「 マラカナンの勝者 」 オブドゥリオ・バレラ ( ウルグアイ )
決して器用なテクニシャンタイプではないが、がっちりとした体格で競り合いに強く、並外れたキック力を備えたセンターハーフ。ディフェンスを主たる役目としながらも、展開力を発揮して攻撃にも参加。旺盛な闘争心でチームを鼓舞したウルグアイのキャプテンが、オブドゥリオ・バレラ( Obudulio Jacinto Muiñs Varela )だ。
1936年に加入したデポルティーボ・フベントゥで頭角を現し、その2年後にモンテビデオ・ワンダラーズFCへと移籍。ここでの活躍が認められて、43年にはモンテビデオの名門CAペニャロールへ移籍。キャプテンとしてチームを率い、ペニャロールを6度のリーグ優勝に導く。
50年に出場したブラジルW杯の決勝では、ファイティング・スピリットと卓越したリーダーシップで、劣勢を強いられたチームを鼓舞。フィールドを走り回り、展開力を発揮してチームを逆転勝利に導く活躍で「マラカナンの勝者」となった。54年W杯にも出場。
オブドゥリオ・バレラは1917年9月20日、首都モンテビデオ南部にあるテーラ地区で7人兄弟の末っ子として生まれた。父親は腸詰めソーセージを売り歩く小売人、母親は内陸部出身の黒人だった。バレラはサッカー好きだった父親の手ほどきを受け、幼少頃からボールを蹴り始める。
だが彼が7歳の時、貧乏が原因の家庭内不和で父親が家を出て行ってしまう。すると、まだ小さかったバレラも家計を助けるため、新聞売りや靴磨きをして小銭を稼ぐようになった。最初小学校にも通ったがそれも3年で辞め、昼夜働きながら、仕事の合間にストリートサッカーで楽しむという生活を送る。
1930年7月、ウルグアイで第1回大会となるワールドカップが行われた。当時12歳のバレラは、準決勝と決勝をセンテナリオ・スタジアムのゴール裏や立ち見席で観戦。母国代表の優勝を目撃して感激し、サッカー選手への憧れを強くする。
その2年後の32年、地元のアマチュアクラブに入団。体格の大きなバレラはセンターハーフとして頭角を現し、別の強豪クラブへ移籍。ここで徹底的に自分を磨き、本格的にプロを目指すようになった。
36年には市のU-20選抜メンバーとなり、アルゼンチン遠征へ参加。そこでプロチームの誘いを受けるが、申し出を断って帰国する。すると間もなくウルグアイ2部リーグのデポルティーボ・フベントゥからオファーが舞い込み、ついに念願のプロ契約を結ぶことになった。
バレラのひたむきなプレーは監督の信頼を得て、レギュラーの座を獲得。ほどなくキャプテンも任される。38年、ウルグアイ1部リーグの強豪モンテビデオ・ワンダラーズに請われ移籍。すぐに攻守の要として中心的役割を担うようになり、20歳の有望選手として注目され始める。
39年1月、“ラ・セレステ”(空色)の愛称を持つウルグアイ代表に初招集。そしてその年ペルーで開かれた南米選手権のチリ戦でデビューを果たすと、次のパラグアイ戦にも出場して準優勝メンバーとなった。
41年にチリで開催された南米選手権にも参加。当初ベンチ要員だったバレラは4戦目のペルー戦に出場。代表初ゴールを挙げて2-0の勝利に貢献するも、ウルグアイは2大会連続の準優勝に終わる。
42年に地元ウルグアイで開催された南米選手権では、6試合すべてに先発出場。決勝でアルゼンチンを1-0と下し、ウルグアイは4大会ぶり8度目の優勝を達成。バレラは初の国際タイトルを手にした。
この頃からバレルは「国内最高のセンターハーフ」の評価が定着し、1部リーグの名門、ペニャロールとナシオナルが彼を巡って争奪戦を繰り広げた。破格の条件を提示されたバレルは43年にペニャロールへ移籍、44年には高いキャプテンシーでチームを6年ぶりの優勝に導き、「ネグロ・ヘフェ(黒い闘将)」と呼ばれるようになる。
46年、バレラらが中心となってウルグアイプロ選手会が発足。リーグ及びクラブに選手の待遇改善や権利の獲得を求めた。そして要求に応じようとしない幹部たちへ対し、48年にストライキを決行する。リーダーのバレルは関係者から妨害を受けるが、最後まで意志を貫通。ついに要求の一部を認めさせ、ストライキは49年に終結した。
その49年、ペニャロールにはバレラのほか、守護神ロケ・マスポリ、エースのファン・スキアフィーノ、驚異的なスピードを誇る右ウィングのアルシデス・ギッジャ、小柄で機敏な左ウィンガーのエルネスト・ヴィダル、国内屈指の点取り屋オスカル・ミゲスら優秀なタレントが揃い、「暗殺部隊」と恐れられる最強チームを形成。16勝2分と無敵の強さで4季ぶりにリーグを制する。
50年、ウルグアイはブラジルで開催される第4回W杯への参加を表明。だがアルゼンチンやペルーなど棄権するチームが続いたため、ウルグアイは予選を経ることなく出場が決まった。第1回大会チャンピオンのウルグアイだが、ヨーロッパで開かれた2回の大会には不参加。戦争による中断時期もあり20年ぶりの参加となった。
バレルはすでに32歳となっていたが、代表キャプテンに選ばれ、初めてとなるW杯に臨む。大会直前にフランスが出場を取りやめるも、代替国の選定やグループリーグの組み替えは行われず、第4組に入ったウルグアイはボリビアのみとの対戦。ミゲスやスキアフィーノらペニャロール勢の活躍で格下を8-0と一蹴して、決勝リーグへ勝ち上がる。
優勝を決める決勝リーグへ駒を進めたのは、ブラジル、ウルグアイ、スウェーデン、スペインの4ヶ国。抽選の結果、ウルグアイは最終戦でブラジルと戦うことになった。
決勝リーグ初戦の相手はスペイン。試合は前半29分にギッジャのゴールで先制するも、このあとバゾラの2ゴールで逆転を許す。ピンチに立たされたウルグアイだが、73分に主将バレラが気迫のこもったプレーで同点弾。どうにか2-2の引き分けに持ち込んだ。
続くスウェーデン戦も開始わずか5分で失点するという苦しい立ち上がり。39分にギッジャのミドルで追いつくも、直後の40分にGKマスポリのパンチングミスで再びリードされてしまう。またも窮地に追い込まれたウルグアイだが、後半にスウェーデンのヨハンソンが足を痛めて負傷退場。当時は選手交代が認められていなかったため、数的優位となったラ・セレステに流れが傾く。
終盤に入った77分、ミゲスが豪快にゴールを叩き込んで同点。85分にもミゲスが逆転弾を決め、ウルグアイが辛うじて3-2の勝利を収めた。
そして決勝リーグの第3節は、2勝のブラジルと1勝1分けのウルグアイによる優勝を懸けた最終決戦。開催国ブラジルは引き分けでも良いという有利な状況で、国民の誰もがセレソンの初優勝を信じて疑わなかった。
開催国ブラジルとの決戦は、マラカナン・スタジアムに約20万人の観客を集めて行なわれた。当日朝の地元新聞紙は「ここに世界チャンピオンがいる」と、まるで母国の優勝が決まったかのような扱い。バレラ主将は試合前にその新聞を選手に見せ、チームの奮起を促した。
試合が始まると、国民の後押しを受けたブラジルにウルグアイは防戦一方。開始から30分の間、ウルグアイのチャンスは数えるほどしかなかった。だが猛攻を仕掛けるブラジルに、ウルグアイ守護神のマスポリが好セーブで凌ぐと、バレルも冷静にチームを統率して前半を0-0で折り返した。
しかし後半に入った47分、セレソンのエースであるアデミールが相手DFを引きつけ、抜け出したフリアサへスルーパス。ブラジルに先制点が生まれるとスタンドは一気に興奮のるつぼと化した。しかしこのとき、猛然と線審のもとに駆け寄ったのがバレルだった。
バレルは線審が一瞬オフサイドの旗を上げたのを見逃さず、判定が覆らないのを承知で抗議を決行。人々で溢れた会場からはバレルへ非難の目が向けられ、一斉に怒号の声が飛んだ。それでもウルグアイのキャプテンは怯むことなく、毅然たる態度で抗議を続行する。そうすることでブラジルの勢いを止めようとしたのである。
数分間の抗議ののち、バレルは試合に戻って「チャンスはまだある、もっと魂を!」と仲間を鼓舞する。一方のブラジルは熱狂する観客の声に冷静さを失い、守備固めを忘れてさらなる攻撃に出た。
すると66分にウルグアイが反撃。バレラが右サイドのスペースにボールを送ると、抜け出したギッジャがクロスを送り、スキアフィーノの同点弾が決まった。
実は前半の28分、ギッジャと激しくやり合っていたブラジルのディフェンダーに、バレラが一喝を喰らわせるという出来事が起きていた。バレラに一喝されたそのディフェンダーは、あまりの威圧感で萎縮してしまい、ギッジャへのマークが甘くなってしまったと言われている。
同点ゴールが決まり、抱き合いながら喜ぶウルグアイ選手たち。しかしバレラはニコリともせず「早く戻るんだ」と仲間に声を掛け、「絶対に逆転するぞ」と叱咤の声を上げた。
引き分けでも優勝のブラジルに、決して焦る必要はなかった。しかし浮き足だったセレソンたちは攻撃を開始、またもや空いたスペースを狙われてしまう。79分、再びバレラのパスからギッジャが右サイドを突破。そのままゴール前へ切れ込み、逆転弾を叩き込んだ。
信じられない光景を目の当たりにし、静まりかえる満員のマラカナン・スタジアム。そしてセレソンたちの動きは、金縛りに遭ったかのように止まってしまった。
こうしてウルグアイが2-1と逆転優勝。混乱する会場の中でキャプテンのバレラは、ジュール・リメFIFA会長から短い祝辞と栄光の優勝トロフィーを受け取った。優勝を目前で逃したしまったブラジルは、このあと「マラカナッソ(マラカナンの悲劇)」の呪縛に苦しむことになる。
「マラカナンの勝者」となったバレルは、その後もペニャロールの主力選手として活躍。51、53、54年のリーグ優勝に貢献し、チームの隆盛期を支えた。
ブラジルW杯後はしばらく代表を離れ、53年の南米選手権は不参加となったが、54年W杯(当時、優勝国には次大会の出場権が与えられていた)が近づき、W杯優勝メンバーの多くが “ラ・セレステ“ へ復帰。36歳のバレラは再び代表キャプテンを務めた。
54年6月、Wカップ・スイス大会が開幕。初戦はミゲスとスキアフィーノのゴールでチェコスロバキアに2-0の勝利。続く第2戦はスキアフィーノの自在な動きがスコットランドを寸断し、ミゲルのハットトリックなどで7-0の完勝。同組シードのウルグアイは、堂々のグループ首位突破を果す。
準々決勝はスタンリー・マシューズ擁するイングランドと対戦。試合は1-1で進んだ前半の38分、バレラの強烈なシュートが決まり勝ち越し。さらに後半立ち上がりの46分、バレラのFKからスキアフィーノが3点目を叩き込みリードを広げる。このあと両チーム1点ずつを取り、ウルグアイが4-2の勝利。2大会連続の準決勝進出を決めた。
しかし主将のバレラは試合中に右足靱帯損傷の大怪我を負い、次戦の欠場を余儀なくされる。チームの要を失ってしまったウルグアイは、優勝候補ハンガリーとの準決勝で2-4の敗戦。オーストリアとの3位決定戦も1-3と敗れ、大会ベスト4に終わる。
バレラはこの大会を最後に代表を引退。16年間の代表歴で45試合に出場、9ゴールの記録を残す。
翌55年2月には37歳で現役を引退。同年一緒に引退したマスポリとともにペニャロールの共同監督を務めるが、1年で退任。その後はチャリティーゲームに参加しながら全国を巡った。
プレーを辞めたあとは、モンテビデオ・カジノの管理職に就職。ここで55歳まで働き、ギャラの安かった選手時代以上の報酬を稼いだと言われる。
そのあと悠々たる余生を送り、94年にFIFA功労賞を受賞。晩年は心臓疾患に苦しみ、96年にモンテビデオ市内の自宅で死去した。享年78歳。