「 バルカンの闘将 」 フリスト・ストイチコフ ( ブルガリア )
東西冷戦時代の終了により、バルカン地方の小リーグから世界へ飛躍。クライフ率いる名門バルセロナやWカップの舞台でその名を轟かせ、ブルガリア史上最高の選手と謳われるのが、フリスト・ストイチコフ( Hristo Stoichkov )だ。
がっしりした身体に似合わないスピードと繊細なボールタッチを武器に、チャンスを創出するプレーで活躍。また94年のWカップでは、正確かつ強烈なキックで前回王者のドイツを奈落の底に沈め、ブルガリアを過去最高成績のベスト4に導いた。
負けず嫌いのストイチコフは試合がうまくいかないと、苛立ちからラフプレーを犯して退場処分を受けることもしばしば。また気に入らない時には、誰彼構わず噛み付く気性の荒さも見せた。しかしその並外れた闘争心と勝利への執念は、「闘将」として仲間を鼓舞しチームを勝利へ導く力ともなったのである。
ストイチコフは1966年2月8日、ブルガリアの中南部に位置するプロフディフで生まれた。幼い頃から運動能力に恵まれ、ボクシングや陸上などいろいろなスポーツを経験したが、10歳の時にスカウトされて入った地元のクラブで本格的にサッカーを始めることになった。
当初は足が遅くDFとしてプレーしていたが、毎日のトレーニングで持久力と俊敏さを磨き、15歳でFWに転向。すぐさまチームのエース・ストライカーとなった。やがてその実力が認められ、84年に18歳でブルガリア1部リーグの強豪、CSKA(中央陸軍クラブ = 略称チェスカ)ソフィアに移籍することになる。
しかし84-85シーズンのブルガリア・カップ決勝、優勝をたぐり寄せる得点を決めたストイチコフだが、相手GKと口論になる。そこからピッチ上の全選手を巻き込む乱闘となり、試合は中止となった。ブルガリアサッカー協会はこの事態に厳しい対応、両チームを一旦解散させる。
問題を起こしたストイチコフも永久追放処分となるが、10ヶ月後に処分が解除されるとチームへの復帰を果たす。しかし激しい性格とともに、強いメンタリティも持つストイチコフ。CSKAソフィアのレギュラーの座を掴むと、5シーズンで4回のリーグ優勝と4回のカップ戦優勝を果たしたチームの中心となる。
89年、CSKAソフィアはウイナーズ・カップに出場。ストイチコフはチームの準決勝進出にエースとして貢献した。そして89-90シーズンは38得点を挙げ、ヨーロッパリーグの最多得点者に与えられる「ゴールデン・ブーツ賞」を獲得、一躍その名を世界に知られるようになった。
90年には東西冷戦の終結により、ブルガリアの共産党政権が崩壊。西側クラブへの移籍が自由となったストイチコフに、ウイナーズ・カップ準決勝で対戦したバルセロナのクライフ監督からオファーが舞い込んだ。こうしてストイチコフは、念願だった名門ビッククラブへの移籍を果たすことになる。
バルセロナへ移籍したストイチコフは1年目から大暴れ、9月の開幕から3試合連続でゴールを挙げて、評判通りの得点力を見せつけた。だがその3ヶ月後には主審へ暴力行為を働き、出場停止処分を受けてしまう。その過激で攻撃的な言動は、メディアへ格好の話題を提供することになった。
リーグ戦は2ヶ月欠場となったが、それでも14ゴールを挙げる活躍を見せ、バルセロナ7季ぶりのリーガ・エスパニョーラ優勝に貢献する。バルセロナは翌91-92シーズン、リーガ・エスパニョーラ2連覇を果たし、この年のチャンピオンズ・カップも初制覇する。
ストイチコフは慣れないマスコミ対応に一時不振となるが、切れ味の良いプレーを取り戻すとチームを引っ張る存在となり、サポーターに「ダガー(短剣)」と呼ばれる人気者となった。
クライフ率いるバルセロナは、ストイチコフの他、M・ラウドルップ、R・クーマン、J・グアルディオラら能力の高いタレントを揃え「エル・ドリーム・チーム」と呼ばれていた。さらに93年にはオランダのPSVからロマーリオが加入。ストイチコフとの衝突が危惧されたが、個性の強い二人は意外にも良好な関係を築き、リーグ4連覇を達成したバルセロナの両輪となる。
代表には87年に21歳で初招集、ブルガリアが欧州予選で敗退したため90年のWカップ出場はならなかった。そしてブルガリアが自由化を果たした93年の欧州予選では、ストイチコフ、ペネフ、バラコフ、レチコフ、コスタディニフと国外のクラブで活躍する選手を揃え、2大会ぶりの出場を目指すことになった。
欧州予選の最終戦、ブルガリアは本大会出場を争うフランスと敵地パリで戦う。試合は1-1で終盤を迎え、このまま引き分けるとフランスのWカップ出場となるはずだった。しかし時間稼ぎをすべきロスタイムにフランスのジノラが余計なプレー、ボールを奪ったブルガリアが勝ち越し点を挙げ、逆転でWカップ出場を決めたのである。
94年のWカップ・アメリカ大会、1次リーグでストイチコフはギリシャからPKによる2得点を挙げ、ブルガリアのWカップ初勝利に貢献した。そして続くアルゼンチン戦でも貴重な追加点を挙げ、薬物検出でマラドーナの抜けた優勝候補を打ち破る。
決勝T1回戦ではメキシコと対戦、ストイチコフが先制点を決めた。試合はPK戦までもつれたが、勝ち上がったブルガリアは準々決勝で前回王者のドイツと戦うことになったのである。準々決勝は47分、マテウスのPKでドイツがリードするが、75分にストイチコフの左足FKが炸裂、同点とした。そして78分にレチコフが逆転ゴールを決め、ブルガリアが大金星を挙げたのである。
準決勝ではイタリアに敗れてしまうが、ダークホースのブルガリアがベスト4と大健闘。大会得点王となったストイチコフは、クラブでの活躍も合わせてこの年のバロンドールを受賞した。
その後クライフ監督と軋轢が生じ、95年にはパルマへ移籍。96年には再びバルセロナへ戻るが、次第に出場機会を失い98年に退団する。そして同年のWカップ・フランス大会に出場(1次リーグ敗退)したのち、柏レイソルでプレー。それからはアメリカに活躍の場を移し、03年に37歳で現役を引退した。
引退後は指導者の道を歩み、04年にブルガリア代表監督に就任して06年のWカップ出場を目指す。だが審判任命問題に絡み、UEFA会長のレナート・ヨハンソンを批判。4試合のベンチ入り禁止となった挙げ句、Wカップ出場を逃してしまう。続くユーロ08予選でも指揮を執るが、芳しい成績を挙げられず07年に監督を辞任した。
54歳となった現在はクラブチームの監督として活動中だが、今もなお過激な発言を繰り返し、その攻撃的な性格は相変わらずのようだ。