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《 サッカー人物伝 》 ポール・ガスコイン

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「悪童の涙」ポール・ガスコイン(イングランド)

ぽっちゃり体型のベビーフェイスという外見からは想像し難い、俊敏なボールコントロールと鋭いパスワークで中盤を支配。また自らドルブルで持ち上がり、強力なシュートで得点を奪った。フィジカル主体のイングランドサッカーの中で、高いスキルとイマジネーションで違いを見せたゲームメーカーが、ポール・ガスコイン( Paul Jhon Gascoigne )だ。

ニューカッスルで頭角を現し、当時の最高金額でトッテナム・ホットスパーと契約。91年はチームをFAカップ優勝に導き、その活躍でセリエAの強豪ラツィオへ移籍。ここではたび重なる怪我に泣いたが、95年に移ったスコットランドのレンジャーズで復活。リーグ優勝や国内カップ制覇など、幾つものタイトル獲得に貢献する。

イングランド代表では90年W杯イタリア大会に初出場。その才能を発揮して、サッカーの母国を66年の自国開催大会以来のベスト4に導いた。準決勝の西ドイツ戦で流した悔し涙は「ガッザの涙」と呼ばれ、イギリス国内でアイドル的人気を博す。ユーロ96でも伝説的ゴールを決め、ベスト4進出に大きな役割を果たした。

ぽっちゃり体型のジョージ・ベスト

ガスコインは1967年5月27日、イギリス北東部の町ゲーツヘッドで生まれた。名前のポール・ジョンは、熱狂的なビートルズファンだった母親によって付けられたものである。父はレンガ運搬員、母は工場勤務という貧しい労働階級の家庭に、4人姉弟の2番目(長男)として育った彼は、勉強もせずにサッカーへ没頭する日々。少年時代からその才能は飛び抜けていたという。

10歳の時、友人の弟を連れ出して地元の店に向かったが、ガスコインが目を離した隙に少年は道路に飛び出し、トラックに轢き殺されるという事故が発生。この不幸な出来事にガスコインにトラウマを抱え、強迫観念や痙攣の発作に苦しめられるようになる。

不眠症に悩まされたガスコインは精神科の治療も受けるが、この悪夢のような状況から抜け出すため、いよいよサッカーにのめり込むようになった。

地元のゲーツヘッド・ボーイズでプレーしていた中学校時代に、ミドルズブラやサウサンプトンのトライアルを受けるが、ぽっちゃり体型が災いして不合格。実際ガスコインが好んで口にしていたのは、チョコレートバーやジャンクフードといった類いのものばかりだった。

それでも13歳で憧れだったニューカッスルの下部組織に入団。16歳の時に練習生として契約を結び、ユースチームでプレーするようになる。太めの体型ながら優れたテクニックで頭角を現し、キャプテンとしてFAユースカップ優勝に貢献。この頃から「ガッザ」の愛称が定着する。

しかし私生活ではたびたびトラブルを起こし、不適切な食習慣も改善されないまま。いくら注意しても改まらないガッザの態度に、クラブの会長は「頭脳のないジョージ・ベストだ」と呆れるようにこぼした。

のちにベストと知り合ったガスコインはスランプに陥ったときに相談を持ちかけるが、皮肉屋の回答は「お前のIQは、その背番号(10番)より低いからだ」というもの。それに対しガスコインは、「IQって何だい?」と真顔で尋ねたという。

18歳となった85年には、トップチームの遠征に帯同。監督のジャッキー・チャールトン(ボビー・チャールトンの兄)はガスコインの才能を評価しながら、「その太りすぎた体をどうにかしなければ、お前はクビだ」と厳しく指導。さすがのガッザもこの時ばかりは必死となり、2週間で指示された体重まで落としたと言われる。

トッテナム入団

85年4月、ホームのクイーンズパーク・レンジャー戦でトップチームデビュー。プロ1年目は2試合の出場にとどまったが、翌85-86シーズンは31試合9ゴールの活躍でレギュラーの座を獲得。86-87シーズンはやや調子を落とすも、87-88シーズンに35試合7ゴールと復調。この年のPFA(選手協会)年間最優秀若手選手賞に輝き、英国で最も注目される選手となった。

若手ホープとなったガスコインのもとには、国内有力クラブからのオファーが殺到。中でも激しい争奪戦を繰り広げたのが、マンチェスター・ユナイテッドとトッテナム・ホットスパーだった。

ユナイテッドのファーガソン監督は熱心にガッザを勧誘し、ついに契約の約束を取り付ける。安堵してマルタ島でのバカンスに向かったファーガソンだが、休暇中の彼の耳に入ってきたニュースは、ガスコインとトッテナムが正式に契約を交わしたというものだった。

トッテナムは100万ポンド(1億円超)の契約金に加え、両親に12万ポンドの邸宅をプレゼントするとの条件を提示。ガッザはこの好条件に心変わりし、結局スパーズ入りを決めたのだ。

こうして89年の夏にトッテナムへ移籍。さっそくチームの中心選手となり、32試合6ゴールの成績。バルセロナから移籍してきたガリー・リネカーとのコンビで、チームを89-90シーズンのリーグ3位に導く。

だがその名を高めるにつれ、素行の悪さも次第にエスカレートしてゆく。キーパーのグローブの中に放尿したり、ダチョウを買ってきてユニフォームを着せ、練習中に選手を追いかけさせたり、入浴するチームメイトに大量の花火を浴びせて大騒ぎしたりと、度を超した悪戯のエピソードの枚挙にはいとまがないほどだった。

中には車によりかかる仲間に突然銃を向け、その男が慌てて逃げ出したあと発砲。ドアガラスを粉々にしてしまうという笑えないエピソードも伝えられた。また試合が終わるやパブへ直行。浴びるほど酒を飲み、酩酊状態となることもしばしばだったという。

英国のアイドル

イングランド代表には89年に選ばれ、6月7日の親善試合デンマーク戦でデビューを果たした。翌89年4月のW杯欧州予選、アルバニア戦で代表初ゴールを記録。予選突破に貢献する。乱暴かつ奔放な言動で一時はW杯メンバー入りが危ぶまれたが、本番直前のチェコスロバキア戦で4得点に絡む大活躍。無事90年W杯への出場が決まる。

90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。G/L初戦はジャッキー・チャールトン監督率いるアイルランドと1-1と引き分け、第2戦で「ミラントリオ」を擁するオランダと対戦。23歳のガスコインは司令塔として中盤をコントロール、強豪オランダと0-0で引き分ける。

最終節のエジプト戦ではガスコインのFKからマーク・ライトによる決勝点を引き出し、1-0と勝利してグループ首位突破に貢献した。

トーナメント1回戦の相手はベルギー。試合はスコアレスの膠着状態となり、延長戦へ突入。しかし延長後半の終盤にさしかかっても両チームに得点は生まれず、PK戦での決着が頭をよぎる。だが終了寸前の119分、FKのチャンスにガスコインが絶妙の浮き球を配球。それをデビッド・プラットがダイレクトでゴールを決め、イングランドが劇的勝利を収めた。

準々決勝は、大会に旋風を起こしたカメルーンとの戦い。試合はイングランドが先制するが、後半にロジェ・ミラが投入されると大乱戦の模様を呈する。61分にはガスコインがミラを倒してPKを与え、同点に追いつかれた4分後にも失点。逆転を許してしまうも、83分にリネカーのPKで追いつく。

ゲームは延長戦に突入。しばらく一進一退の攻防が続くが、延長の105分にリネカーが自ら得たPKを沈め、「不屈のライオン」を3-2と振り切る。

準決勝の西ドイツ戦も熱戦となり、試合は1-1の同点で延長戦に入った。その延長前半の98分、ガスコインがボールを奪った相手にスライディング・タックル。ラフプレーと見なされイエローカードを受けてしまう。これで次戦は累積警告による出場停止となり、ガッザは試合中にもかかわらず少年のような涙を流した。

結局イングランドはPK戦で破れ、3位決定戦でも地元イタリアに1-2と敗北。大会4位に終わってしまうが、悔し涙を流したガスコインは、帰国後に英雄的扱いを受けてアイドルのような人気を博す。そして所属するトッテナムの試合には、「ガッザマニア」と呼ばれる熱狂的ファンが詰めかけた。

凋落へ向かう道

91年3月、トッテナムはFAカップの決勝へ進出。ガスコインは初タイトル獲得を目指し、ノッティンガム・フォレストとの決勝のピッチに立った。試合開始の17分、相手DFに激しいタックルを見舞ったガスコインは、それがあだとなって右足靱帯断裂の重傷を追う。

このあとトッテナムは2-1と勝利してFAカップのタイトルを得るが、重傷を追ったガスコインは長期及ぶ時間を治療とリハビリに費やすことになる。しかもリハビリ中にかかわらずナイトクラブに出かけ、酒に酔っての乱闘騒ぎを起こしてさらに膝の怪我を悪化。結局1年半もの期間を棒に振ってしまった。

怪我が癒えた92年夏には、放出対象となりイタリアのラツィオへ移籍。その入団記者会見の席、ガスコインは「皆さん、静かに」と意味ありげにひと言。だが、耳をそばだてていた記者たちに聞こえてきたのは、ガッザの放屁する音だった。

1年目は22試合4ゴールとそれなりの成績を残したが、2年目は体重管理の失敗などで調子を落とし、次第に出番は減少。持ち前の愛嬌でファンからの人気は得たものの、インタビュアーを殴ったり、マイクに向かってゲップをしたり、クラブの会長には英語のスラングが解らないと思って「お前の娘、巨乳」と挨拶して激怒させたりと、トラブルメーカーぶりは相変わらずだった。

そして94-95シーズンの開幕前、ガスコインは練習中にタックルを仕掛け(相手は当時18歳のアレッサンドロ・ネスタ)、再び1シーズンを棒に振ってしまう。またゼマン監督の指導に不満を抱いていたこともあり、3年でイタリアを離れることになった。

ユーロ96の「世紀のゴール」

トッテナムのFAカップ決勝で重傷を負ったガスコインは、スウェーデンで開催されたユーロ92を欠場。3試合で1点しか挙げられなかったイングランドは、グループ最下位で敗退となった。

92年9月から始まったW杯欧州予選では、復帰したガスコインが4ゴールの活躍。しかしイングランドはノルウェーとオランダの後塵を拝してグループ3位に沈み、あえなく敗退。ガスコイン2度目のW杯出場は叶わなかった。

96年6月、地元開催のユーロ大会に出場。G/L初戦でスイスと1-1で引き分けたあと、第2戦でFAのライバルであるスコットランドと戦った。個々の力では劣っても、気迫では相手を上回るスコットランド。持ち味の堅いDFでイングランドを手こずらせ、素早いカウンターで試合の主導権を握った。

しかし0-0で折り返した後半の53分、ガリー・ネビルのクロスにシアラーが頭で合わせてイングランドが先制。それでもスコットランドの士気は衰えず、イングランドが再三のピンチを迎えるが、GKシーマン必死のセーブで失点を防いだ。

スコットランドがPKを失敗した2分後の67分、左サイドから持ち込んだアンダートンがPエリア前にグラウンダーのパス。DFが身体を寄せてくるのを察知したガスコインは、巧みにボールを浮かせると相手の頭上を越して入れ替わり、落下するボールをダイレクトで捉えてゴールを打ち抜いた。

スコットランドを2-0と破ったイングランドは、続くオランダ戦でも4-1の快勝。準々決勝ではスペインをPK戦で下し、ベスト4に進んだ。準決勝はドイツにPK戦で敗れてしまったが、ガスコインのスコットランド戦での得点は「世紀のゴール」と呼ばれ、後世の語りぐさとなった。

レンジャーズでの栄光と転落

95-96シーズンはスコットランドの強豪グラスゴー・レンジャーズへ移籍。ここで輝きを取り戻したガスコインは、公式戦42試合19ゴールとキャリアハイの活躍。リーグ優勝、スコティッシュカップ優勝、リーグカップ優勝の3冠達成に大きく貢献し、選手協会と記者協会の年間最優秀選手賞をダブルで受賞する。

96-97シーズン、イタリアから当時19歳のジェンナーロ・ガットゥーゾが加入。この若者はさっそくガスコインの手荒歓迎を受け、シャワーを浴びている間に、自分の靴下へ排便されるという洗礼。それでもガットゥーゾは、面倒見のいい兄貴分として世話してくれたガスコインに感謝。悪童と闘犬の二人は良い関係を築いていたという。

そしてこのシーズンも26試合13ゴールの好成績を残し、リーグ連覇に貢献した。しかし翌シーズン、離婚問題や不審人物からの脅迫、相手サポータに対する宗教的挑発行為(フルートを吹く真似がプロテスタントへの侮辱とされた)が問題視されるなど、様々なトラブルに見舞われるようになる。

ついに鬱病も患ってしまったガスコインは、ストレスの解消をアルコールや薬物に求めるようになり、プレーも精彩を欠いて28試合3ゴールと成績は低迷。人生最高のキャリアを築いたクラブを、わずか3年で退団することになった。

ワールドカップ直前のメンバー落ち

98年、イングランド2部のミドルズブラに移籍。代表ではゲームメーカーとして充分な働きを見せ、2大会ぶりとなるW杯出場へ貢献した。しかしガスコインの体調と精神面に不安を感じた監督のグレン・ホドルは、直前のスペイン合宿で彼を98年フランス大会のメンバーから外す。

ホドルからメンバー落ちを告げられたガスコインは感情を爆発させ、監督の部屋を手当たり次第に破壊したと伝えられている。問題行動の多かったガスコインだが、ベッカムオーウェンら若手にとっては良い兄貴分。代表のムードメーカー的存在でもある彼の離脱は、チームに暗い影を落とした。

このあとガスコインは2度とスリーライオンズ(イングランド代表の愛称)に呼ばれることなく、57試合10ゴールの記録を残して11年間の代表活動を終えた。

その後は輝きを取り戻すことなく、いくつかのクラブを転々としたあと04年に37歳で引退する。引退後は下部リーグの監督に就任するが、飲酒によるトラブルで解任。さらにはカメラマンに対する暴力行為で、一時拘束されてしまう。

現役時代に稼いだ財産もギャンブルで使い果たし、鬱による自殺未遂騒動や深酒による度々の入院、そして繰り返される暴言等でゴシップ誌を賑わせ続けるガスコイン。ついには断酒宣言をしてまで再起を図るが、最近も電車内の暴行行為で女性に訴えられる始末。この事件で無罪判決が言い渡されると法廷で涙を流すなど、悪童のお騒がせぶりが収まることはない。

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