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《 サッカー人物伝 》 ジョージ・ウェア

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「プレジデント・ストライカー」ジョージ・ウェア(リベリア)

西アフリカの大西洋に面する小さな共和国リベリア。長年の内戦により疲弊したリベリアで国民の期待を受け、18年から現職の大統領を務めているのが、90年代にヨーロッパで活躍した伝説的なプレイヤー、ジョージ・ウェア( George Manneh Oppong Ousman Weah )である。

飛び抜けた身体能力と強靱なフィジカルを武器とし、「リベリアの怪人」と呼ばれたウェア。フィールドでも空中戦でも競り合いに負けることがなく、技術とアイデアを生かしたプレーもハイレベルだった。

弱小国の出身であるが故にワールドカップなど代表で目立つ実績はほとんど無かったが、クラブレベルでの素晴らしいパフォーマンスが評価され、バロンドールやFIFAの年間最優秀選手賞などの個人賞を獲得している。

そして名声と経済力を得たウェアは故郷に学校を開設。祖国の子供たちが勉学やサッカーに励む環境づくりへ熱心に取り組み、リベリア国民から愛され、信頼されるようになった。

アフリカの小国からヨーロッパへ

ウェアは1966年10月1日、リベリアの首都・モンロビア近くの貧しい村で生まれた。幼少の頃からサッカーに親しんだが、身体が大きく運動能力にも優れていた彼からボールを奪えるような子供は、誰一人いなかったという。

13歳で地元のチームに入団するが、最初彼に与えられたポジションはGKだった。フィールド・プレイヤーになりたかったウェアはゴールマウスを守りながら不満を募らせ、ついには首脳陣に直訴してDFへコンバートされることになる。

最終ラインから前へ前へと向かう姿勢を見せると、次第にポジションは中盤、FWと上がっていった。そしてプロとなった85年、18歳の時に31試合に出場して30ゴールを挙げ、ストライカーとしての才能を開花する。リベリア1部リーグでの活躍が認められたウェアは、87年にはカメルーン・リーグのトネール・オブ・ヤウンデに移籍した。

ヤウンデはあのロジェ・ミラも所属した、アフリカの名門クラブ。88年には並外れたプレーで「オッポン(スーパー)」と呼ばれるようになり、リーグ制覇の中心的存在となる。その彼に目を付けたのが、リーグ・アンのASモナコだった。

ついに、ウェアは欧州クラブへの移籍を果たす。そしてモナコの監督アーセン・ベンゲルは、生活環境が激変し戸惑うウェアをサポートし、ヨーロッパで活躍するフィールドを開いた。ベンゲルによって能力を引き出されたウェアは、攻撃・守備・ゲームメイクとプレーの幅を広げ、チームにフランス・カップ優勝をもたらすことになる。

ミランからのスカウト

こうしてキャリアを積んだウェアは、92年にリーグ・アンの古豪パリ・サンジェルマンへ移籍する。ベンゲルは95年に名古屋グランパスの監督となるが、彼のもとに全盛期のウェアが挨拶に訪れ、グランパスの選手たちを驚かせたという話がある。

ウェアはパリSGでもその実力を発揮、93年のフランス・カップ優勝、94年のフランス・リーグ優勝にも貢献した。そして彼の名を世界的プレイヤーとして確立させたのは、94-95シーズンのチャンピオンズ・リーグだった。

パリSGはウェアの活躍で、チャンピオンズ・リーグ予選を10戦全勝。そして準々決勝ではクライフ監督率いるFCバルセロナを撃破、準決勝でACミランに敗れるも、その勢いは世界から注目される。トリッキーなドリブルで相手を抜き去り、スピーディーかつ力強い突破を見せるウェアのプレーも圧巻の一言だった。

そんなウェアの活躍を目のあたりにして、獲得に動いたのは対戦相手のACミランだった。80年代後半に黄金期を築いたミランだが、93年にオランダ・トリオが抜けると攻撃力が低下、94-95シーズンのスクデットを逃していた。ミランはファン バステンの後釜として、ウェアに白羽の矢を立てたのだ。

伝説のドリブル弾

アフリカでプロ選手となって10年、とうとう世界最高峰のクラブにたどり着いたウェア。そして95年のシーズン途中、彼に「バロンドール賞」受賞の報がもたらされる。これまでヨーロッパ国籍の選手のみに与えられてきたバロンドールだが、この年から規約が改正されていた。つまりヨーロッパ国籍以外の選手としては、ウェアが初めての受賞となったのだ。

さらにはFIFAのMVPにも選ばれ、3度目となるアフリカ最優秀選手賞も獲得。この年の個人タイトルを総なめにし、名実ともに世界最高のプレイヤーとなる。

そのあとウェアはセリエAでもその力を遺憾なく発揮し、ミラン95-96シーズンのスクデット奪還に寄与した。そして翌96-97シーズン9月の開幕戦、ベローナを相手にミラニスタの度肝を抜くようなプレーが生まれる。

ウェアは自陣深い場所で相手のボールをカットすると、スピードに乗ったドリブルで突進。センターサークルで相手2人をターンでかわし、目の前に立ち塞がるDFも「一人スルーパス」のスピードで抜き去り、最後は右足を振り切ってゴールネットを揺らした。ウェアは80mを豪快に独走、のちのち伝説として語られるドリブル弾だった。

ミランには5年間在籍。00年にプレミアリーグのチェルシーへ移籍した後、数クラブを渡り歩き03年に37歳で引退した。引退後はアメリカで暮らしながらユニセフ大使も務め、人道的なプロジェクトに関わって、様々な国際機関で信頼を築き上げた。

ミスター・プレジデント

05年にはリベリアの大統領選挙に立候補。このときは女性候補のサーリーフに敗れるが、ウェアは故郷に戻り、本格的な政治活動を始める。そして上院議員としてキャリアを重ね、17年に大統領戦へ再挑戦。決選投票を制し、ついに51歳でリベリア大統領に選ばれた。

国民の期待は大きいウェアだが、その手腕が本物かどうかの評価はまだこれから。ちなみにジョージ・ウェアの20歳の息子ティモシー・ウェアは、アメリカの代表経験があるサッカー選手である。

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