1968年のメキシコ・オリンピックで日本が銅メダルを獲得すると、その立役者となった釜本邦茂や杉山隆一には海外からのオファーが殺到したという。しかし当時日本にサッカーブームが起こった中で、スター選手が海外リーグへ流出してしまうなど許される時代ではなかった。
それから約10年がたち、日本サッカー界は「冬の時代」と言われる長い低迷期を迎えていた。そんな閉塞の時代に欧州へ渡り、当時世界最高峰と言われたブンデスリーガで一線級の活躍を見せたのが、「日本人プロ第一号」選手となった奥寺康彦である。
奥寺はブンデスリーガに在籍した9シーズンで234試合に出場、26ゴールを記録した。精度の高いパスとシュートや、戦術に即した正確なプレーで「東洋のコンピューター」と呼ばれ、猛者の揃う西ドイツでもその存在感を見せた。
そして一つのクラブで2つしかない外国人枠の厳しい競争を生き抜き、34歳までレギュラーとして活躍し続けたのである。
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