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《 サッカー人物伝 》 オブドゥリオ・バレラ

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「マラカナンの勝者」オブドゥリオ・バレラ(ウルグアイ)

1950年7月16日、超満員の観客を集めたマラカナン・スタジアムに響く熱狂的な声援が、一瞬のうちに悲鳴に変わった。ブラジル国民の誰もが疑わなかったセレソン初優勝の夢が、逆転劇を演じたウルグアイによって打ち砕かれてしまったのだ。

ワールドカップの歴史に残る「マラカナンの悲劇」の試合。この大逆転劇を生み出したのが、“ ラ・セレステ ”の偉大なキャプテン、オブドゥリオ・バレラ( Obudulio Jacinto Muiñs Varela )のプレーだった。

バレラはファイティング・スピリットと卓越したリーダーシップで、劣勢を強いられたチームを鼓舞。フィールドを走り回り展開力を発揮して、チームを逆転勝利に導いた。まさに彼の統率力が無ければ、ウルグアイ2度目のワールドカップ優勝はなかったのだ。

プロサッカー選手への憧れ

1917年9月20日、バレラはウルグアイの首都モンテビデオ南部にあるテーラ地区で、7人兄弟の末っ子として生まれた。父親は腸詰めソーセージを売り歩く小売人、母親は内陸部出身の黒人だった。バレラはサッカー好きだった父親の手ほどきを受け、幼少頃からボールを蹴り始める。

だがバレラが7歳の時、貧乏が原因の家庭内不和で、父親が家を出て行ってしまう。すると、まだ小さかったバレラも家計を助けるため、新聞売りや靴磨きをして小銭を稼ぐようになった。最初小学校にも通ったがそれも3年で辞め、昼夜働きながら、仕事の合間にサッカーをして楽しむという生活を送る。

1930年7月、ウルグアイで第1回大会となるWカップが行われた。当時12歳のバレラは、準決勝と決勝をセンテナリオ・スタジアムのゴール裏、立ち見席で観戦。母国代表の優勝を目撃して感激し、サッカー選手への憧れを強くする。

そして32年、地元のアマチュアクラブに入団。体格の大きなバレラはセンターハーフとして頭角を現し、別の強豪クラブへ移籍する。そこで徹底的に自分を磨き、本格的にプロを目指すようになる。36年、市のU-20選抜のメンバーとなりアルゼンチンへ遠征、そこでプロチームの誘いを受けるが、申し出を断って帰国する。すると間もなくウルグアイ2部リーグのチームからオファーが舞い込み、ついに念願のプロ契約を結ぶことになった。

バレラのひたむきなプレーは監督の信頼を得て、レギュラーを獲得、ほどなくキャプテンも任されるようになる。38年、ウルグアイ1部リーグの強豪ワンダラーズに請われ移籍、すぐに攻守の要として中心的役割を担うようになり、バレラは20歳の有望選手として注目され始める。

ウルグアイ最高のセンターハーフ

39年1月、ウルグアイ代表に初めて招集される。そしてその年ペルーで開かれたコパ・アメリカのチリ戦で、途中出場によるデビューを果たした。42年、地元ウルグアイでの開催となったコパ・アメリカでは、6試合すべてに先発出場。決勝でアルゼンチンを1-0と下し、ウルグアイは4大会ぶり8度目の優勝を達成。バレラは初の国際タイトルを手にした。

この頃からバレルは「国内最高のセンターハーフ」の評価が定着し、1部リーグの名門、ペニャロールとナシオナルが彼を巡って争奪戦を繰り広げた。破格の条件を提示されたバレルは43年にペニャロールへ移籍、44年には高いキャプテンシーでチームを6年ぶりの優勝に導き、「ネグロ・ヘフェ(黒い闘将)」と呼ばれるようになった。

46年、バレラらが中心となってウルグアイプロ選手会が発足、リーグ及びクラブに選手の待遇改善や権利の獲得を求めた。そして要求に応じようとしない幹部たちへ対し、48年にストライキを決行する。リーダーのバレルは関係者から妨害を受けるが、意志を貫通。ついに要求の一部を認めさせ、ストライキは49年に終結した。

ラ・セレステのキャプテン

50年、ウルグアイはブラジルで開催される第4回Wカップへの参加を表明。南米に棄権チームが出たため、予選を経ずに出場が決まった。第1回大会チャンピオンのウルグアイだが、ヨーロッパで開かれた2回の大会には不参加、戦争による中断時期もあり20年ぶりの出場となった。

バレルはすでに32歳となっていたが、代表キャプテンに選ばれ、初めてとなるWカップに臨んだ。大会直前に棄権国が出るも、グループリーグの組み替えは行われず、ウルグアイはボリビアのみと対戦。格下を8-0と一蹴して、決勝リーグへ勝ち上がった。

優勝を決める決勝リーグを戦うのは、ブラジル、ウルグアイ、スウェーデン、スペインの4ヶ国。抽選の結果、ウルグアイは最終戦でブラジルと戦うことになった。

ブラジルはスウェーデンとスペインを難なく下し、勝ち点4の1位。ウルグアイはスウェーデンに勝ったが、スペインとは引き分け、勝ち点3の2位となった。そして7月16日の決勝リーグ最終節、20万人以上の観客を集めたマラカナン・スタジアムで、優勝を決める戦いが行われた。

四面楚歌の戦い

国民の後押しを受けたブラジルに、ウルグアイは防戦一方。開始から30分の間、ウルグアイのチャンスは数えるほどしかなかった。だが猛攻を仕掛けるブラジルに、ウルグアイGKのマスポリが好セーブで凌ぐと、バレルも冷静にチームを統率して前半を0-0で折り返した。

しかし後半に入った47分、セレソンのエース・アデミールが相手DFを引きつけ、抜け出したフリアカへスルーパス。ブラジルに先制点が生まれると、スタンドは一気に興奮のるつぼと化した。しかしこのとき、猛然と線審の元に駆け寄ったのがバレルだった。

バレルは線審が一瞬オフサイドの旗を上げたのを見逃さず、判定が覆らないと分かりながらも抗議を行ったのだ。人々で溢れた会場からはバレルへ非難の目が向けられ、一斉に怒号の声が飛んだ。それでもウルグアイのキャプテンは怯むことなく、毅然たる態度で抗議を続けた。そうすることで、ブラジルの勢いを止めようとしたのである。

数分間の抗議ののち、バレルは試合に戻って「チャンスはまだある」と仲間を鼓舞する。一方、熱狂する観客の声に冷静さを失ったブラジルは、守備固めを忘れてさらなる攻撃に出た。すると66分にウルグアイが反撃、バレラが右サイドのスペースにボールを送ると、抜け出したギッジャがクロス、スキアフィーノの同点弾が決まった。

実は前半の28分、ギッジャと激しくやり合っていたブラジルのディフェンダーに、バレラが一喝を喰らわせるという出来事が起きていた。バレラに一喝されたそのディフェンダーは、威圧感でギッジャのマークが甘くなってしまったと言われている。

マラカナンの逆転劇

抱き合いながら喜ぶウルグアイ選手たち。しかしバレラはにこりともせず「早く戻るんだ」と仲間に声を掛け、「絶対に逆転するぞ」と叱咤の声を上げた。

引き分けでも優勝のブラジル、決して焦る必要はなかった。しかし浮き足だったセレソンたちは、攻撃を開始、またもや空いたスペースを狙われてしまう。79分、再びバレラのパスからギッジャが右サイドを突破、そのままゴール前へ切れ込み、逆転弾を叩き込んだ。

静まりかえる、マラカナン・スタジアム。そしてブラジル選手たちの動きは、金縛りに遭ったかのように止まってしまった。こうしてウルグアイが2-1と逆転優勝、混乱する会場の中で、キャプテンのバレラはジュール・リメFIFA会長から短い祝辞と優勝トロフィーを受け取った。そしてブラジルはこのあと「マラカナンの悲劇」の呪縛に苦しむことになる。

54年、36歳となったバレラは再びキャプテンとしてWカップ・スイス大会に出場、準々決勝のイングランド戦では強烈なミドルシュートを決めた。しかしこの試合で右足靱帯を損傷、準決勝ハンガリー戦は欠場となりウルグアイも敗退してしまった。そしてこの大会を最後にバレルは代表を退き、翌年には現役も引退する。

引退後は悠々たる生活を送り、94年にFIFA功労賞を受賞。晩年は心臓疾患に苦しみ、96年にモンテビデオ市内の自宅で死去した。享年78歳だった。

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