ロマン・ポランスキーとシャロン・テート事件




クエンティン・タランティーノ監督『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のモチーフとなっていたシャロン・テート事件。この映画にはシャロン・テートの夫、ロマン・ポランスキー監督も登場していたが、出番は少なくその扱いもどこか冷淡だった。

事実ポランスキーは一流の映画作家として評価される一方、性犯罪者として世界中の女性やフェミニストから非難を受け続けている人物。タランティーノもその立場から、突き放した感じでポランスキーを描いているようだ。

最近も女性から性被害の告発が相次ぐなど評判の悪さは相変わらず、ついには映画芸術アカデミーから18年に除名されてしまった。芸術的評価と人間的評価が相半ばし、その人間性が捉え難くなってしまったポランスキー監督。彼が抱える心の闇には、かなり複雑なものがあるとされている。


ポランスキーは1933年8月18日にパリで生まれ、3歳の時にユダヤ人の両親に連れられポーランドに移る。だが、やがてナチスドイツがポーランドを侵攻、41年には両親が強制収容所へ連れ去られてしまう。当時8歳だったポランスキーは運良く難を逃れるが、そのあとの数年間は死の恐怖に脅える逃亡生活を送ることになる。

母はアウシュビッツで殺されてしまったが、強制労働をさせられていた父とは終戦後に再会。ポランスキーは勉学に励む一方14歳で舞台に立ち、19歳でポーランド・フィルム学校へ入学した。そこを59年に卒業するまで多くの映画に俳優として出演し、またドキュメンタリー作品も手がけた。

卒業後も短編を撮り続けたあと、33歳の時に初の劇映画『水の中のナイフ』(62年)を監督する。人間の中に棲む不条理と疎外感をテーマにしたこの作品は高い評価を受け、ヴェネチア映画祭の批評家賞に輝きく。こうしてポランスキーは、国外から注目される監督となった。

だが共産党政権のポーランドでは作品が黙殺されてしまったことで、国を出奔、それからは西欧やアメリカで映画を撮るようになる。これ以降彼は根無し草となり、放浪の映画人生を始めることになるのだ。

65年に『反撥』、66年には『袋小路』のサイコ・スリラーを発表。これらの作品は斬新な映像と独特の恐怖感覚がうけ、2作続けてベルリンの国際映画賞を受賞。ポランスキーはたちまち気鋭の新進監督として知られるようになった。

67年には『吸血鬼』を監督。そしてこの映画のカメラテストを受けに来たのが、当時24歳のシャロン・テートだった。ポランスキーはシャロンをヒロインに抜擢、すぐに愛し合う仲となり、撮影中はずっと一緒の生活を送った。

二人は68年に結婚。同年にはハリウッド映画の『ローズマリーの赤ちゃん』を撮るため、ロサンゼルス郊外に移り住んだ。新感覚ホラーの『ローズマリーの赤ちゃん』は大当たり、ポランスキーは人生の絶頂期を迎える。そんなときに彼を見舞った悲劇が、シャロン・テート殺人事件である。

69年8月9日、シャロンは友人たちをロサンゼルス郊外の邸宅に招き、パーティーを楽しんでいた。夫のポランスキーは脚本執筆のためロンドンに滞在中、この日は不在だった。そのパーティーの最中に、狂信的なヒッピー集団、“マンソンズ・ファミリー” の若い娘3人が邸宅に押しかけ、シャロンたちを襲う。

翌朝、警察に発見された現場は、まさに凄惨の一言だった。シャロンは背中と胸をめった刺しにされ、えぐられていた。その上、1本のナイロン・ロープの端に首を巻き付けられ、元恋人の友人とともに天井から吊り下げられていたのだ。

庭の芝生の上には別の男女2人の死体が、さらに車の中にも男の死体が転がっていた。そのうち何人かは手足をもぎ取られ、玄関のドアには被害者の血による「豚は死ね」の文字が書きなぐられていた。この時シャロンは妊娠8ヶ月、殺される寸前まで必死に命乞いをしたという話も伝わっている。

この事件は狂信ファミリーのリーダーであるチャールズ・マンソンが、ハリウッドの音楽プロデューサー、テリー・メルチャーを逆恨みしたことから起きた惨劇だった。シャロンたちが殺された邸宅は、以前メルチャーが暮らしていた邸宅。マンソンはメルチャーが既に引っ越していたのを知っていながら、たまたまそこに住んでいたシャロンを見せしめにしたのだ。

この悲報を知らされたポランスキーは茫然自失の状態となり、しばらく活動を休止することになる。一説ではこの時のトラウマが少年時代の悪夢を蘇らせ、彼の中に潜む魔性を呼び起こしたと言われている。

事件後しばらくアメリカを離れるが、ハリウッドに呼ばれて74年にジャック・ニコルソン主演の『チャイナタウン』を監督。この作品はアカデミー賞の10部門にノミネートされるなど高い評価を受け、ポランスキーの復活を印象づけることになった。

だが77年、ポランスキーはジャック・ニコルソンの宅で、雑誌掲載の写真を撮ると偽り13歳の少女を部屋に招き入れ、猥褻行為と麻薬を強要したという容疑で逮捕される。一旦容疑を否認するポランスキーだが、その後認めて保釈。そのままアメリカ国外に逃げ出してしまった。

78年にフランスに渡り市民権を獲得、79年には文芸作品『テス』を監督した。ポランスキーは『テス』に主演したナスターシャ・キンスキーと、彼女が15歳の頃から性的関係を結んでいたと言われている。

89年にはフランスの女優、エマニュエル・セニエと結婚するが、その後も未成年時にポランスキーとの性的関係を強要されたという被害女性の告発が続いた。02年には『戦場のピアニスト』でカンヌ国際映画祭のパルムドールとアカデミー賞の監督賞に輝くが、この受賞には多方面から異議の声が上がることになる。

そして86歳となった今年2月、ポランスキーの新作『ジャキューズ』がフランスの映画賞「セザール賞」にノミネートされた。これに対し女性の権利団体が猛反発、ついにはフランスの文化省が介入し、事の解決が図られる事態となった。

いつまでもお騒せ現役のポランスキー監督、当然ながら『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』における自身の描かれ方にも、妻のエマニュエルともどもかなりご不満の様子である。

シェアする

フォローする

スポンサーリンク