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《 サッカー人物伝 》 ゲオルゲ・ハジ

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「 東欧のマラドーナ 」 ゲオルゲ・ハジ ( ルーマニア )

卓越したパスセンスとセカンドストライカーとしての能力、そしてゲームの流れを読み取る嗅覚は典型的な「10番」タイプ。172㎝の小柄な身体と、レフティーのゲームメイカーという共通点から「東欧のマラドーナ」と呼ばれたルーマニア史上最高の選手が、ゲオルゲ・ハジ( Gheorghe Hagi )だ。

早くからその才能は知られ、ルーマニアの強豪ステアウア・ブカレストで3度のリーグ優勝と3度の国内カップ優勝、UEFAスーパーカップ制覇に貢献する。90年代にはスペインのレアル・マドリードやバルセロナといったビッグクラブでプレーするも、いまひとつ輝けず、96年に移籍したトルコのガラタサライで真価を発揮した。

18歳でルーマニアのフル代表入り。90年W杯で同国を初のベスト16に導くと、94年W杯ではコロンビアやアルゼンチンら強豪を撃破。ベスト8進出に大きく貢献し、「ハジ」の名を世界に知らしめた。98年W杯でもベスト16に進むなど、ルーマニアの最盛期を支えた。

ルーマニアの若き才能

ゲオルゲ・ハジは1965年2月5日、黒海沿岸の都市コンスタンツァ近郊にあるサノレという村に生まれた。マケドニア系ルーマニア人の家庭で育ち、父はサッカー経験もある革靴職人。小さい頃のハジは、羊飼いをする祖父と多くの時間を過ごした。

10歳の時に村のジュニアチームで本格的にサッカーを始めると、13歳でディヴィッツィアA(1部リーグ)に所属するファルル・コンスタンツァのユースチームに入団。すると才能の輝きでたちまち頭角を現し、15歳でルーマニアU-16代表に選出。首都ブカレストのサッカースクールで英才教育を受けるなど、エリートコースを歩んだ。

そして17歳でトップチーム昇格を果し、82年9月にディヴィッツィアAデビュー。1年目から18試合7ゴールの好成績を残し、早くからルーマニアのホープとして期待を集める。

翌83-84シーズンには、ブカレストを本拠地とするスポルトゥル・ストゥデンツェスクに引き抜かれて移籍。スポルトゥルは当時ルーマニアの独裁者、ニコラエ・チャウシェスク大統領の次男であるニク・チャウシェスクが支配していたクラブで、ハジの引き抜きは強引なものだったという。

スポルトゥルではブカレスト大学で経営学を学びながらプレー。学業と両立して移籍2年目の84-85シーズンは30試合20ゴールの活躍。20歳にして初のリーグ得点王に輝く。翌85-86シーズンも31試合31ゴールの驚異的な成績を残し、2年連続の得点王。チームを過去最高成績の2位に押し上げ、ルーマニア年間最優秀選手に選ばれる。

するとその卓越した得点能力を見込まれ、87年2月にルーマニア最大のクラブであるステアウア・ブカレストへ貸し出される。ステアウアは前年チャンピオンズカップ制覇を果した欧州きってのクラブ。その支配者は、ニクの兄であるバレンティン・チャウシェスクだった。

この時ステアウアは、欧州カップウィナーズ・カップ王者であるディナモ・キーウ(旧ソ連邦)との欧州スーパーカップを控えており、タイトル獲得のため1試合限定でハジの力を借りようとしたのだ。そしてその目論み通り、試合はハジのフリーキックが決まって1-0の勝利。ステアウアが東欧対決を制し、スーパーカップ初優勝を果す。

これでハジの使命は終わったかに思えたが、その活躍を目の当たりにしたバレンティンが無理矢理に引き留め。結局ハジはステアウアへ完全移籍することになった。

最年少での代表デビュー

アンダー世代から代表の常連だったハジは、83年8月の親善試合ノルウェー戦でフル代表の初キャップ刻む。このとき18歳という、当時同国史上最年少でのA代表デビューだった。このまま代表に定着し、ルーマニアが初出場となった84年欧州選手権(フランス開催)のメンバーにも選ばれる。

西ドイツ、スペイン、ポルトガルといった難敵と同居した1次リーグでハジは2試合に出場(先発は1試合)するも、ルーマニアは2敗1分けのグループ最下位に沈んで敗退。新鋭ハジも目立った活躍を見せられず、大会を終えた。

このあと同年9月に行なわれたW杯欧州予選・北アイルランド戦で代表初ゴールを記録。これでレギュラーの座を獲得し、予選7試合に出場して4ゴールの活躍。しかしルーマニアはW杯出場権の得られるグループ2位に1ポイント及ばず、惜しくも予選敗退。ハジの世界デビューはお預けとなった。

カルパチアのマラドーナ

ステアウア・ブカレストに移籍したハジはすぐにチームへ適応。86-87シーズンはシーズン途中の加入ながら、14試合10ゴールの成績を残してリーグ制覇とクパ・ロマニエイ(ルーマニアカップ)優勝の国内2冠に貢献。2度目のルーマニア年間最優秀選手賞に輝く。

ハジは国内トッププレーヤーが集まるステアウアの中でも中心的役割を果し、88-89シーズンまでのリーグ3連覇を主導。3度のクパ・ロマニエイ優勝(そのうち1度はバレンティンの圧力による不正があったとして、のちにタイトル返上)も果す。

そして88-89シーズンのチャンピオンズカップでは、3季ぶりとなる決勝へ進出。だが決勝では当時黄金期を迎えていたACミランに0-4と完敗し、2度目のビッグイアー獲得はならなかった。

それでも優れたパフォーマンスでチームを決勝に導いたハジは、小柄で左利きの使い手ということから、「カルパチアのマラドーナ」と呼ばれ注目される。カルパチアとは、東ヨーロッパと中央ヨーロッパを貫く “カルパチア山脈” のことである。

そんなハジの活躍は西側クラブの関心を引き、ミラン、ユベントス、バイエルン・ミュンヘンといった名門クラブからオファー。だが体操のナディア・コマネチ(ニクの愛人だったとも)に次ぐ有名スポーツ選手となった彼を、チャウシェスク一族が手放すことはなかった。

レアル・マドリード移籍と初めてのW杯

86年9月から始まった欧州選手権予選では、スペインに1ポイント及ばず88年欧州選手権出場を逃してしまう。それでもハジ、ラドチョウ、ドミトレスク、ペトレスク、ポペスクら「黄金世代」がチームの主力に成長したイタリアW杯欧州予選では、難敵デンマークを退けて見事グループ突破。5大会ぶり5度目となるW杯出場を決める。

そのW杯出場を決めたデンマーク戦の1ヶ月後となる89年12月、「ベルリンの壁崩壊」に始まる東欧変革の大きな流れに乗り、独裁体制に反抗するルーマニア革命が勃発。チャウシェスク独裁政権は打倒され、四半世紀にわたった一族支配は終わりを告げた。

これでハジは晴れて移籍自由の身となり、90年2月にはスペインの名門レアル・マドリードと契約。4ヶ月後に控えた初めてのW杯は、ハジがその才能をアピールする絶好の場となった。

90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。G/L初戦はキャプテンのハジを故障で欠くも、連邦崩壊の危機を迎えていたソビエトに2-0の勝利。続くカメルーン戦ではハジが先発復帰を果すが、老雄ロジェ・ミラの2発を浴びて1-2の敗戦。ハジは3度のチャンスに絡むなどコンディションの良さを見せたが、後半の55分に交代となった。

グループ突破を懸けた最終戦の相手は、マラドーナ擁する前大会王者のアルゼンチン。この試合では「東欧のマラドーナ」が本家に劣らないパフォーマンスを発揮し、強豪相手に1-1の引き分け。ルーマニアを初となる決勝トーナメントへ導く。

トーナメント1回戦はアイルランドとの対戦。試合はルーマニアが主導権を握るも、相手の堅守に阻まれ無得点。後半の70分にはハジが決定的なシュートを放つが、GKパット・ボナーの攻守に阻まれていた。そして延長のあとのPK戦でもルーマニアの5人目がボナーに止められ、惜しくも敗戦。ベスト8にあと一歩届かなかった。

ブレシアでの復活

W杯終了後、25歳にして念願のビッククラブ移籍を果したハジだが、今まで自分中心で回っていたチームと違い、ブトラゲーニョウーゴ・サンチェスといったスター選手を揃えたレアルでは思うようにプレーさせて貰えなかった。

90-91シーズンは暫定監督を務めたディ・ステファノ監督に疎まれ、短気な性格も相まって次第に出場機会は減少。91-92シーズンはアンティッチ新監督のもと先発の座を取り戻すが、シーズン最終盤でバルセロナにリーグ優勝を奪われてしまうなど不本意なものに終わってしまう。

レアルでのプレーに窮屈なものを感じていたハジは、92-93シーズン、ルーマニア代表の恩師であるミルチャ・ルチェスク監督に誘われてイタリアのブレシアへ移籍。ブレシアはこの年セリエA昇格を果したばかりで、チームにはラドチョウ、サバウ、マテウシュら多くの同胞も在籍していた。

しかしルーマニア勢の健闘も虚しく、最後まで7チームが残留争いにひしめいた大混戦を勝ち抜けずに18チーム中15位。ブレシアは得失点差でわずかに及ばず降格となる。それでもラドチョウらの主力がチームを離れる中、ハジは他クラブの誘いを断って残留を表明する。

セリエBでの93-94シーズン、ハジが素晴らしいパフォーマンスでチームをリード。リーグ3位を確保してセリエA復帰を決めると、アングロ=イタリア・カップ優勝にも貢献。自分を中心据えたチームで輝きを取り戻した。

世界のハジ

92年欧州選手権出場は逃すものの、そのあと始まったW杯欧州予選では「黄金世代」の活躍でグループ首位突破。2大会連続の出場を決める。

94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。G/L初戦の相手はバルデラマアスプリージャリンコンといった注目のタレントを揃えたコロンビアだった。

ルーマニアは5バックの守りを敷き、中央の密集を突くコロンビアの攻撃を待ち構え。そして15分にはハジが反転から相手をかわし、ドリブルによる突破。スルーパスでラドチョウの先制点をお膳立てした。さらに34分には前へ出ているキーパーの位置を見逃さず、30m地点からのドライブシュート。ネットを突き刺しハジの追加点が決まった。

その後1点返されたが、89分にルーマニアFKのチャンス。キッカーのハジは早いリスタートでラドチョウを再び走らせ、勝利を決定づける3点目をアシスト。こうしてルーマニアが強敵コロンビアを3-1と粉砕する。

第2戦はスイスに1-4と完敗(唯一の得点はハジ)するも、第3戦で地元アメリカに1-0の勝利。G/Lを首位で勝ち抜き、2大会連続でベスト16に進む。

トーナメント1回戦の相手はアルゼンチン。違反薬物の検出より大会を追放となったマラドーナは、スタンド内にあるテレビ局のブースで試合を見守っていた。試合は1-1で迎えた17分、パス交換で右サイドに抜けたハジが狙い澄ましたクロス。それを後方から走り込んできたドミトレスクがダイレクトで合わせ、勝ち越し点が生まれた。

58分には相手の攻撃を突いてカウンター。中央を駆け上がるドミトレスクからボールを受けたハジが、決定的な3点目を叩き込む。その後1点を返されるも、主導権を握り続けたルーマニアが3-1と勝利した。

準々決勝のスウェーデン戦もハジのFKからラドチョウの2点が生まれるが、延長終盤に追いつかれてPK戦で涙を飲む。それでもルーマニアは過去最高成績であるW杯ベスト8の成績を残した。主将を務めたハジは3ゴール4アシストの活躍でチームを牽引。大会のベストイレブンにも選ばれ、「東欧のマラドーナ」から「世界のハジ」へとその名を高めた。

トルコの人気者

W杯終了後、子供時代からの憧れであるクライフのラブコールによりバルセロナへ移籍。しかしシステム化されたチーム戦術の中で、ファンタジスタであるハジの持ち味は奪われ、故障の影響もあって輝くことが出来なかった。

結局バルセロナでは不本意な2シーズンを送り、96年の夏にはトルコのガラタサライへ移籍する。ガラタサライではエースのハカン・シュキュルとホットラインを組み、1年目から30試合14ゴールの活躍。3季ぶりとなるシュペルリグ(スーパーリーグ)優勝に貢献する。

翌97-98シーズンもリーグを連覇すると、98-99シーズンはトルコカップ優勝と合わせた国内2冠を達成。99-98シーズンも連続2冠の偉業を成す。トルコで輝きを取り戻したハジは、ガラタサライに栄光をもたらすファンタジスタとして、サポーターからの絶大な人気を得た。

その後の代表キャリア

96年には3大会ぶりとなる欧州選手権への出場を果すも、G/L全敗を喫して最下位での敗退。だがそのあと始まったW杯欧州予選では、10試合37ゴールと攻撃陣が爆発。無敗でのグループ突破を果し、3大会連続のW杯を決める。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。G/L初戦は前大会に続いてコロンビアと対戦し、ハジのパスからFWイリエが決勝弾。1-0とコロンビアを返り討ちにした。

続くイングランド戦もハジのパスから先制点が生まれ、強敵相手に2-1の勝利。2連勝で早くもG/L突破を決めた。第3戦は主力を温存しながらも、チェにジアと1-1の引き分け。グループ首位で決勝トーナメントに進む。

トーナメント1回戦はクロアチアと対戦。前半ロスタイムにシュケルのPKで先制を許すと、後半56分には精彩を欠いたハジが交代。試合は0-1と敗れ、2大会連続のベスト8進出はならなかった。

2000年には3度目となる欧州選手権に出場。ルーマニアは大会初となるベスト8進出を果すも、準々決勝でイタリアに0-2の敗戦。イタリア戦で2枚のイエローを受けて退場となったハジだが、このあと代表からの引退を発表する。

18年間の代表歴で124試合に出場、35ゴールの記録を残した。この得点記録はのちにアドリアン・ムトゥに並ばれるが、現在でもルーマニア代表の歴代最多ゴール数である。

ヨーロッパタイトル獲得

99-00シーズン、ガラタサライはリーグを4連覇。チャンピオンズリーグでは3次予選敗退を喫するが、UEFAカップ(現EL)の出場権を得て3回戦から参戦。ドルトムントやリーズ・ユナイテッドなどの難敵を退けて決勝に進出する。

決勝の相手はアーセナル。白熱した試合は0-0のまま延長に突入するが、その94分、ハジが相手キャプテンのトニー・アダムスに肘打ちを食らわせたとして一発退場。10人となってしまたガラタサライだが、GKタファレルとDFポペスクの好守で残り時間を凌いでPK戦に持ち込む。

そしてPK戦では守護神タファレルがシュケルとヴィエラのキックミスを誘い、最後はポペスクが沈めて決着。ガラタサライがトルコ初のヨーロッパタイトルに輝いた。

00-01シーズン、恩師のルチェスク監督がガラタサライの新指揮官に就任。2000年8月にはルチェスク新監督のもと、CL王者のレアル・マドリードと欧州スーパーカップで対戦する。ハジは当時世界最高の左SB、ロベルト・カルロスを翻弄するなど活躍。延長戦で古巣を2-1と破り、UEFAカップ決勝での愚行を帳消しにした。

そしてこの01-02シーズンを最後に、37歳で現役を引退。引退後は指導者の道に進み、ルーマニア代表やガラタサライ、ステアウア・ブカレストなどの監督を歴任する。

09年には故郷コンスタンツァにフットボール・アカデミーを開設。このアカデミーは、21年に経営破綻となったファルル・コンスタンツァと合併。クラブは現在盟友のポペスクが代表者を務め、実質オーナーのハジは経営に携わりながら監督も兼任している。

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