スポンサーリンク
スポンサーリンク

《 サッカー人物伝 》 ジョージ・ウェア

スポンサーリンク
スポンサーリンク

「リベリアの怪人」ジョージ・ウェア(リベリア)

抜群の身体能力に加え、優れたテクニックや戦術眼も備えたハイスペックのストライカー。FWだけでなく、ゲームメーカーやリベロもこなす万能ぶりで世界を驚かせた。その破壊的なパワーと常人離れした突破力で「リベリアの怪人」と呼ばれたのが、ジョージ・ウェア( George Manneh Oppong Weah )だ。

西アフリカの小国リベリアに生まれ、カメルーンのトネール・ヤウンデを経て88年にフランスのASモナコ入り。ここでアーセン・ベンゲル監督の薫陶を受け、トッププレーヤーとして覚醒。その後移籍したパリ・サンジェルマンやACミランでもスーパーゴールを決めるなど活躍し、95年にはバロンドールとFIFA年間最優秀選手賞をダブル受賞する。

小国出身のためW杯の大舞台でその雄姿を見ることはできなかったが、そのリーダーシップと母国への貢献でリベリア国民の尊敬を集めた。引退後は政治家に転身し、2度の大統領選を戦ったのち2017年に当選。現職の国家元首としての重責を担い、リベリアの発展に尽力している。

アフリカ小国のサッカー選手

ウェアは1966年10月1日、大西洋に面する西アフリカの小さな共和国、リベリアの首都・モンロビア近くの貧しい村で生まれた。両親と兄弟・姉妹合わせて13人という大家族だったが、ジョージがまだ小さい頃に機械工だった父親が死去。母親とも別れ、残された子供たちはブッシュロッド島にあるマングローブ湿地の上へ建てられた小屋に、父方の祖母のもとで育てられた。

少年時代のウェアは、ポップコーン売りや空きビン拾いなどをして家計を助けながら、手製によるぼろきれボールを使ってのストリートサッカーに熱中した。すでにこの頃から身体が大きく、運動能力にも優れていた彼からボールを奪えるような子供は誰一人いなかったという。

13歳で地元クラブのヤング・サバイバーズに入団。最初彼に与えられたポジションはGKだったが、自ら志願してフィールドプレーヤへ転向。当初はDFを務めるも、最終ラインから前へ前へと向かう姿勢を見せると、次第にポジションは中盤、FWと上がっていった。

そして18歳となった85年には、強豪マイティ・バロルへ移籍。31試合に出場して30ゴールを挙げ、85-86シーズンの国内リーグと国内カップ優勝の2冠に大きく貢献。その活躍が認められ、86年には名門インビンジブルス・イレブンに移籍。大手電気通信会社で電話技師として働きながら、セミプロとしてプレーした。

それまでまともなコーチングを受けたことのなかったウェアだが、ここで徹底的に鍛えられてトッププレーヤーへと成長。86-87シーズンのリーグ優勝に貢献すると、87年にはカメルーンのトネール・ヤウンデからスカウト。20歳にして念願のプロ契約を交わす。

トネール・ヤウンデは、あのロジェ・ミラも所属したアフリカの名門クラブ。ウェアは並外れたプレーで「オッポン(スーパー)」と呼ばれるようになり、リーグ制覇の中心的存在となる。その活躍に目を付けたのが、当時カメルーン代表を率いていたフランス人監督のクロード・ルロワだった。

ルロワ監督はウェアの持つ高い能力を評価し、旧知の間柄であったアーセン・ベンゲル監督に紹介。ウェアに興味を示したベンゲルはすぐさまカメルーンに飛び、自ら監督を務めるASモナコに引き抜き。それまで欧州の舞台など夢にすぎなかった小国のサッカー選手が、22歳にして子供時代からの野心を叶える機会を得た。

フランスでの成功

88年8月、AJオーセル戦でディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)デビュー。慣れないフランスでの生活環境に戸惑うウェアだが、ベンゲル監督のサポートに助けられて、1年目の88-89シーズンから公式戦38試合17ゴールの好成績を残した。

ベンゲル監督によって多彩な能力を引き出されたウェアは、攻撃・守備・ゲームメイクとプレーの幅を広げ、90-91シーズンには公式戦40試合18ゴールの活躍。クープ・ドゥ・フランス(フランスカップ)優勝のタイトル獲得に貢献する。

翌91-92シーズンも公式戦47試合23ゴールの大活躍。ウェア、プティ、テュラムジョルカエフらのタレントを擁するモナコは、欧州カップウィナーズ・カップの決勝に進出。決勝ではヴェルダー・ブレーメン(ドイツ)に敗れるも、ウェアは大会4得点を挙げて準優勝に寄与した。

それらの活躍により、92年の夏にはフランスの名門パリ・サンジェルマンへの移籍を果す。ウェアは新チームでもその実力を発揮。92-93シーズンは公式戦45試合23ゴールの活躍でパリSGにクープ・ドゥ・フランスのタイトルをもたらすと、翌93-94シーズンは公式戦40試合14ゴールの成績でリーグ優勝に貢献する。

その働きは点取り役に留まらず、オフェンスにディフェンスにとピッチを縦横無尽。94-95シーズンも公式戦53試合18ゴールと活躍し、クープ・ドゥ・フランス優勝に大きな役割を果す。そして彼の名を世界的プレイヤーとして認知させたのは、この年のチャンピオンズリーグだった。

ウェアによる6ゴールの活躍で、パリSGはCL予選を6戦全勝。敵地で行なわれたバイエルン・ミュンヘン戦では、相手守備陣を次々とかわしてゴールへ迫り、最後は名手オリバー・カーンの牙城を破る強烈なシュート。バイエルンサポータを驚嘆させた。

そして準々決勝では、クライフ監督率いるFCバルセロナをウェアのアウェーゴールで撃破。準決勝でACミランに敗れるも、計7ゴールを挙げて大会得点王を獲得。トリッキーなドリブルで相手を抜き去り、力強い突破を見せる姿は「リベリアの怪人」と呼ばれ、世界の注目を集めた。

そんなウェアの活躍を目のあたりにして、獲得に動いたのは対戦相手のACミランだった。80年代後半に黄金期を築いたミランだが、93年に「オランダ・トリオ」が抜けると攻撃力が低下。94-95シーズンのスクデットを逃していた。ミランはファン バステンの後釜として、怪人ウェアに白羽の矢を立てたのだ。

アフリカ人初のバロンドーラー

アフリカでプロ選手となって10年、とうとう世界最高峰のクラブにたどり着いたウェア。そして95年のシーズン途中、彼に「バロンドール」受賞の報がもたらされる。

それまでヨーロッパ国籍の選手のみに与えられてきたバロンドールだが、この年から世界中の選手が対象になるよう規約が改正。アフリカ出身の選手としてはエウゼビオ(国籍はポルトガル)に続く2人目、ヨーロッパ国籍以外ではウェアが初めての受賞となった。

さらにはFIFAの年間最優秀選手賞にも選ばれ、3度目となるアフリカ最優秀選手賞も獲得。この年の個人タイトルを総なめにし、名実ともに世界最高のプレイヤーと認められる。

そのあとウェアはセリエAでもその力を遺憾なく発揮し、ミラン95-96シーズンのスクデット奪還に寄与した。そして翌96-97シーズン9月の開幕戦、ベローナを相手にミラニスタの度肝を抜くようなプレーが生まれる。

自陣深くに相手のボールをカットすると、スピードに乗ったドリブルで突進。センターサークルで相手2人をターンでかわし、目の前に立ち塞がるDFも「ひとりスルーパス」のスピードで抜き去った。そして最後は右足を振り切り、豪快にゴールネットを揺らす。ウェアは80mを豪快に独走、今も伝説として語り継がれるドリブル弾だった。

同年には「FIFAフェアプレー賞」を授与されるが、直後に行なわれたCLのポルト戦。相手DFの人種差別的挑発に怒り、頭突きで鼻骨骨折の重傷を負わせるという騒動。ウェアには6試合の出場停止処分が課せられた。

母国の英雄

リベリア代表には、86年2月のシエラレオネ(リベリアの隣国)戦で19歳にしてデビュー。翌87年1月に自国で行なわれた西アフリカ・ネイションズカップのナイジェリア戦で、初ゴールを記録する。

大会はウェアが5試合3ゴールと活躍し、開催国リベリアが準優勝の好成績。人口500万人の小国リベリアでは、唯一と言っていい国際大会の実績となった。

しかしその後のW杯アフリカ予選や、アフリカ・ネイションズカップ(AFCONアフコン)予選では敗退を重ね、世界的ストライカーであるウェア(代表ではリベロ)が大舞台に登場する機会は訪れなかった。

それでも94年9月から始まったAFCON予選では、ウェアがリーダーとしてチームを引っ張り、みごと予選グループを2位突破。リベリア初となるAFCON本大会への出場を果す。

96年1月に行なわれたAFCONの開催地は、リベリアから遠く離れた南アフリカ共和国。ウェアは予算の乏しいサッカー協会に代わり、大会参加への費用を負担した。リベリアは初めてのAFCONでグループ敗退となったものの、ガボン戦で勝利を挙げるなど健闘する。

リベリアで国民の英雄となったウェア。10年も内戦が続く母国の混乱を憂い、積極的な政治的発言も行なうようになっていた。だがそのことが国の独裁者チャールズ・テイラーから疎まれる要因となり、故郷に建てた自宅を焼き討ちされることもあった。それでもウェアは怯むことなく、リベリア国民に向けての人道的発信を続けた。

怪人の現役晩年

98-99シーズン、ミランの3季ぶりとなるリーグ優勝に貢献。だがザッケローニ監督のもとで出場機会は次第に減少し、99-00シーズンは新たに加入したシェフチェンコのリザーブ要員に降格。これに不満を抱いたウェアは、シーズン途中の2000年1月、イングランドのチェルシーへ期限付き移籍をする。

途中加入のチェルシーでは、FAカップ優勝に貢献するなどそれなりの結果を残すも、シーズン終了後に契約終了。2000年の夏には、同じくイングランドのマンチェスター・シティーへ完全移籍する。

しかしシティーではレギュラーの座を掴めず、シーズン途中に退団。このあとフランスに戻ってオリンピック・マルセイユと契約。ここで後半シーズンを過ごし、01年の夏にはUAEのアル・ジャージラへ移籍した。

2000年6月から始まったW杯アフリカ予選では、小国リベリアが強豪ナイジェリアを打ち破るなど大健闘。初のW杯まであと一歩のところまで迫るが、勝点1差で及ばず無念のグループ予選敗退。悲願のW杯出場は叶わなかった。

それでも2002年1月(マリ開催)に行なわれたAFCONでは、3大会ぶり2度目の出場。プレーイング・マネージャーを務めたウェアは初戦のマリ戦でゴールを記録するも、チーム成績は2敗1分けに終わりグループ敗退。大会終了後、35歳での現役引退を発表する。18年の代表歴で75試合に出場、18ゴールの記録を残した。

リベリアのミスター・プレジデント

引退前からアメリカのニューヨークやロサンゼルスに居を構え、現役時代から務めていたユニセフ親善大使として活動。 このときジャマイカ出身の妻との間に生まれたのが、現米国代表選手のティモシー・ウェア(3人兄姉の末っ子)である。ティモシーは2022年のカタールW杯に出場。G/Lのウェールズ戦で得点を挙げ、父親の届かなかった夢を叶えた。

03年に独裁者チャールズ・テイラーが失脚すると、ウェアはリベリア大統領選出馬のため、05年に出身地のモンロビアへ帰郷。第1回投票では最多得票を集めるも、決選投票で女性政治家のサーリーフに敗北する。09年には再びリベリアへ帰国。11年には副大統領候補として現職大統領のサーリーフに挑むが、またも敗れてしまった。

14年には上院議員選挙に初当選。ここで政治家としての実績を積み、17年には2度目となる大統領選へ出馬。サーリーフのもとで副大統領を務めていたジョゼフ・ボーカイを破り、リベリアの第25第大統領に就任する。

現在も大統領を務めるウェアは、サッカー選手時代に培った人脈を活用し、外交課題と国内問題の解決に取り組んでいる。

タイトルとURLをコピーしました