「 ゴールを撃ち抜くアイスマン 」デニス・ベルカンプ (オランダ)
柔らかなボールタッチと完璧なトラップから芸術的なゴールを生み出し、知性と創造性あふれるセンター・フォワード、あるいはセカンド・ストライカーとして、世界のファンを魅了したオランダ人プレイヤーが、デニス・ベルカンプ( Dennis Nicolaas Maria Bergkamp )だ。
ゴール前で見せる冷静なプレーと、映画『トップガン』のキャラクターから「アイスマン」の異名を持つベルカンプ。アーセナルのベンゲル監督は「一級のインテリジェンスで、高いテクニックを効果的に使えるプレイヤー」と絶大な信頼を寄せ、共にクラブで一時代を築いたアンリは「今までパートナーを組んだ選手の中では、最高の選手だ」と惜しまぬ賞賛を送っている。
オランダ代表としては92年の欧州選手権や94年と98年のワールドカップで活躍。代表通算37得点はあのクライフやファン バステンを凌ぐもので、クライファートに抜かれるまで歴代1位の記録だった。
だが一方では、極度の飛行機嫌いで知られるベルカンプ。どんなに距離があっても陸路を使って試合に参加したため、クライフのニックネームをもじった「飛ばないオランダ人」の、有り難くないあだ名を貰っている。
デニス・ベルカンプは69年5月10日、アムステルダムに誕生した。電気工の父親は地元のアマチュアクラブに所属するほどのサッカーファンで、赤ん坊の名前はマンチェスター・ユナイテッドのスター、デニス・ローにあやかって付けられている。
歩けるようになった頃からボールで遊んでいたベルカンプ。7歳から父親が所属するクラブのジュニアチームで試合に出始めると、早くも名門アヤックスが誇る育成組織の目に止まる。そして11歳でアヤックス・アカデミーに入団。トータルフットボールの流れを汲むアヤックス・システムの英才教育を受け、その才能を伸ばしていく。
85年、クライフがアヤックスの監督に就任。ジュニアチームの練習でベルカンプの資質に目を付けたクライフは、まだ17歳だった彼をトップチームに引き上げ、86年12月の公式戦で試合途中からのデビューをさせる。
成長途中の華奢な身体と、内向的な性格で最初のシーズンは実力を発揮できなかったベルカンプだが、87年にエースのファン バステンがACミランに移籍すると、高いスキルで頭角を現し始めレギュラーに定着する。そして89-90シーズンには5年ぶりとなるチームのリーグ優勝に貢献、90-91シーズンには25ゴールを記録して、PSVのロマーリオと並ぶリーグ得点王となった。
ここから3シーズン連続で得点王を獲得し、欧州屈指の点取り屋と目されるようになる。その彼のもとには世界最高峰リーグ・セリエAから幾多のオファーが舞い込み、自身の選択で93年にインテル・ミラノへ移籍することになる。
インテルではセンター・フォワードを任されたベルカンプだが、イタリアの戦術に溶け込めずに前線で孤立してしまう場面が続いた。しかも内気な性格から仲間とも馴染めず、持てる力も発揮出来ないでいたのだ。そしてセリエAにおける最初のシーズンは8ゴールに留まり、インテルも13位と低迷してしまった。
監督が交替した翌シーズンはベンチを温めることが多くなり、記録したのは僅か3ゴール。チームも優勝争いに加わることなく、94-95シーズンを6位で終える。高額の移籍金に見合わない実績しか残せないベルカンプには、「史上最高額のガラクタ」の汚名が着せられることになった。
代表へは90年に初めて選出され、9月26日のイタリア戦でデビュー、11月のギリシャ戦で初ゴールを記録した。そして2年後にスウェーデン開催されたユーロ92のメンバーにもなり、優勝候補のオランダは準決勝で敗退してしまうが、ベルカンプは3得点を挙げる活躍でオランダの年間最優秀選手に選ばれている。
94年には、Wカップ・アメリカ大会に出場。この年インテルでは不振を極めていたベルカンプだが、代表ではセカンド・ストライカーのポジションで3得点と復活の兆しを見せ、フリットとファン バステンの抜けた攻撃陣をカバーし、ベスト8進出に貢献する。
95年、インテルを事実上の戦力外となったベルカンプは、新天地を求めプレミアリーグのアーセナルに移籍した。プレミアリーグの高く押し上げるDFラインは、ベルカンプにスキルを活かすスペースを与え、インテル時代とは見違えるようなパフォーマンスを引き出すことになる。
最初のシーズンは11ゴール、チーム成績もリーグ5位に留まったが、幅を広げたベルカンプのプレーは魅惑的で可能性を感じさせた。96年、アーセン・ベンゲルが監督に就任。ここからアーセナルは大きな変貌を遂げることになる。
ベンゲルはクラブの強化環境を一変、徹底した栄養管理や科学的トレーニングの導入を行い、攻撃的かつ柔軟な戦術をチームに浸透させていく。ベルカンプは華麗な身のこなしで得点を狙いながら、高いスキルとイマジネーションを発揮してゲームを組み立てる役割も請け負った。
97-98シーズンは16得点を記録し、リーグ優勝とFAカップ優勝の2冠獲得に貢献。ベルカンプはプロ選手協会( PFA )と記者協会( FWA )の年間最優秀選手賞をダブルで受賞する。
その好調さのまま、ベルカンプは98年のWカップ・フランス大会に臨む。準々決勝アルゼンチン戦では、終了直前の89分に鮮やかなトラップから決勝点、ワールドカップの歴史に残る芸術的なゴールとなった。ゴールまでを逆算したトラップで相手を出し抜く技は、ベルカンプの得意とするプレーだった。
しかしPK戦にまでもつれた準決勝では、ブラジルに敗れてオランダはベスト4止まりとなる。自国開催のユーロ2000(ベルギーと共催)にも出場するが、またもや準決勝でイタリアにPK戦で負け、この大会を持最後にベルカンプは31歳で代表を退いた。
代表引退後もプレミアリーグ屈指の強豪クラブとなったアーセナルで、ベルカンプは中心選手として活躍を続ける。そして02年3月2日のニューカッスル戦、今も語り継がれる伝説的プレーが生まれた。
試合開始の11分、サイドハーフのピレスから、DFを背後に抱えたベルカンプへグラウンダーのボールが送られた。ベルカンプは右側のスペースにボールを浮かせると、逆方向に反転、一瞬でDFを剥がした。するとボールはいつの間にかベルカンプの足下に収まり、その右脚からゴールが決まる。まさにアイデア、技、切れ味、オリジナリティーと四拍子揃った、芸術品のようなゴールだった。
06年、37歳となったベルカンプはアーセナルで現役を引退する。引退後は古巣アヤックスのアシスタントコーチを、17年まで務めた。