《 サッカー人物伝 》 フェレンツ・プスカシュ

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「疾走する少佐」  フェレンツ・プスカシュ ( ハンガリー / スペイン )

1950年代前半に無敵の強さでヨーロッパを席巻、「マジック・マジャール(魔法を使うマジャール人)」と呼ばれ、恐れられたハンガリー代表チーム。その象徴的存在が、インナーFWのフェレンツ・プスカシュ( Ferenc Puskás )である。

172㎝の小柄ながら、左足1本から放たれる強烈なシュートと、高い技術の足技で相手を圧倒したプスカシュ。さらに彼はゲームの流れを読む力と高いキャプテンシーをも備えた、史上最強チーム「マジック・マジャール」のまさに中心選手だった。

ウエンブリー・スタジアムでイングランド対ハンガリーの試合を取材したイギリスの新聞記者は、軽やかとは言えないが常に全力疾走を怠らないプスカシュを、「ホンベド」という陸軍チームのキャプテンであることから「ギャロッピング・メジャー(疾走する少佐)」と形容し、目を見張った。

最強チームの形成

1927年4月2日、ハンガリーの首都ブダペストに生まれたプスカシュは、少年時代を近郊の小さな町キシュペストで過ごした。のちにマジック・マジャールでともに主力となるボジグとは幼なじみで、二人でボールを蹴り合って遊んでいたようだ。

36年、プスカシュは9歳で地元の少年チームにボジグとともに入団。少年チームでは元プロ選手だった父親の指導を受け、テニスボールを使ったドリブルやリフティングの練習に取り組む。こうして養われたボール感覚は、プスカシュの足技を躍的に向上させることになった。

43年、16歳で地元クラブのキシュペストに入団する。そして戦争が終わり、46年に国内リーグが再開。プスカシュはチームのキャプテンを任され、47-48シーズンには初のリーグ得点王に輝くと、その後も3度の得点王を重ねてゆく。

49年、共産党政権となったハンガリー政府の方針で、キシュペストは陸軍のチーム「ホンベド」に吸収合併。このチームにはプスカシュやボグジの他、グロシチ、コチシュ、チボール、ブダイら代表級の選手が軍の一員として集められた。

ハンガリー代表監督のクスダグ・セベシュはこの「ホンヘド」を基盤にナショナルチームを編成、MTKブダペストのCFヒデクチを加えた新フォーメーション、MMシステム(マジック・マジャールのMMでもある)を構築した。

強力なタレントを擁し、新戦術をつくり上げたハンガリー代表。50年6月のポーランド戦から無敗の快進撃が始まり、52年のヘルシンキ・オリンピックではイタリア、スウェーデン、ユーゴスラビアなどの強豪を下して優勝。たちまちその名を世界に轟かせることになった。

「マジック・マジャール」の伝説

そして「マジック・マジャール」が伝説となったのは、53年11月25日に聖地ウエンブリー・スタジアムに招かれて行われたイングランドとの親善試合。ナショナルチーム結成以来90年間の長きにわたり、ホームでの不敗神話を保ってきたイングランド代表。だが無敵の「マジック・マジャール」は、この不敗神話をいとも簡単に打ち破って見せたのだ。

ハンガリーは開始早々の90秒、ヒデクチのロングシュートで先制。一旦同点とされた20分にプスカシュ、チボール、コチシュとボールが渡り、最後は再びヒデクチのゴールで勝ち越し点を挙げた。その2分後にもプスカシュが巧みな足技でキャプテンのビリー・ライトに尻もちをつかせて、3点目を叩き込む。

さらには、ボグジのFKをプスカシュがヒールで合わせて4点目。イングランドもどうにか2点を返すが、後半ボグジとヒデクチが追加点、「サッカーの母国」イングランドを聖地ウエンブリーで6-3と撃破した。ハンガリーのシュート3本に対してイングランドは僅か5本、名手スタンリー・マシューズもなすすべなく、この試合の結果は世界中を震撼させた。

その半年後の54年5月、イングランドが再戦を申し込み、両チームはブダペストで対戦。ハンガリーはイングランドを7-1と返り討ちにし、この年に開かれるWカップ・スイス大会の、揺るぎない優勝候補と目されるようになった。

その評判通り、1次リーグで圧倒的な強さを見せるハンガリー。しかしキャプテンのプスカシュが西ドイツ選手の悪質なタックルを受け負傷、続く試合の欠場を余儀なくされてしまった。それでも決勝へ勝ち進んだハンガリー、プスカシュも強行出場するが、因縁の西ドイツに2-3と惜しくも敗戦。優勝を逃したばかりか、4年間の連勝記録も途絶えてしまう。

レアル・マドリードでの活躍

Wカップ後もその強さは相変わらずのハンガリー代表だったが、56年10月23日にハンガリー動乱が発生。ソ連軍による反体制派への鎮圧が始まると、たまたまチャンピオンズ・カップ出場で遠征中だったホンベドは帰国を見合わせることになる。

この間チーム内の意見は別れたが、プスカシュ、コチシュ、チボールが亡命を決意。西側のクラブでプレーする道を探ることになった。さしもの隆盛を誇った「マジック・マジャール」も、こうして消え去ってしまったのである。

ハンガリー協会の提訴で1年余りの出場停止処分を受けたプスカシュは、拘束が解けた58年にレアル・マドリードと契約を交わす。レアルにはディ・ステファノという王様が君臨していたが、プスカシュは引き立て役に廻り、彼と良いコンビネーションを築くことに腐心した。

レアル加入当時は、ピークを過ぎた選手とあまり周囲の期待は高くなかった。しかし2年目の59-60シーズン、プスカシュは24試合に出場して26ゴール、スペインで初めての得点王に輝く。同年のチャンピオンズ・カップ決勝では4得点を挙げ、レアル大会5連覇の立役者となった。

当然バロンドールの最有力候補と目されるようになったプスカシュだが、結果はルイス・スアレス・ミラモンティス(スペイン)の受賞となった。ホンベドでは軍人の地位にあったプスカシュ。亡命で脱走者と見なされたことが、バロンドールの投票に影響を及ぼしてしまったのだ。

ハンガリーへの回帰

61年にスペイン国籍を取得。同年のWカップ予選、モロッコとのプレーオフでスペイン代表へのデビューを果たした。62年のWカップ・チリ大会にもメンバーに入り、1次リーグ3試合すべてに出場している。

67年に40歳で現役引退し、その後は指導者として活躍。71年にはギリシャのパナシナイコスの監督として、チャンピオンズ・カップでチームを準優勝に導いている。92年、民主化を果たしたハンガリーへ帰国、故郷で晩年を過ごした。

06年、肺炎によりブダペストで死去。享年79歳だった。09年には、FIFA主催の大会で最も優れたゴールを決めた選手を対象とする、「FIFAプスカシュ賞」が制定されている。

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