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鬼才オーソン・ウェルズ 神童の限界

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神童の虚像

21歳にして演劇界で注目を集めると、23歳の時にはラジオドラマ『宇宙戦争』で世間を騒がせ、26歳で映画史に残る傑作『市民ケーン』を撮ってしまった神童オーソン・ウェルズ。常識に囚われない自由な発想と大胆さがウェルズのウェルズたるゆえんだが、天才にありがちな気まぐれさと尊大さで、キャリアの後半生はその才能を生かし切れなかったという印象だ。

監督としては長編処女作の『市民ケーン』がピークとなり、俳優としては31歳の時に演じた『第三の男』のハリー・ライムを超える役を演じることはついになかった。ウェルズは歴史に残る二つの名作の呪縛から逃れることが出来なかったのだ。

おそらくある年代の人たちにとってのオーソン・ウェルズとは、英会話の教材で低音ボイスを響かせる名物ナレーター、もしくはウイスキーのコマーシャルで圧倒的なオーラを放つ怪優、というイメージしかないはず。かつて神童と称えられたウェルズだが、晩年はその虚像だけが大きくなってしまった言えるだろう。

早熟の奇才

オーソン・ウェルズは1915年5月6日、ウィスコンシン州のケノーシャで生まれている。両親とは早くに死別してしまうが、上流家庭に生まれたウェルズは幼い頃から詩、絵画、音楽を習い、その才能を磨いていった。その素顔は奇抜さで人を驚かすことを好むような、少し風変わりな少年だったようだ。

15歳でイリノイ州の学校へ進学すると、そこで演劇に打ち込むようになり劇団を組織、俳優兼演出家として早熟ぶりを発揮する。16歳でアイルランドに渡り演劇を学んだ後、一時はモロッコで放浪生活を送るが、34年に作家のソートン・ワイルダーに認められてブロードウェイの舞台に立っている。

36年、21歳の時にニューヨークでオール黒人キャストの舞台劇『マクベス』を演出。多くの中傷を受けながらも、ウェルズはこの舞台を成功させる。その後も労働問題を扱った『ゆりかごは揺れる』などの舞台をヒットさせ、たちまち演劇界の神童と注目されるようになった。

37年には舞台プロデューサーのジョン・ハウスマンと「マーキュリー・シアター」を設立、この劇団に参加したジョセフ・コットンとは生涯を通じた盟友となる。

「市民ケーン」の呪縛

「マーキュリー・シアター」は舞台だけではなく、ラジオドラマの分野にも進出する。そしてH・G・ウェルズのSF小説をオーソン・ウェルズが翻案し、劇団員が演じる『宇宙戦争』が、38年10月のハロウィーンの夜にラジオで生放送された。

ニュース・スタイルで作られたこのドラマは、(途中で「これはフィクションです」の断わりを入れたにもかかわらず)巧みな構成とリアルな演技で、大勢の聴衆者をパニックに陥れ大騒動となった。こうしてウェルズの名前は、23歳にして全米に知れ渡ることになる。

この頃短編映画も手がけていたウェルズだが、彼の才能に目を付けたハリウッドのRKOと長編映画製作の契約を結ぶ。映画製作に関してRKO側は一切口を出さないという、破格の条件内容だった。しかし第1候補としたジョセフ・コンラッドの『闇の奥』は、製作費が掛かりすぎるということで断念。(のちにコッポラが『地獄の黙示録』で映画化)その代わりに『市民ケーン』が作られることになった。

ウェルズの監督・主演・共同脚本による『市民ケーン』は今でこそ歴史に残る名作とされているが、モデルとなった新聞王ハーストからの妨害を受け、興行的には惨敗する。ウェルズには「金を生まない天才」「アートの独裁者」のレッテルが貼られ、その後の創作活動に大きな影を落とすことになった。

栄光と失意の日々

翌年に製作・監督した『偉大なるアンバーソン家の人々』はプロデューサーによってズタズタにされ(編集はロバート・ワイズが担当)、RKOとの契約も打ち切りとなる。妻のリタ・ヘイワースと出演した48年の『上海から来た女』も知らぬ間に編集され、作品は一定の評価を得たものの客入りは今ひとつだった。

役者としては49年の『第三の男』で存在感を見せるが、映画の資金集めのためB・C級作品への出演も増えていく。58年にはチャールトン・ヘストン主演のフィルム・ノワール『黒い罠』を監督。この作品も勝手にハサミを入れられ尺を短くされて、そのことに失望したウェルズはハリウッドを去り、活躍の拠点をヨーロッパへ移す。

ちなみに『黒い罠』は興行的にも批評的にも失敗作となったが、車をカメラが延々と追い続ける冒頭の3分20秒に及ぶ長回しは後の監督たちに衝撃を与え、今ではカルト的評価を受ける作品となっている。

未完の巨匠

しかし才能溢れるウェルズがキャリアの下降線をたどることになったのは、彼の気質に問題があったからだとも言える。そもそも、いくつもの作品を勝手に編集されてしまうのは、一旦撮影を終えると長期に作品をうっちゃっておくというルーズさから起きたこと。根っからの天才肌であるウェルズは、スケジュールに合わせるという概念がまるでないのである。

例えば『風の向こうへ』という作品は70年に製作が開始されたが、撮影は終わりが見えないまま断続的に続けられ、85年にウェルズが死去して未完成となる。この作品は最近になってピーター・ボグダノビッチによる40年越しの編集が行われ、やっと2018年にNetflixで配信されている。

スタッフが準備を整えても、イマジネーションが沸くまで撮影に入ろうとはしなかったウェルズ。催促をかけるスタッフに、「バカもん! 何をやればいいか自分にも分かってないんじゃ!」と怒鳴ったといいうエピソードが伝わっている。

その他にも、中止となった撮影や頓挫した企画は数知れず。55年にメキシコで撮影を開始した「ドン・キホーテ」に至っては、構想の固まらぬまま撮り続けた挙げ句、ついにドン・キホーテとサンチェを演じた役者は故人となり、少女を演じていた子役も母親になっていたという笑えない話もある。

とにかく常識のスケールでは測りきれないのがウェルズという人物だが、それが決して良い創作活動に結び付かないのが神童の限界だとも言えるだろう。

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