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《 サッカー人物伝 》 ジャンニ・リベラ

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「伝説のファンタジスタ」ジャンニ・リベラ(イタリア)

華奢な体格ながら、群を抜くテクニックとインスピレーションを持ち、華麗に相手をかわして繊細かつ鋭いパスでチャンスを演出。また高いシュート技術でいくつも得点を決め、60年代から70年代にかけてイタリアの“伝説のファンタジスタ” となったのが、ジャンニ・リベラ( Giovanni Rivera )だ。

15歳でセリエAデビューを果たすと、17歳で名門ACミランの10番を背負った早熟の天才児。そして62年に19歳でミランを欧州チャンピオンズ・カップ優勝に導き、「バンビーノ・デ・オロ(ゴールデン・ボーイ)」の名を欲しいままにした。

長年ミランの頭脳として君臨、幾多ものタイトルをチームや自身にもたらしたリベラ。だがその繊細なスタイルと、サンドロ・マッツォーラという強力なライバルの存在により、イタリア代表では今ひとつ目立った活躍を残すことが出来なかった。

ミランの「バンビーノ・デ・オロ」

ジャンに・リベラは第二次大戦中の1943年8月18日、イタリア北部ピエモンテ地方の小さな都市、アレッサンドリアのバッレ・サン・バルトロメオ地区で生まれた。父テレシオは鉄道会社に務める労働者で、母のエデラアロバは専業主婦。のちにマウロという弟も生まれた。

少年時代は草サッカーで天性のセンスを活かしたスタイルを磨き、10歳で地元クラブのアレッサンドリアにスカウトされ入団。59年6月にはトップチームへ昇格し、インテル・ミラノ戦で15歳288日でのセリエAデビューを果す。

トップ昇格の58-59シーズンはこの1試合の出場にとどまったが、翌シーズンの開幕戦、アレッサンドリアは前年チャンピオンのACミランをホームに迎え、リベラもゲームのピッチに立った。そしてこの若者のプレーがミラン首脳陣の注意を引き、名門クラブへの道が開かれたのである。

開幕まもない9月のサンプドリア戦でセリエA初ゴールを記録。プロ2年目は25試合6ゴールの成績を残し、アレッサンドリアのセリエB降格が決まったシーズン終了後に、ACミランと契約を交わす。

ミランでは退団の決まっていたファン・スキアフィーノの後継者と期待され、60年9月に行なわれたコッパ・イタリアの試合で新チームでのデビュー戦に臨んだ。その対戦相手は古巣のアレッサンドリアだった。翌週にはカターニャ戦でミランでのリーグデビューを飾り、6週間後のユベントス戦で初ゴールを記録する。

ジョゼ・アルタフィーニニルス・リードホルム、チューザレ・マルディーニ、ジョバンニ・トラパットーニと一流選手が揃う中、リベラは移籍1年目からレギュラーの座を獲得し、30試合6ゴールの成績を残す。

翌61-62シーズンは、エースのスキアフィーノ(22ゴールで得点王)をサポートしながら自らも10得点を挙げ、主力の一人としてスクデット獲得に貢献。若きホープにはたちまち「バンビーノ・デ・オロ(ゴールデン・ボーイ)」のニックネームが付けられた。

チャンピオンズカップ初優勝に貢献

イタリア王者となったミランは62年のチャンピオンズカップに出場。トーナメントを順調に勝ち進み、ウェンブリー・スタジアムで行われた決勝戦で、大会2連覇中の強豪ベンフィカと対戦する。

開始18分、「黒豹」エウゼビオのゴールでベンフィカが先制。だが後半の58分、リベラのショートパスが跳ね返ったところを、アルタフィーニが素早く拾って同点弾を決めた。

その8分後、リベラがベンフィカ守備陣の乱れを突いて、ゴールへ駆け込むアフタフィーニにスルーパス。シュートは一旦GKに跳ね返されたものの、リバウンドをアルタフィーニが確実に押し込み決勝点。こうしてミランは念願となる初のビッグイアーを手にした。

この活躍により、19歳のリベラはバロンドール投票でレフ・ヤシンに続く2位の票を集め、「バンビーノ・デ・オロ」の名を広く知らしめることになったのである。

ワールドカップの屈辱

イタリア代表としては、62年5月13日のベルギー戦で18歳にしてアズーリデビュー。半月後に開催されたWカップ・チリ大会のメンバーにも選ばれるが、2大会ぶりの出場となったイタリアは1次リーグで敗退。最年少のリベラも1試合に出場しただけだった。

高いテクニックを駆使し、センスと創造性にあふれる「ファンタジスタ」としてミラニスタたちを魅了したリベラ。だがその細身と繊細なプレースタイルから、激しいタックルを見舞ったり、乱戦の中に飛び込んだりするタイプの選手ではなかった。

そのため「走らない」「守備をしない」「汗をかかない」などのそしりを受けることもあったが、ミランのネレオ・ロッコ監督は「フィジカルの強い選手はいくらでもいるが、リベラの代わりはいない」と評価し、「意味なくボールを回すより、とにかくリベラに渡せ」とまで言わせた。

66年7月、リベラはWカップ・イングランド大会に出場。1次リーグの初戦はチリに2-0と勝利するが、第2戦はソ連に0-1の敗戦。最終節の北朝鮮戦にグループ突破が懸かることになった。

しかし驚異的な運動量を誇る未知の相手に、イタリアは大苦戦。42分には緩慢な動きを狙われたリベラがボールを奪われ、北朝鮮の先制を許してしまう。

こうして0-1と予想外の黒星を喫したイタリアは1次リーグ敗退となり、母国の空港に戻ったアズーリたちは、怒ったファンから腐ったトマトを投げつけられるという憂き目に遭ってしまった。

マッツォーラとのライバル関係

こうして無念の帰国となったリベラだが、インテルで同ポジションを務める1歳上のライバル、サンドロ・マッツォーラとの併用が難しいということも明らかとなってしまった。

68年には自国開催の欧州選手権に出場。リベラは準決勝のソ連戦で負傷退場し、ユーゴスラビアとの決勝は欠場を余儀なくされた。

結局イタリアは優勝を果たすことになるが、リベラの不在をマッツォーラが安定したゲームメークで埋め、インテルのライバルがポジション争いで優位に立つことになる。

ミランでは絶対的存在として君臨していたリベラだが、イタリア代表ではマッツォーラの2番手に甘んじたままだった。

バロンドール受賞

69年、チャンピオンズカップの決勝に進出したミランは、若きクライフを擁するアヤックスを4-1で下して2度目の優勝を達成する。リベラは大黒柱としてチームを牽引し、最高のパフォーマンスを見せた。

欧州チャンピオンとなったミランは、同年のインターコンチネンタルカップに出場。ホームでの第1戦はエストゥディアンテス(アルゼンチン)に3-0と勝利し、第2戦は敵地ブエノスアイレスでの戦い。試合は相手の暴力行為により荒れ模様となり、負傷どころか昏倒する者さえ現れる乱闘戦となった。

この試合で先制点を挙げたリベラも標的として狙われ、顔面を殴打されたネストル・コンビは鼻を骨折して流血の惨事。ゲーム後には逮捕者も出る有様だった。第2戦は1-2の逆転負けを喫するが、2戦合計4-2でミランがクラブ世界一の称号を得る。

南米クラブの欧州への反感は年々過激さを増しており、75年と78年には欧州チャンピオンクラブが出場を辞退し開催が中止。そこで80年にインターコンチネンタルカップのホーム&アウェー方式を廃止し、中立地開催のトヨタカップへと装いを新たにすることになる。

そんなトラブルはあったものの、ロッソ・ネロのキャプテンだったリベラはその活躍が認められ、69年のバロンドールに選ばれる。

西ドイツ戦の激闘と失意の決勝戦

70年5月31日、Wカップ・メキシコ大会が開幕。リベラとマッツォーラという二人の優秀なゲームメーカーのほか、ルイジ・リーバ、ボニンセーニャ、ファケッティといった強力なタレントを揃えたイタリアは順調に勝ち進み、準決勝でベッケンバウアー擁する前回準優勝の西ドイツと対戦した。

開始早々ボニンセーニャのゴールでイタリアが先制。カテナチオを誇るイタリアの守備は堅く、試合はこのまま後半のロスタイムに入った。しかし終了直前にシュネリンガーの同点ゴールが生まれ、延長に入った94分にはゲルト・ミュラーに勝ち越し点を決められる。

だがその4分後にはイタリアが同点とし、延長前半の終了直前にはリーバが勝ち越し弾。イタリアに流れが傾いたかと思えたが、延長後半の110分にミュラーが3-3となる同点弾を決め、試合の行方は分からなくなってしまった。

歴史に残る大激戦となったこの戦いに決着を付けたのは、後半46分からマッツォーラに代わり投入されたリベラだった。試合が振り出しに戻った直後のリスタート、ボニンセーニャが早い動き出しから左サイドを突破し、クロスを上げる。そこへ走り込んだリベラが、ゴールの中央へ決勝弾を叩き込んだ。

こうして決勝に進出したイタリアだが、ペレ擁するブラジルとの試合でリベラはベンチスタート。ブラジルに1-3とリードされ、ほぼ勝負が決まってしまった84分、ようやくリベラが決勝の舞台に投入された。だがその2分後、カルロス・アウベウトによる強烈なダメ押し弾が生まれ、なすすべもなく1-4の完敗。イタリアのファンタジスタは、失意のうちに大会を終えることになってしまった。

その後リベラ

リベラとマッツォーラは、74年Wカップ・西ドイツ大会にも出場。二人は2試合で同時にピッチへ立ったが、ロートル化していたイタリアは1次リーグで敗退、リベラはこの大会を最後に代表から退く。13年間の代表歴で60試合に出場、14ゴールの記録を残した。

72-73シーズンは、17ゴールを挙げて29歳にして初のリーグ得点王。ミラン黄金期のスターとして3度のスクデット獲得、4度のコッパ・イタリア制覇、チャンピオンズカップ優勝2回、カップウィナーズ・カップ優勝1回、世界クラブ王者1回と数々のタイトルをクラブにもたらし、79年に36歳で現役を引退。ミランの16年間で公式戦658試合に出場、164ゴールを記録した。

引退後はミランの副会長に就任するが、賭博スキャンダルやチームの弱体化によりクラブは経営不振に苦しむ。86年、「イタリアのメディア王」シルヴィオ・ベルルスコーニがミランを買収。副会長職から退きサポータクラブの会長になることを求められたリベラは、これを断り長年過ごしたクラブを離れた。

87年、国政選挙に立候補。4期連続当選を果たし、91年には国防省政務次官も務めた。しかし94年にベルルスコーニの「フォルツァ・イタリア」が政権を握ると、政界にも別れを告げた。その後はテレビの人気コメンテーターを務めていたが、09年に76歳で指導者ライセンスを取得し、久しぶりに注目されている。

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