《 サッカー人物伝 》 ゲオルゲ・ハジ




「東欧のマラドーナ」 ゲオルゲ・ハジ ( ルーマニア )

3度のWカップと欧州選手権に出場を果たし、17年の長きにわたってルーマニア代表で活躍。代表通算125試合出場は同国最多記録で、通算35得点もアドリアン・ムトゥと並ぶ1位の記録。まさに名実ともルーマニア史上最高の選手と言えるのが、ゲオルゲ・ハジ( Gheorghe Hagi )だ。

172㎝の小柄な身体と、レフティーのゲームメイカーという共通点から「東欧のマラドーナ」と呼ばれたハジ。その卓越したパスセンスと、セカンドストライカーとしての能力、そしてゲームの流れを読み取る嗅覚は典型的な10番タイプの選手と言ってよいものだった。

天才肌のハジは自分中心のチームでこそ輝く選手だけに、歯車としての役割を果たさなければいけないビッククラブでは、今ひとつ通用しなかった。彼がその真価を発揮するのは、ルーマニア代表として出場した、94年のWカップ・アメリカ大会でのことである。


ゲオルゲ・ハジは1965年2月5日、黒海沿岸にあるリゾート地、コンスタンツァ近郊の町サチュレに生まれた。10歳で本格的にサッカーを始め、13歳で地元クラブのFCコンスタンツァへ入団する。少年の頃から際立つ才能を発揮していたハジは、16歳でトップチームのゲームに出場するようになる。

83年、18歳でスポルトゥル・ストゥデンツェスクとプロ契約、早くもチームの主力となり、84-85シーズンの最終戦では6ゴールを挙げて逆転の得点王、さらにMVPにも選ばれた。翌シーズンも連続で得点王とMVPを獲得すると、87年にはルーマニアの名門ステアウア・ブカレストに移籍する。

ブカレストでは3年連続のリーグ戦とカップ戦・二冠達成の立役者となり、89年に出場したチャンピオンズ・カップでもチームを準優勝に導いた。そして代表には83年に同国最年少の18歳で選ばれ、翌84年の欧州選手権にも出場、ハジは若くしてルーマニアのトップ選手となった。

89年、ベルリンの壁崩壊後の東欧に民主化の波が押し寄せ、12月にはルーマニア革命が発生ずる。長年続いたチャウシェスク独裁政権が打倒され、ルーマニアに自由が訪れたのだ。そして90年にルーマニア代表は欧州予選を勝ち抜き、民主化後初となるWカップに20年ぶりの出場を果たす。

90年Wカップ・イタリア大会、1リーグの初戦でルーマニアは東側の盟主だったソビエトを2-0と撃破、第2戦のカメルーン戦に臨んだ。しかしこの試合、「老雄」ロジェ・ミラに2点を奪われ1-2の敗戦、盛り立て役に廻ってしまった。それでも最終節ではマラドーナ擁するアルゼンチンと1-1で引き分け、決勝T進出を決めた。

決勝T1回戦ではPK戦までもつれた末アイルランドに敗れてしまうが、堅守を誇る相手を押し込んだルーマニアの戦いは高く評価された。そのチームの中心にいたハジは活躍を認められ、大会終了後にレアル・マドリードへ移籍することになる。

しかし名門レアルでは役割を決められたシステムに馴染めず、ルーマニア人監督ルチェスクの誘いを受け、92年にセリエAのブレシアに移籍した。ブレシアでは代表の同僚であるラドチョウとともにプレーするが、チームはセリエBに降格。2部リーグで戦うことを決めたハジは、中心となってチームを引っ張り、翌シーズンにブレシアをセリエAへ復帰させた。

94年のWカップ・アメリカ大会、連続出場を果たしたルーマニアは、1次リーグで南米のコロンビアと戦う。コロンビアはバルデラマやアスプリージャといった攻撃のタレントを揃え、大会でも注目されたチームのひとつだった。

ルーマニアは5バックの守りを敷き、中央の密集を突くコロンビアの攻撃を封じる。そして15分、ハジは反転から相手をかわしドリブルを開始、スルーパスでラドチョウの先制点をお膳立てした。さらに34分、前に出ているキーパーを見逃さなかったハジは、30m地点からのドライブシュート。強烈な勝ち越し弾がネットに突き刺さる。

その後1点返されたが、89分にルーマニアFKのチャンス。キッカーのハジは早いリスタートでラドチョウを再び走らせ、勝利を決定づける3点目をアシストした。こうしてルーマニアは強敵コロンビアを3-1と粉砕、そのままの勢いを維持して1次リーグを1位で突破する。

決勝T1回戦ではアルゼンチンと対戦。スタンド内にあるテレビ局のブースには、ドーピングで大会を追放されたマラドーナの姿もあった。試合は1-1で迎えた17分、パス交換で右サイドに抜けたハジが狙い澄ましたクロス。それを後方から走り込んできたドミトレスクがダイレクトで合わせ、勝ち越し点が生まれた。

アルゼンチンも反撃にかかるが、58分にルーマニアがカウンター。中央を駆け上がるドミトレスクからボールを受けたハジが、決定的な3点目を決めた。その後の追撃を1点に抑え、ルーマニアがアルゼンチンを3-1と打ち破った。

準々決勝でもハジのFKからラドチョウの2点が生まれるが、スウェーデンに追いつかれてPK戦で負けてしまう。それでもルーマニアは過去最高成績である、ベスト8まで進んだのだった。主将を務めたハジは3ゴール4アシストの活躍、大会のベスト11にも選ばれ、ワールドクラスの選手と認められた。

大会終了後、クライフのラブコールを受けたハジはFCバルセロナへ移籍する。しかしビッククラブとは相性が悪いハジの出場機会は少なく、輝きを放てないままチームを去って行った。96年にトルコのガラタサライへ移籍、するとハジは水を得た魚のような活躍で、チームのリーグ4連覇に貢献する。

そして00年のチャンピオンズ・カップ、主将で10番のハジに牽引されたガラタサライは決勝へ進出。ベンゲル監督率いるアーセナルをPK戦で下し、トルコのクラブで初めてヨーロッパ・チャンピオンとなった。

ハジは98年のWカップ・フランス大会にも出場。コロンビアを1-0と返り討ちにすると、強豪イングランドも2-1と下して3大会連続のベスト16進出を決めた。決勝T1回戦ではクロアチアに敗れ大会を去るが、これ以降ルーマニアはWカップに出場していない。

01年、36歳となったハジはガラタサライで現役引退。その後は指導者となり、ルーマニア代表やガラタサライの監督を歴任する。長男のヤニス・ハジはイスタンブール生まれ、次代のルーマニア代表を背負うと期待されるサッカー選手である。

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