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時代の足跡、ATG映画

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ATGの役割

かつて日本にはATGという映画会社があった。正式名称は日本アート・シアター・ギルド( Art Theater Guild )。主に非商業映画と呼ばれるアート系の作品を製作・配給してきた会社である。

劇場でしか映画を観られなかった60年代。良質だが芸術性が高く一般の映画館ではあまり上映されることのなかった外国作品を、日本の映画ファンはATGの配給で観ることが出来たのである。

さらに60年代後半に入ると、作家性の高い独立プロの監督に作品を発表する場を与え、衰退期を迎えていた日本映画界に刺激を与えることになったのがATGの活動だった。

芸術映画の専用劇場

ATGは61年11月11日に創立、翌年から本格的に映画上映を始めた。創立の推進者は東和映画の社長だった川喜多長政と、その夫人川喜多かしこ。東和映画は戦前から『巴里祭』『望郷』『民族の祭典/美の祭典(オリンピア)』など多くの欧州名画を輸入し、配給し続けてきた会社である。

当時欧米には、文化の薫り高い芸術映画専門の劇場というものがあった。川喜多夫妻はそんな芸術映画の劇場を日本にもつくることを目指し「日本アート・シアター運動の会」を設立する。その頃は外貨不足により映画の輸入が制限されており、芸術性の高い作品は商売にならないと、なかなか日本に入ってこなかったのだ。

同時期フランスではヌーベル・バーグと呼ばれる映画運動が盛んになり、アメリカでも実験的な作品が登場するようになっていた。そのほかにも北欧や東欧、アジアなどからも優れた作品が生まれており、日本でも続々と誕生する映画の新風に触れたいという欲求が高まっていたのである。

川喜多夫妻の活動に賛同したのが、東宝映画の専務だった森岩雄。森は東宝や関係する劇場などの協力を取り付け、資本金となる1000万円を調達してATGを設立。社長には森の知人で三和興行社長の井関種男が就任した。

そして東宝や東和に割り当てられていた外国映画輸入枠を使い、芸術映画や実験映画そして日本では馴染のない国の作品を、ATGが提携した全国の9カ所の劇場で上映することになったのである。

映画製作への路線変更

62年4月20日、ポーランド映画『尼僧ヨアンナ』を第1回配給作品として上映。そのあと、ジャン・コクトー『オルフェの遺言』、ヴィットリオ・デ・シーカ『ウンベルト・D』、イングマル・ベルイマン『野いちご』、セルゲイ・M・エイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』、アラン・レネ『去年マリエンバートで』、アンリ・コルピ『かくも長き不在』、フェデリコ・フェリーニ『8 ¹/₂』、ルイス・ブニュエル『小間使いの日記』、オーソン・ウェルズ『市民ケーン』、サダジッド・レイ『大地のうた』、ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』、アンジェイ・ワイダー『夜の終わりに』、フランソワ・トリュフォー『ピアニストを撃て』、アンドレイ・タルコフスキー『僕の村は戦場だった』、ミケランジェロ・アントニオーニ『女ともだち』、ジョン・カサベテス『アメリカの影』、オットー・プレミンジャー『野望の系列』、などの名作がATGの劇場で公開された。

上映する作品は批評家によって構成される作品選定委員会によって決められていたが、次第にエリート意識の強い芸術至上主義に偏り、公開される作品がバラエティに欠けるという批判を受けるようになってしまう。

また、輸入映画の価格が上がり、芸術作品と呼ばれるようなものでも一般の劇場で上映され始め、提携した劇場で公開される作品はだんだん減少していった。時代とともにATGは当初の役割を終え、路線変更を迫られるようになったのだ。そんな状況にあった67年、今村昌平監督が『人間蒸発』の企画を持ち込んで来たことにより、ATGは映画製作に乗り出すことになる。

『人間蒸発』が好評だったことにより、ATGは独立プロへの積極的な支援と資金提供および配給を開始する。68年には大島渚監督と費用を折半しての低予算映画『絞首刑』を製作した。これが、いわゆる“ATGの1千万円映画”と呼ばれる第一号作品である。ちなみに当時の一般的な商業映画の製作費は、3~4千万円程度だった。

日本映画の一大ムーブメント

この『絞首刑』は、公開されると世間的に高い評価を受け、日本映画にも大きな刺激を与えることになる。同年には岡本喜八監督の『肉弾』と羽仁進監督の『初恋・地獄変』も製作。ATGが67年に製作提携・配給した低予算映画の3作が、いずれもキネマ旬報のベスト10入りを果たす(『肉弾』2位、『絞首刑』3位、『初恋・地獄変』6位)という快挙を成し遂げる。

低予算ながら自由な製作の場を提供するATG映画は、意欲のある独立プロの監督や新進気鋭の監督たちに歓迎され、マスコミや評論家の応援も受けて一大ムーブメントを起こすことになった。

こうしATGから篠田正浩『心中天網島』、吉田喜重『エロス+虐殺』、市川崑『股旅』、寺山修司『田園に死す』、新藤兼人『ある映画監督の生涯』、東陽一『サード』、根岸吉太郎『遠雷』、森田芳光『家族ゲーム』、大林宣彦『野ゆき山ゆき海べゆき』、などの作品が生まれていく。

時代とともに終えた役割

次代の映画界を担う人材を育てるなど、一定の役割を果たしてきたATG映画。だがそれらの作品がヒットするとは限らず、物価の上昇で制作費が高くなると、採算をとるのも難しくなってきた。ATG作品を上映する劇場も徐々に減ってゆき、79年には専門上映館がついに1館となってしまう。

それでも経営陣を交代させ青春映画・娯楽映画に力を入れるなど存続に力を尽くすが、次第にATGの体力は弱体化。92年の新藤兼人監督『墨東綺譚』を最後に活動を停止することになる。

芸術映画の上映でアンチ商業主義の立場から新鮮な刺激を与え、映画製作の面でもユニークな役割を果たしたATGの活動。時代に残したその足跡は、今も存在感を放っている。

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