのコンディションはまだ万全ではなかったが、無理を押して出場する。
開始6分、コチシュのシュートの跳ね返りをプスカシュが押し込んでハンガリーが先制。その2分後には相手のミスを突いたチボールが追加点を挙げ、早くも2点をリード。この時点で観客の誰もがハンガリーの優勝を予想した。
だが直後の11分に1点を返され、18分にはフリッツ・バルターのCKからヘルムート・ラーンのシュートを浴びて失点。西ドイツの粘りに2-2で前半を折り返す。
試合は同点のまま終盤を迎え、84分には再びラーンがGKグロシチの右を豪快に抜いて西ドイツが逆転。その2分後、スルーパスに反応したプスカシュが倒れ込みながらネットを揺らすも、オフサイド判定により幻の同点ゴールとなってしまう。
ハンガリーはシュート25本(西ドイツは8本)と内容で圧倒しながら、ついに追いつくことが出来ず2-3の敗戦。無敗記録がストップするとともに、本命視されていたW杯優勝の栄冠を逃してしまった。
56年の秋、国民による全国規模の反体制デモに対し、ソ連軍が鎮圧に乗り出す「ハンガリー動乱」が勃発。このときホンベドはチャンピオンズカップ出場のためスペインへ遠征していたが、祖国の混乱により帰国を延期。南欧各地やブラジルで親善ツアーを行なって事態の推移を見守った。
だが正式な許可を受けずに敢行したツアーを、母国のサッカー協会が問題視し、チームに帰国を命令する。主将である自分への制裁が避けられないと悟ったプスカシュは、コチシュとチボールとともに亡命を決意。ここに「マジック・マジャール」は終焉を迎えた。
このあと妻子を伴ってイタリアに移り、インテル・ミラノ入りを目指すが、サッカー協会からの訴えによりFIFAから2年間の出場停止処分。インテルとの契約交渉はご破算となった。
その後出場停止処分は15ヶ月に軽減されるが、すでに30歳を迎えようとしていたプスカシュにオファーは届かなかった。希望を失いかけながらも、モナコ公国に近いサン・レモのアマチュアクラブでトレーニングを続けていた58年の夏、スペインの名門レアル・マドリードから契約の話が舞い込む。
かつてホンベドで財務部長を務めていた旧友のエミル・エステライヒャーが、亡命後にレアルで職を得て技術部長に就任。彼がプスカシュのために動いてくれたのだ。
1年余りのブランクで肥え太ってしまったロートル選手には懐疑の目が向けられたが、家族とともにマドリードへ渡ったプスカシュは6週間で18キロを減量。スペイン語も学んで新天地でのプレーに備えた。
すると1年目の58-59シーズンから、24試合21ゴールと低評判を跳ね返す活躍。プスカシュはレアルの王様であるディ・ステファノと競演し、チーム内の地位を確立する。依然お腹は出ていて「疾走する少佐」の面影はなかったが、マドリスタは親しみをこめて彼を「パンチョ」と呼んだ。
そして翌59-60シーズンも、24試合で25ゴールを挙げて初のリーガ得点王。チャンピオンズカップでも得点を重ね、チームを5季連続の決勝に導く。
決勝の相手はドイツのアイントラハト・フランクフルト。開始18分に先制を許すも、27分、30分とディ・ステファノが立て続けにゴールを決めて逆転。前半終了間際にもプスカシュの左足から追加点が生まれる。
さらにプスカシュは56分にPKを沈め、60分にはハットトリックを達成。72分にはパコ・ヘントのクロスに頭で合わせて4点目。フランクフルトに2点を返されるも、73分にはディ・ステファノのゴールが生まれてプスカシュとのダブルハットトリックを達成。両雄が叩き出した全7得点で、レアルはチャンピオンズカップ5連覇の偉業を成す。
通算ゴールを12まで伸ばしたプスカシュは大会得点王。8得点を挙げたディ・ステファノとともに優勝の立役者となった。この年のバロンドールでは最有力候補と目されたが、その栄誉はインテル・ミラノの中心選手であるルイス・スアレス・ミラモンテスの手に渡る。賞を逃したのは、共産国の選考委員からの支持を得られなかったためだと言われている。
レアルでは4度の得点王に輝き、60-61シーズンからのリーガ4連覇に貢献。61-62シーズンのチャンピオンズカップ決勝では、2年前に続くハットトリックを記録するが、エウゼビオ擁するベンフィカに逆転負けを喫して準優勝に終わる。
それでも65-66シーズンのチャンピオンズカップで6季ぶりの優勝を果し、これを置き土産に39歳で現役を引退する。
また61年にスペイン国籍を取得したプスカシュは、同国代表に選ばれて62年のW杯チリ大会に出場。1次リーグの3試合に出場するも、スペインは1勝2敗の最下位で敗退。これを最後に代表から退く。チリ代表では4試合に出場(0得点)した。
その前のハンガリー代表の12年間では、85試合に出場して84ゴールという驚異的な記録を残す。これはコチシュの75得点を引き離し、同国代表の歴代通算最多得点を維持している。
引退後は指導者の道に進み、スペイン、北米、ギリシャなど各クラブの監督を歴任。71年にはパナシナイコスを率いてチャンピオンズカップの決勝に導くが、クライフ擁するアヤックスに敗れて準優勝に終わる。
81年には故国ハンガリーの祝典に招かれ、25年ぶりの凱旋帰国。国民から熱狂的な歓迎を受け、名誉を回復する。そしてソ連邦崩壊後の92年にスペインを離れて帰郷。ハンガリーサッカー協会から名誉職的なポストを与えられ、レジェンドとしての余生を送った。
晩年はアルツハイマー病を患い、06年11月17日、肺炎によりブダペストの病院で死去。享年79歳だった。